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B級玩具傑作選 - 日光写真 [遊び]

日光写真.jpg 駄菓子屋で買えた『日光写真』を覚えてる? 昭和30年代に全盛期だったB級玩具の王様だ。ぼんくら少年の昭和40年代には、既に駄菓子屋の必須アイテムではなくなってはいたものの、日光写真自体を知らない友達もそうはいなかったと思う。
 アトムやパーマン、古くは少年ジェットやナショナルキッド、快傑ハリマオなんかの人気キャラが印刷されたトランプ大の紙箱で、中には"種紙"と呼ばれる白黒反転した絵柄を印刷したパラフィン紙(後期はプラスチック板)と遮光袋に入った感光紙が入っている。
 感光紙といっても、写真の感光紙のような敏感なものでもなければ、いわゆる青写真のように現像液も必要としない簡易式のもので、数分間、太陽光にさらすと化学反応を起こして黒く変色する物質が紙に塗ってあるだけのカンタンなものだった。だから取り扱いもラクで、感光紙の上に種紙を載せ、紙箱の紙押さえに挟み込んで直射光に当てるだけで日光写真は出来上がってしまった。もっともこのタイプは、出来上がった写真を喜び勇んで戸外で見ていると、アッという間に真っ黒けっけになってしまったし、部屋に置いておいたとしても数日後には暗黒の世界に消え去る運命にあった。
「あれ、覚えてるのは逆だぞ。放っておくと絵柄が消えて真っ白くなったような気がする」
 って人もいるかも。中には感光させた後、紙を水洗した人もいたはずだ。実は日光写真の仕組みはメーカーによって様々で、水洗を必要とするものなんかは、手間はかかっても絵柄は定着されて消えることがなかった。学研の『科学』では、このタイプを採用していたと思う。
 仕組みはカンタンでも不思議をお手軽に味わえるオモチャで、これがきっかけで、後に本当の写真の世界に足を踏み入れることになった人も決して少なくないだろう。昨今人気の化学実験キットでも、日光写真は定番メニューだ。日の下で日光写真を楽しむ、なんて休日もアリかもしれない。


■『PHATPHOTO』誌の付録で遊ぶ■



■日光写真の一種『キャノタイプ』の紹介(英語)■

もっと関心のある人は"Making Cyanotype Prints: Video Series"を観てね♪



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元祖お手軽健康器具『ぶらさがり健康器』 [社会現象]

ぶらさがり健康器1.jpg ある日、学校から帰ったぼんくら少年は、自宅の玄関を開けてのけ反るほど驚いた。縁側でぼんくら母が鉄棒のような器具からぶら下がっていたからだ。
「くぅ~」
 顔を真っ赤にしてぶら下がる母親の様子は、どうひいき目に見ても肉屋の冷凍庫状態だったんだけど、ドサッと床に崩れ落ちてヒィハァ言いながらもまんざらでもなさそうで、
「すごいんだよコレ! ぶら下がってるだけで健康になるんだって。アンタもやってみな♪」
「いいよ、こんなの学校で毎日やってるもん」
「バカだねぇ、学校の鉄棒とはワケが違うんだよ」
「何が違うの?」
「…うるさいねぇ、ゴチャゴチャ言ってないで外で遊んどいでっ」
 日本体育大学の塩谷宗雄教授によって提唱された『ぶらさがり健康法』をもとに、ぶらさがり健康器具の『サンパワー』が発売されたのは昭和53年(1978)。日本直販などのテレビ通販が絶大な力を発揮して、最盛期では日に20万台以上が売れるという爆発的なブームを呼んだ。1日に1分程度ぶら下がることで背筋を伸ばし、肩こりや腰痛、内臓疾患などに効果があるということで、いわゆる「お手軽健康法」であることも人気に拍車をかけたんだろうね。
ぶらさがり健康器2.jpg 効果・効用のほどは諸説あるので書かないけど、ぼんくら少年の両親がぶら下がっていたのは数ヶ月だった。しばらくは縁側の隅でハンガー掛けに使われていたんだけど、やがて何処かに姿を消してしまった。気になって、ぼんくら母に聞いてみたら、
「邪魔だから捨てた」
 とのこと。ぼんくら家に限らず、1年と経たずしてブームは終わってしまったのだった。
 余談だが、サンパワーを販売した某発明家は、一時は大金を手にしたものの、ブームの沈静化と類似商品の氾濫で大量の不良在庫を抱えて会社を倒産させてしまった由。以来、延々と続くことになるテレビ通販とお手軽健康ブームの祝祭的出発点ではあった。


■ぶらさがり健康器具を哲学的に考察できる動画■



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大阪発の『都こんぶ』が全国に広まったわけ [食]

都こんぶ1.jpg 駄菓子屋のお菓子の中で、好きなのか嫌いなのか分からないお菓子があった。酢こんぶだ。黒酢ベースの調味料で味付けを施した昆布のことで、ガムが普及するまでは、口寂しい時に頬張るお菓子の代表格だった。酸っぱいものに抵抗のあったぼんくら少年にとって、最初のひと噛みに勇気が要るくせに、その後は箱が空っぽになるまで止められない酢こんぶは不思議な駄菓子だった。
 酢こんぶを開発したのは、大阪に本社を置く中野物産株式会社の創業者、中野正一氏だ。昆布問屋に丁稚奉公していた時に、ハネモノの昆布をおやつ代わりに食べながら、
「こんぶに味付けしたらお菓子になるんちゃうやろか。もしかしたら売れるんちゃうやろか」
 と考えていたんだそうな。このアイデアを19才で独立した時に開発したのが『都こんぶ』の原型になったっていうんだから、さすがに創業者は違うよね。昭和6年(1931)のことだ。都こんぶの「都」は、中野氏の故郷である京都を指す。
 開発自体に大変な苦労があったことはもちろんだけど、中野氏の凄いところはその商才にあると言っていいだろう。発売当初は「ターゲットは子どもたち」という基本戦略を軸に効率的な売り込みを行ったのだ。駄菓子屋に効率よく商品が出回るように、菓子問屋の建ち並ぶ天王寺や松屋町へローラー作戦とも言える徹底した営業をかけ、さらに子供たちに直結する紙芝居屋にも強力な売り込みを行った結果、都こんぶは当時としては驚異的な早さで全国に知れ渡ることになった。
都こんぶ2.jpg 子供たちの顧客化に成功したところで、中野氏は戦略の軸足を大人に移す。この頃には都こんぶが大人にも受け入れられるお菓子であるという確信を得ていたのだ。そこで今度は売り込み先を映画館や演芸場、そして国鉄の売店へと広げていったのだ。
 駅の売店にも置いてもらえて、サラリーマンの背広のポケットにも女性のハンドバッグににも入り、しかも手のひらにすっぽり収まるサイズを模索した結果、小さな縦型の赤い紙箱に桜の花びらと都の文字をあしらった現在の都こんぶが誕生したのだった。
 現在、都こんぶシリーズは20種類を数える。じきに80周年を迎える今なお、都こんぶは新たなターゲットと商品展開を模索し続けている。


■酢こんぶで手品!■



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『赤チン』は元気な子どもの印だった [その他]

赤チン1.jpg 擦りむいた膝小僧や肘を真っ赤に染めて走り回る少年少女たち。と言っても血まみれの姿じゃないよ。傷口に『赤チン』を塗った子供たちの様子だ。
 赤いヨードチンキの短縮形が赤チンなわけで、正式名称はマーキュロクロム液だ。マーキュロクロムは青緑色あるいは緑がかった赤褐色の物質で、水銀を含んだ劇薬だ。道理で塗ったところに日が当たるとキラキラ光ったわけだ。
「えー、水銀!? 劇薬!?」
 そう思うかも知れないけど、傷口に塗っても体内に入り込む量は極めて少ない。液自体の濃度が低いために毒性も少なく、ゴクゴク飲んだりしなければ安全だと言われている。
 赤チンは大正8年(1919)アメリカの医師ヒュー・ヤングによって開発さた。手軽さと確実な効き目が評価されて世界中の家庭の常備薬として愛用されていたんだけど、日本では、作る際に水銀が発生することから昭和48年(1973)年に製造が中止され、さらに平成2年(1990)にアメリカの食品医薬局(FDA)によって水銀中毒の危険性が指摘されたことから、今度は使用が控えられるようになった。それでも人気は根強く、『マキロン(第一三共ヘルスケア)』が主流となった現在でも、海外で製造した原料を輸入することで各社から販売されている。
赤チン2.jpg 水銀中毒の指摘については嫌疑が晴れつつあるものの、製造段階で水銀汚染の恐れがあるものを海外で製造させれば問題ないってのは何だかねぇ。水銀自体を扱うことが問題なら蛍光灯なんか使っちゃいけないわけだし、蛍光灯の生産・回収が問題なく機能しているのなら、しかも需要があるのなら、しっかりした体制の下で国内生産を再開すべきだとも思うんだけど。
 間違いなく言えるのは、元気に外で遊び、生傷の絶えなかった昭和の子供たちを細菌から守ってくれたのが赤チンだったということだ。環境保護に熱心な方にお叱りを受けるのを覚悟でぼんくらオヤジは言いたいと思う。赤チンよ、ありがとう!


■赤チンをモチーフにした東ハト・キャラメルコーンのCM 1984年■



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昭和の名番組『どっきりカメラ』 [テレビ]

どっきりカメラ3.jpg 昭和44年(1969)、日テレのバラエティ番組『なんでもやりまショー』の1コーナーとして、昭和を代表する記念碑的な番組が誕生した。翌昭和45年(1970)10月からスタートした『どっきりカメラ』だ。
 アナウンサーの金原二郎が司会を務めた初代『どっきりカメラ』は半年後の昭和46年(1971)3月に終了。同年4月からは牧伸二を司会に迎えて『いたずら大作戦』としてスタートするも半年後の9月に打ち切りとなる。そして2年後の昭和48年(1973)10月に高橋圭三の司会で『ビックリ決定版!!』として再出発、名称も『びっくりカメラ』と改名されるが、これも半年後の昭和49年(1974)3月で終わってしまった。以降、平成元年(1989)までは『木曜スペシャル』の単発番組として3ヶ月に1度のオンエアとなった。
 木スペの単発番組『元祖どっきりカメラ』では、宍戸錠と石川牧子アナの司会にプラカード役の野呂圭介というお馴染みのコンビが誕生して黄金期を迎える。末期は司会が高橋英樹と山田邦子、プラカード役が笑福亭笑瓶が務めたものの、ついに平成の世に復帰することはなかった。
どっきりカメラ4.jpg ところで昭和63年(1978)に持病の悪化で中途降板し、全国ネットから姿を消してしまった野呂圭介さんだが、現在は湯布院で陶芸家としての人生を歩んでおられる。一時期は肝臓ガンで死も覚悟するほどの闘病生活も送った野呂さんだが、奇跡的な回復を遂げ、ランプシェードの製作に励む今、『どっきりカメラ』をこう振り返る。
「個人情報保護が叫ばれ、イジメに対して厳しい視線が注がれる今の時代、『元祖どっきり――』みたいなユニークな番組は絶対に制作できないでしょうね(日刊現代2008.8.6)」
 やらせ無しというコンセプトは絶対的で、野呂さんは心身ともに満身創痍だったらしい。一般の人々を巻き込む手法は未だに賛否両論があるだろうけど、一切のやらせを排する潔さと対象を無作為に選ぶ過激さには、以降の芸能人を対象としたどっきり番組には失われてしまったリアルさと気高さすら覚える。昭和とともに終焉を迎えた『どっきりカメラ』が、どこか平成の日本人が失ったものを暗示しているように思うのは、ぼんくらオヤジの考えすぎというものだろうか。

【お知らせ】 ぼんくらが日ごろお世話になっているブロガーのたかぽんさんが、この記事を取り上げてくださいました。そして下の動画の他にもっとたくさんの面白い画像を掲載してくださってます。ぜひ、そちらもご覧になってください♪ 


たかぽんさんのブログ: http://midorizaku.blog25.fc2.com/blog-entry-3839.html




■どっきりカメラ 年代不明■



■元祖どっきりカメラ 1986年 下のリンク(YouTube)からどうぞ♪■
http://www.youtube.com/watch?v=5ZvBWTJjnW0



■元祖どっきりカメラ 年代不明 下のリンク(YouTube)からどうぞ♪■
http://www.youtube.com/watch?v=N3ZJqtFDB_U



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昭和を代表する楽器『エレクトーン』 [音楽]

エレクトーン.jpg 昭和に隆盛を極め、昭和と共に影を潜めた楽器がある。エレクトーンだ。エレクトーンという名称はヤマハの電子オルガンの登録商標なんだけど、今や即、電子オルガンを指す言葉になっているといっていいだろう。
 エレクトーンは昭和34年(1959)年に誕生した。ぼんくらオヤジと同い年だから満50才ってことか。電子の"electronic"と音色の"tone"が名前の由来である通り、第1号機の『D-1』には当時の最先端技術だったトランジスタを281個も使用した超ハイテク機器だった。上下2段の鍵盤とペダル鍵盤で演奏し、それぞれの鍵盤には何種類もの音色を割り当てることができるというエレクトーンの基本形は、既にD-1の時点で完成していたといえる。D-1の発売に先立つこと7ヶ月前に発表されたET-5という試作機に2000個ものトランジスタが使われ、演奏にはプレイヤーの他に2人の技術者が必要だったことを思えば、D-1の開発にあたったヤマハの技術者はトンでもない力量があったのだ。
 昭和40年代は正にエレクトーンの全盛期で、当時、主に女の子の習い事だった鍵盤楽器は、ピアノとエレクトーンに二分していた。クラシック一辺倒だったピアノに対して、エレクトーンを習っている子供たちはジャズやラテン、果ては歌謡曲までを弾いて楽しんでいたので、ピアノを習っていたぼんくら少年は羨ましくて仕方がなかった。
エレクトーン2.jpg その後も、昭和49年(1974)にはアナログ・シンセサイザー音源を搭載したGX-1が登場して以降は、普及モデルもどんどんシンセサイザー方式の音源を用いるようになり、LSIが開発されると昭和58年(1983)にはFM音源が、昭和62年(1987)にはAWM音源が採用されてエレクトーンは進歩を続けていく。現在もエレクトーンは健在だけど、進歩すればするほどプリセット・シンセサイザー的な存在に埋没しつつあるのが現状だ。
 ところで、小林正岳さんという占い師を覚えているだろうか。1980年代にビートたけしの「スーパージョッキー」やテレビ東京の「もんもんドラエティ」なんかに出演していた『エレクトーン占い』の巨匠だ。無茶苦茶な演奏と外れた音程でご託宣を歌いあげる孤高のイメージがぼんくらオヤジには忘れられない。もう亡くなって久しいが、日本の技術の粋を集めた楽器と迷占い師のコラボを最後に堪能してもらいたいもんで、ひひひ。




付録: 小林先生語録① 
「あんなに下手なエレクトーンなら弾かなくてもいいのでは?」という質問に答えて-
「エレクトーン弾かなくても占えるよ。なぜ弾くかって?そりゃ目立つからさ」
付録: 小林先生語録②
「昨年末の占いが大外れしたことについて何か仰ることは?」と訊かれて-
「(歌いながら)占いとぉ~いうものわぁ~~~♪当たることもあれば~~♪外れることも~~♪あ~る~の~でぇ~~~す~~~♪」


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ぼんくらスクープ! - リカちゃんの男性遍歴を追う [遊び]

初代リカちゃん.jpg「こんにちわぁ! わたしリカ」
「くけけけけけ」
 言っとくけど変質者じゃないよ。女子に教えてもらったリカちゃん電話をぼんくら少年が聞いているシーンだ。…似たようなもんか。
 リカちゃんは昭和42年(1967)の生まれで、ダッコちゃんで名をはせたタカラ(現タカラトミー)の出身だ。顔立ちの原案は、現在も『悪女聖書』で意気軒昂な漫画家の牧美也子によっていて、名前は少女漫画誌『りぼん』の一般公募で決められたという純国産人形なんだけど、なんであんな顔立ちなんだろうね。
 この辺は家族構成で破綻を押さえてある。パパはフランス人のハーフで音楽家のピエール、ママはファッションデザイナーの織江。兄弟姉妹も大量で、ミキとマキの双子の妹とみく、かこ、げんという三つ子の妹&弟がいる。あと姉で旅客機の客室乗務員のリエってのがいたはずなんだけど、こちらは現在消息不明(笑)。おばあちゃんはフランス人のミレーヌ・ラモンド。従兄弟も父方だけでシャルル。ペットは犬のプリン。苗字が「香山」ということは、オヤジは入り婿ってことか。
 『リカちゃんのアルバム』によると、リカちゃんは平成2年(1990)に外交官となり、平成4年(1992)に25才で外交官のフランツ・シブレーと結婚したらしい。フランス人なのに何でドイツ人の名前が付いているのかは不明。平成9年(1997)には長女を出産、その3年後の沖縄サミットでは外務省大臣官房国際広報室の室長補佐を務めているから恐れ入る。こんな輝かしい経歴を持ちながら、なぜか平成18年(2006)4月1日にタカラトミーに入社し、社員のまま現在に至っている由。なんだかなぁ^^;
イサムくん.jpg 可哀想なのはボーイフレンドだった佐藤イサムくんで、タキシード姿でウエディングドレスに身を包んだリカちゃんと一緒のセットもあったぐらいなのに、一体、何があったんだろうね。
 でも、改めて身辺調査をしてみて、これも合点がいった。なんとリカちゃんの男性遍歴は凄く、分かった限りでもイサムとフランツ以外に立花ワタル、藤原マサト、滝沢カケルがいたのだ。しかもカケルとの関係に至っては、それまで付き合っていたイサムからカケルに乗り換え、破局後にイサムとヨリを戻した形跡すらあるのだ。カケルとのウエディング・セットも発売されているということは、カケル→イサム→フランツと短期間に2度の離婚を繰り返した挙げ句のできちゃった婚がフランツとの結婚だったということか。みっともないぞ、カケル! 目を覚ませ、イサム! リカちゃん恐るべしっ!
 未だに夫フランツの姿は公開されていないし、イサムやカケルのその後もヨウとして知れないが、直接その辺をリカちゃんに聞いてみたい人は東京03-3604-2000に電話してみて欲しい。


■リカちゃんのCM(ワタルくんも登場するよ) 1967~1984年■



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魚肉ソーセージ - 大衆食から安全食へ [食]

ソーセージ.jpg 先の記事でハンバーグを話題したところ、逆に魚肉ソーセージのコメントが少なからず寄せられた。当時はハンバーグが高級品で口に入らず、むしろ魚肉ソーセージのほうに親しみを感じていたというのだ。
「なるほど、そうだったなぁ」
 と思って調べてみたら、面白いことが分かった。
 ここ20年の国内生産量は年に5~8万トンの間で推移している魚肉ソーセージ(魚肉ハムも含む)だけど、ピークだったのは昭和47年(1972)の18万トン。コメントを寄せてくださった方の多くが1960~1980年代に少年少女だったこととデータがキレイに重なる。家庭の食卓やお弁当、おやつの代わりにと、魚肉ソーセージは昭和の一時期を象徴する大衆食だったのだ。
 魚肉ソーセージの歴史もユニークだ。なんと開発が官主導で開発で行われたのだ。話は大正時代にさかのぼる。当時、冷蔵冷凍設備の乏しい環境で保存のきく魚肉食品の開発は、海洋資源に恵まれた日本にとって、明治以来の富国強兵&殖産興業に則る国策だったといっていい。では、なぜソーセージだったのか。これは定かではないが、畜産業がなかなか振興しない中で食の欧米化が進んでいたことが背景にあったのは確かなようだ。事実、魚肉ソーセージと並行して魚肉ハムの開発も行われている。開発母体となったのは各地の水産試験場だ。
 これも理由は分からないけど、戦前に実用化されたのは今ではほとんどお目にかかれない魚肉ハムのほうで、魚肉ソーセージが試作に成功したのは昭和24年(1949)。全国販売にこぎつけたのは昭和27年(1952)だ。そして折も折、昭和29年(1954)に第五福竜丸で知られるビキニ環礁の水爆実験が行われ、放射能汚染を嫌気して発生した大量の余剰マグロに困り果てた水産各社は、マグロを主原料とした魚肉ソーセージの生産と拡販に全力を注ぐことになる。これが魚肉ソーセージを国民食に押し上げた直接の理由といっていいだろう。
ソーセージ2.jpg 昭和47年(1972)のピーク後間もなく、昭和49年(1974)に保存料として添加されていたフリルフラマイドの発がん性が指摘されて生産量は12万トンに激減。さらに昭和51年(1976)には米ソによる排他的経済水域を宣言する200海里問題が発生し、マグロに代わって主原料になっていたスケソウダラの価格が高騰して、魚肉ソーセージは決して安価なタンパク源ではなくなってしまう。さらに冷蔵庫の普及による食肉の浸透も手伝って、平成2年(1990)には現在と変わらぬ生産量にまで落ち込んでしまった。
 でも存在価値がなくなってしまったかというと、全然そうじゃないんだな。低カロリー・低脂肪・高タンパクという特性が健康志向の消費者に見直されるようになったうえに、BSEや鳥インフルエンザなどによる食肉への不安という点からも、安全性の高い魚肉ソーセージは脚光を浴びているのだ。幾多の試練を経て、魚肉ソーセージは平成の国民を守る安全食品に成長したのだ。


■ニッスイ・メモルソーセージのCM 1984年■



■魚肉ソーセージの歌■



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「わんぱくでもいい」「大きくなれよ」 - 丸大食品CM考 [テレビ]

 メラミンの混入した中国製の汚染粉ミルクの騒動から早、1年が過ぎようとしている。その際、丸大食品が5つの製品を自主回収したものの、たとえ中国側の隠蔽体質が影響したにせよ後手後手に回った公表と対策について社長が一度も記者会見を開かず、挙げ句の果てには、
「別にどういうことも無い」
 と発言して世間のひんしゅくを買ったのは記憶に新しい。日本企業の危機管理能力に疑問符が付いた恥ずべき出来事だったんだけど、ぼんくらオヤジはついつい過去のCMを思い出してしまった。1970年代から80年代にかけて少年少女だった昭和生まれにとって、丸大ハムのCMは特別に印象深い存在なのだ。
丸大ハム1.jpg なんといっても忘れられないのは「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」で有名な『丸大ハム』のCMだ。声優の小林清志(一時期は野田圭一)がナレーションを担当し、田中浩の扮する父親と息子たちの関わりをアウトドアの世界で描いていて、良くも悪くも当時の理想の父親像と男性像を色濃く反映していた。そういうものと縁のなかったぼんくら少年には、とても不気味な親子像だったけど(笑)。渓流のそばに風呂を置くなんていう無茶苦茶な設定も笑えたし。ただ何十年経っても頭に焼き付いてるということは、CMとしては大成功だったってことだよね。
丸大ハンバーグ.jpg もうひとつは『丸大ハンバーグ』の「大きくなれよ」だ。丸大ハムの後継CMとして80年代に流されたもので、ヘンゼルとグレーテルを彷彿とさせる青い眼の少年少女と大男を組み合わせた楽しいCMだった。このCMの面白いところは、単純な遠近法を利用した技術で撮影されていることだ。家の玄関側が総鏡張りになっていて、別のセットで演技をしている子供たちと家の前面が映っているだけなんだけど、アイデア次第ではCGなんかに頼らなくてもこれだけの映像が作れるという好例だ。上条恒彦の「ハーイリ♪ハーイリフレ♪ハーイリホー♪」も忘れられないよね。
 あれだけの食に対する不信を招いたにも関わらず、自らも被害者だったとして人心一新も行わずに事をウヤムヤにしてしまった丸大食品だが、かつて自らが流したCMと同様に昭和生まれは不信感も忘れていないのだということを肝に銘じて、信用を回復してもらいたいものだ。


■丸大ハム 1979~1980年■



■丸大ハンバーグ 1983年■



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フエガムに昭和の技術者の心意気をみた! [食]

フエガム2.jpg「ピィ~♪」
 公園や往来でこの音がこだますると、ぼんくら少年は反射的にポケットの小銭を確かめて駄菓子屋に走った。『フエガム』を買うためだ。
 大阪の製菓会社コリスの製品で、『フエガム』は昭和35年(1960)、姉妹品の『フエラムネ』は昭和48年(1973)、『フエキャンディ』は昭和50年(1975)に発売されている。実は『フエチョコ』の構想もあったんだけど、すぐに溶けちゃうんでボツになったらしい(笑)。ところでフエガムを『ハリスフーセンガム』でお馴染みのハリスが開発製造したように思っているブロガーさんもいるようだけど、これは当時、コリスがハリスの子会社だったことによる勘違いだ。
 口笛の吹けなかったぼんくら少年には大変にありがたいお菓子&オモチャだったわけで、実際にそういう子どもをターゲットに考案開発されたのがフエ・シリーズの第一弾『フエガム』だった。
 一見、素朴な作りにみえるフエガムだが、このガムには「笛の成型技術」「ガム原料の粉末化技術」「成型された食材の貼り合わせ技術」という3つもの特許が必要だ。大袈裟ではなく昭和30~40年代に培われた日本の技術力によって生まれた奇跡のお菓子なのだ。
フエガム3.jpg ガムベースとなるゴムは、板ガムを量産する分には問題がないものの、ちょっとでも複雑な形状を作ろうとすると途端に厄介な存在になる。これを粉末状にすることでクリアしたのが「ガム原料の粉末化技術」だ。そして粉末化した原料で音の鳴る笛に成形する技術が「笛の成形技術」。でも内部が微妙なカーブを描いている空洞を一体成形するのは技術的に難しいため、半割りのリングを先ず作って、それを後で貼り合わせる必要があった。ところが当初は機械化できず、なんと手作業で貼り合わせるという信じがたい手間が生じてしまった。そこで全社をあげての試行錯誤を繰り返した後に誕生した機械化技術が「成形された食材の貼り合わせ技術」で、晴れてフエガムは量産の運びとなり、3個で20円という子供たちがお小遣いで買えるお菓子になったのだった。
 たったひとつのピィピィと鳴るガムにこれだけの労苦が集約されているのだ。世界に冠たる日本の技術力がどのように培われてきたのかを考えさせられる好例と言えるだろう。余談だが、このシンプルな形状で音が鳴るためには「カルマン渦」と呼ばれる流体力学が応用されていることも書き添えておきたい。
フエガム1.jpg 最後になるけど、フエ・シリーズに「男の子用」と「女の子用」があるのは知ってる? これ、意外に知らない人が多いんだよね。察しのいい人はすぐに分かったろうけど、これはオマケの種類で別々にしてあるわけで、男の子用にはコマやクルマのミニチュア、女の子用にはパッチン留めや指輪なんかが入っている。今でも駄菓子の定番商品なので、どこでも手に入るよ。久しぶりに試してみない? ただし、ピィピィやり過ぎて我が子に
「うるさいっ!」
 て怒鳴られないようにね(笑)。


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