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紅茶キノコ [社会現象]

紅茶キノコ1.jpg ぼんくらオヤジがウィーンで貧乏生活を送っていた1980年代後半の話だ。
 近所の食料品店で安い食料を物色していたぼんくらは思わず奇声を発してしまった。"KOMBUCHA"というラベルの貼られたペットボトルがあったのだ。色は薄い茶色で説明を読もうとしたんだけどロシア語でちっとも分からない。店のオヤジさんに訊くと、
「まあ、サワードリンクの一種だな。美味しいから飲んでみな。健康にもいいそうだから、お前さんみたいな顔色の悪い貧乏学生にはちょうどいいだろ」
 なんぞと余計なことを言う。初めはこれは日本の飲み物で海草を乾燥させて粉にしたお茶だと知ったかぶるつもりだったのが、すっかりその気も失せて、語気に押されるように買ってしまった。
 帰宅してパンとチーズにリンゴというささやかな夕食を摂り、神妙な面持ちで"KOMBUCHA"の栓を開けた。一瞬、ブラックチョコともトリュフともとれるような独特な香りが漂う。むー、これは昆布茶の匂いとは似ても似つかないぞ^^; 恐る恐る口を付けると、昆布茶じゃなかったけど覚えのある味が口いっぱいに広がった。どういえばいいのかな、酸味の強いレモンティーに年代物の紹興酒をちょっと混ぜたような味で、オマケに微炭酸ときたもんだ。決して嫌いな味ではなかったんだけど、これが何故ゆえ昆布茶なのだろうという疑問と、何故この味を知ってるんだろうという思いがグルグル頭を駆け巡って落ち着かなかったのなんの。
 翌日、大学の図書館で調べてみると、
「Чайный гриб(チャイヌイ・グリプ)。モンゴルで生まれた発酵飲料で主にシベリアで飲まれていたが、やがてヨーロッパでも薬用飲料として飲まれるようになった。乳酸菌や消化酵素、タンパク質分解酵素などを豊富に含み、免疫機能を高めることで知られている。20世紀初頭に日本の昆布茶と混同された結果、欧米では"KOMBUCHA"と呼ばれるようになった」
 とエンサイクロペディアには解説が出ていて、ビンに貯蔵された自家製の"KOMBUCHA"の写真が載っていた。ビンには布と思しき通気性のあるフタがしてあって、中に茶色い液体が入っている。その液体には大きなキノコのカサのようなものが浮いている…。ん? これって実家にあったような…。思い出したぞ、一時期、母が作っていた『紅茶キノコ』じゃん!
 1970年代の半ばに、健康ブームの先駆け的存在として大流行した紅茶キノコ。ハタから見れば腐っているようにしか見えない得体の知れない飲み物。口にすれば想像通りの酸っぱい風味。これを体にいいからと無理矢理飲まされた人もいるんじゃないだろうか。
紅茶キノコ3.jpg 昭和49年(1974)に出版された中満須磨子著『紅茶キノコ健康法(地産出版刊)』が火付け役となったブームだったけど、出版後半年余りで紅茶キノコの愛飲家は300万人に膨れあがったと推定されている。
 連日のようにマスコミが特集を組み、芸能人や各界の著名人が効能を謳う発言を繰り返したってこともあるんだろうけど、「右向け右」の体質が色濃かった昭和の日本人体質を思い出すねぇ^^; ぼんくらの母も例外に洩れず、砂糖を入れた紅茶に菌体を入れ、ガーゼでフタをしてせっせと紅茶キノコを作っていた。ぼんくらも弟妹もビンの中で徐々に乳白色の金の塊が成長していく様を眺めて面白がっていたんだけど、あんまり頻繁にビンを引っぱり出すものだから、
「キノコは明るいところが嫌いなのよ。だからあんまり出しちゃダメ」
 と母に注意されて、直ぐに食器棚の下に戻さなきゃならなかった。母は「キノコ」と呼んでいたけど、これは酢酸菌の作るぶよぶよしたセルロース(繊維素)で、酢酸菌と酵母菌の集合住宅みたいなものだった。
 好きとはお世辞にも言えない風味だったけど、母が皆の健康を気遣って作ってくれたものだからという思いで、みんな健気に文句も言わずに飲んでたな、父も含めてね(笑)。
 その紅茶キノコが突然、テーブルから消えた。昭和50年の秋だったと思う。なんでも作る時に雑菌も繁殖してしまうために却って身体に害をなす場合があるという指摘が朝日新聞に掲載され、その上、厚生省の「効果の実体は明確ではない」という肯定も否定もしないという国会答弁が失望感を煽ってブームが終わっちゃったらしい。熱しやすく冷めやすいとは、良くも言ったもんだね!
紅茶キノコ2.jpg 何だか悪者扱いされて忘れられちゃった紅茶キノコだけど、培養液の雑菌汚染については、現在では酸性化のためにほとんどの有害細菌は死滅し、繁殖が抑えられる結果、よほど不潔にしていない限りは大丈夫とのこと。なんだ、お酢と一緒じゃん! 生きた栄養素による一定の効能も期待できそうなんだけど、繁殖する酵母菌によって産生する成分が違ってしまうので、「紅茶キノコにはこれこれの成分があってこんな効能があります」と言い切れない厄介な側面もあるようだ。
 例えばナタデココ。あれってフィリピン産の紅茶キノコを熱処理したものなんだよ。火を通しちゃってるから薬効は望めないんだけど、おシャレなお店で頂いていたナタデココが、実は昭和の流しの下で繁殖していたブヨブヨの菌の塊だったなんて笑えるよね♪
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口裂け女 [社会現象]

口裂け女1.jpg「わたし、きれい?」
 下校途中の子どもにマスクをした若い女が声をかける。子どもが
「きれい」
 と答えると、女はマスクを外して再び訊ねる。
「…これでも?」
 女の口は耳元まで大きく裂けている。もしこの問いに
「きれいじゃない」
 と答えようものなら、たちまち鎌や鋏で斬り殺されてしまう。
 有名な口裂け女のお話だ。口裂け女にはいくつかバリエーションのあることが確認されているから、違うパターンを覚えている人がいるかもしれないけどね。
 全国の小・中学生の間で口コミによって広まったとされる元祖都市伝説なんだけど、マスコミが取り上げたお初は、昭和54年(1979)1月29日付の岐阜日日新聞の「岐阜県加茂郡八百津町で、農家に住む老婆が離れの厠に向かう際に口裂け女を目撃した」という記事だとされている。
 そのせいなんだろうね、1978年末に岐阜県から全国に流布したという話がしばしば断定的に語られているけど、これは明らかに間違っている。なんでそう言い切れるかというと、ぼんくらオヤジが小学5年生の頃だから大阪万博のあった昭和45年(1970)には、既にこのウワサが学校中に広まってプチ・パニックを起こしていたからだ。
口裂け女2.jpg もっとも震源地が岐阜というのはまったく根拠がないとは言いきれないんだよね。先の新聞記事もそうだし、それから10年ほど遡る昭和43年(1968)8月18日に起きた飛騨川バス転落事故の調査中に事故とはまったく無関係の頭蓋骨が発見され、身元確認のために復顔したところ口が耳まで裂けていた、なんていう
「そんなにスゴい特徴なら復顔しなくたって頭蓋骨を見りゃ分かるだろ」
 と突っ込みたくなるような滑稽なウワサも岐阜発だ。
 ただ、笑ってばかりもいられないのは岐阜の歴史と口裂け女の関係だ。宝暦4年(1754)に美濃国郡上藩(現郡上八幡町)で発生した農民一揆の際に多くの農民が殺害され、彼らの怨念が恐れられ妖怪伝説となって近隣に伝わり、やがてその伝説のひとつが口裂け女のルーツになったという説があるのだ。
 さらには、財政的に余裕のない岐阜の家庭では、先の伝説を用いて、
「夜道を歩くと口裂け女に襲われる」
 と子どもたちに話して、当時流行り始めていた塾通いを諦めさせようとしたものが全国に広まったなどという説まで登場する始末で、こと口裂け女に関する限り、岐阜がダントツにウワサの宝庫であることは確かなのだ。もちろん、だからといって岐阜が口裂け女の出身地だとは言い切れないよ。
口裂け女3.jpg 実は、江戸時代の大窪百人町(現東京都新宿区)や吉原の遊郭で口裂け女が出現したという記述が文献として残っていて、もしかすると口裂け女のルーツはもっと過去に遡る可能性があるのだ。実は大陸伝来の伝説だったなんて資料が出てくることだってあり得る。これはぼんくらオヤジの希望的憶測だけどね(笑)。



■「バトルフィーバーJ 見たか!?口裂け女」 笑えます♪ 1979年■
※ 第29話の冒頭3分の1です。続きはYouTubeにアップされています。

http://www.youtube.com/watch?v=NpBOpGlWkMU


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不幸の手紙がやって来た [社会現象]

hagaki .jpg「あなたは運命の手紙の運び手に選ばれました。これと同じハガキを複製して、7人に送ってください。3日以内に送れば、あなたには幸せが訪れますが、送らなかったり、このハガキが届いたことを他人に話せば、必ず交通事故に遭うでしょう」
 ある日、下校していつものように自宅の郵便受けを覗いたら、ぼんくら少年の父宛にこんな文面のハガキが届いていた。他人様の手紙やハガキは決して読んではいけないと言われていたのに、つい目がいってしまったのだ。
 それが『不幸の手紙』だということは知っていた。昭和40年代は、大正時代に始まったとされる不幸(幸福)の手紙の第何期目かの流行期で、小学生の間でもよく知られていたのだ。友達のところに来たという不幸の手紙を実際に見せてもらったこともあった。
 その手紙が、ついに我が家にも来た。しかも父に。こんなイヤなもの、見せずに破り捨てちゃおうか。いや、そんなことをしたら父が交通事故に遭うかもしれない。散々迷った挙げ句に、何の決断もできないまま、ぼんくら少年はいつものように書斎のドアをノックしていた。
 昼間だというのに分厚いカーテンを閉めた暗い洋間に入ると、うずたかく積まれた本の山の向こうで、いつものように煙草の煙が立ち上っていた。
「ぼんくらか…もうそんな時間か。お帰り」
 迷路のような本の山のゴール地点に辿り着くと、ようやく簡素な机に向かって書き物をする父が姿を現した。息子の顔を見るでもなく無造作に手紙の束を受け取ると、ざっと宛名に目を通して、必要と思うもの以外はすぐに息子に渡して捨てるように命じるのが父の常で、その日も父はいつものように煙草を咥えながらチェックすると数通の手紙を手許に遺して、残りは無言で息子に手渡した。父は迷信を鼻で笑う人だから、不幸の手紙なんか気にもしないんだろうけど、もし何かがあったら…。
 いつもならすぐに退室する息子がモジモジしていたのですぐに気が付いたんだろう。強い視線で息子を正視して、
「食べたリンゴは甘かったかい?」
 と訊ねてきた。リンゴ、すなわち禁断の実は甘かったかどうか。禁じられたことをしてどんな気持ちかという、父独特の叱り方だった。
「…苦かったです」
 うつむいてそう答えると、父は失笑した。
「ぼんくらは苦いリンゴがよほど好きと見える。ところでもう一つ聞くよ。災難から逃れられるからと7人を不幸にする父(息子に自分のことをこう言っていた)を、ぼんくらは好きになれるか?」
「…いえ、嫌いになると思います」
「Honni soit qui mal y pense(思い邪なる者に災いあれ[ガーター勲章の銘文])、か。父も不必要にぼんくらから嫌われたくないから、これは捨てなさい」
 ニヤリと笑うと、なんと手許に遺した束から件のハガキを取り出して息子に渡したのだった。ぼんくら少年を支配していた恐怖は忽ちにして消え、身体の底から笑いが込み上げてきた。本気で不幸の手紙を増殖させる気だったのか、それとも息子の愚かな心配を消し去るマジックだったのか。真意を確かめたいんだけど、もうそれは適わない。


■手紙 ~親愛なる子供たちへ~ 歌詞はポルトガル語のチェーンメールに添付されていた詩だそうな■



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さらば日本航空! [社会現象]

 日本航空が危ない。パンナムやスイス・エアと一緒に消えちゃうんだろうか。何故こんなことになってしまったのかは他のブログに譲ることにして、ここでは昭和の少年少女にとって日航がどんな存在だったのかを思い出してみない?
jal3.jpg 何よりも「憧れ」だったよね。当時の日本で唯一、国際便を運行していたからかな。それとも文字通りの親方日の丸の特殊会社で圧倒的な強さを誇っていたからだろうか。たぶん両方なんだろうけど、例えば日航が搭乗客へのプレゼントで作っていたエアライン・バッグは、昭和30~40年代の少年少女にとってはある種のステイタス・シンボルだった。飛行機に乗ったことの証だったし、家庭が飛行機に乗れるだけの財力を持ってたってことでもあったからね。そうでなきゃ、商店街のガラガラで海外旅行が当たったか(笑)。
jal2.jpg じゃあ、ぼんくら少年のような庶民の子供たちはどうしてたかっていうと、日航の鶴丸をあしらったブリキの旅客機や空港内の連絡バスのオモチャで心の飢えをしのいでいた。小学校の高学年になると、ブリキのおもちゃは精巧なプラモデルに代わったけどね。でも万博を境に、夏休みや冬休みにハワイやグアムに家族旅行に出かける友達がぽつりぽつりと出始めて、少しずつだったけど、海外旅行や飛行機が身近な存在になってきた。日本に経済力がついてきたこともあったけど、何よりも1ドルが308円に切り上げられた昭和46年(1971)のスミソニアン体制と、昭和48年(1973)の変動相場制への移行で円が強くなっていったことが最大の要因だ。
jal1.gif パイロットやスチュワーデスが将来なりたい職業の上位を占めたのもこの頃だった。昭和58年(1983)から放送された『スチュワーデス物語』はモロに日航の訓練生を描いていて、航空関係の職業が花形で、しかもその中でも日航がダントツの人気だったことを物語っている。そういえばタモリのオールナイトニッポンで、スチュワーデスの採用基準を「頭で採る日航。顔で採る全日空。力で採る東亜」なんて紹介してたことがあったけど、それだけ日航の社員がエリート視されていたことが分かるよね。かなり失礼な言い様だけど^^;
jal5.jpg 昭和34年(1959)に採用された鶴丸(鶴と日の丸を掛け合わせたマーク)がJALの機体から完全に消滅したのが昨年のこと。平成生まれのぼんくら息子たちにはJALと言えば通じるけど、日本航空、まして日航なんて言ってもキョトンとしているし。もしかすると、経営破綻を来す前に、日本航空は既に過去のものになっているのかもしれない。


■日本航空のCMメドレー 1971年■


■スチュワーデス物語 エンディング 1983年■


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元祖お手軽健康器具『ぶらさがり健康器』 [社会現象]

ぶらさがり健康器1.jpg ある日、学校から帰ったぼんくら少年は、自宅の玄関を開けてのけ反るほど驚いた。縁側でぼんくら母が鉄棒のような器具からぶら下がっていたからだ。
「くぅ~」
 顔を真っ赤にしてぶら下がる母親の様子は、どうひいき目に見ても肉屋の冷凍庫状態だったんだけど、ドサッと床に崩れ落ちてヒィハァ言いながらもまんざらでもなさそうで、
「すごいんだよコレ! ぶら下がってるだけで健康になるんだって。アンタもやってみな♪」
「いいよ、こんなの学校で毎日やってるもん」
「バカだねぇ、学校の鉄棒とはワケが違うんだよ」
「何が違うの?」
「…うるさいねぇ、ゴチャゴチャ言ってないで外で遊んどいでっ」
 日本体育大学の塩谷宗雄教授によって提唱された『ぶらさがり健康法』をもとに、ぶらさがり健康器具の『サンパワー』が発売されたのは昭和53年(1978)。日本直販などのテレビ通販が絶大な力を発揮して、最盛期では日に20万台以上が売れるという爆発的なブームを呼んだ。1日に1分程度ぶら下がることで背筋を伸ばし、肩こりや腰痛、内臓疾患などに効果があるということで、いわゆる「お手軽健康法」であることも人気に拍車をかけたんだろうね。
ぶらさがり健康器2.jpg 効果・効用のほどは諸説あるので書かないけど、ぼんくら少年の両親がぶら下がっていたのは数ヶ月だった。しばらくは縁側の隅でハンガー掛けに使われていたんだけど、やがて何処かに姿を消してしまった。気になって、ぼんくら母に聞いてみたら、
「邪魔だから捨てた」
 とのこと。ぼんくら家に限らず、1年と経たずしてブームは終わってしまったのだった。
 余談だが、サンパワーを販売した某発明家は、一時は大金を手にしたものの、ブームの沈静化と類似商品の氾濫で大量の不良在庫を抱えて会社を倒産させてしまった由。以来、延々と続くことになるテレビ通販とお手軽健康ブームの祝祭的出発点ではあった。


■ぶらさがり健康器具を哲学的に考察できる動画■



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覚醒剤やめますか、それとも… [社会現象]

覚醒剤.jpg「覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか」
 有名な民放連の覚醒剤追放キャンペーンだ。当時、大学生だったぼんくらオヤジは、このCMを耳にする度に何ともいえない気持ちになった。福島に住んでいた頃の悲しい記憶が甦るのだ。
 少年時代の2年余りを過ごしたのは東北でも有数の温泉町で、そこには歓楽地ならではの人々が集まってきた。彼らの子供たちも必然的にぼんくら少年と同じ小学校に通うことになるわけで、その中にMくんというヒョロっと背の高い色白の少年ががいた。普段は物静かで穏やかな少年だったけど、些細なことで手がつけられなくなるほど暴れ出したり、ネコを段ボール箱に入れてアパートの2階から落としたりする残酷な一面があった。
 Mくんは、ぼんくら少年の住む家から歩いて数分のアパートに父親と二人で暮らしていた。お父さんは某有名暴力団の下っ端で、ほとんど放置されているといっていい毎日を送っていた。ぼんくら少年を預かってくれていた亡父の親友夫婦はMくんが不憫でならず、毎日のように夕食にMくんを招き、風呂に入れて帰していた。ぼんくら少年がMくんと兄弟のように親しくなったのはいうまでもなく。
 ある日の深夜だった。玄関を激しく叩く音に家の者全員が飛び起きた。玄関には下着姿のMくんがいて、腫れ上がった唇から血が滲み出ていた。話によると、父親が部屋で暴れているという。突然、その辺のタンスやテレビに殴りかかり、どうしていいか分からずに立ちすくんでいたMくんも殴られたというのだ。じきにパトカーのサイレンが聞こえたので、ぼんくら少年の養い親のオジサンが様子を見に行き、アパートの住人による通報でMくんのお父さんが逮捕連行されたという報を聞いて帰ってきた。
 それから半月ほどをぼんくら少年と共に過ごしたMくんは、岡山の親戚に引き取られていった。迷惑そうな表情をした親戚の小父さんの後を、大きなバッグを引きずるように付いていったMくんの姿は忘れることができない。
 Mくんは、工業高校を出て小父さんの経営する自動車修理工場に就職し、現在ではJICAの職員として海外を飛び回っている。別れても手紙のやり取りを欠かさなかったぼんくらオヤジには、彼がその後に味わった苦労が手に取るように分かる。別居して数年後に彼の父親は数百万の借金を残して自殺し、本来なら返す義務のない借財を、息子は10年あまりをかけて完済した。それが父親への供養だと思ってのことだ。酒井法子の一件を知ったMくんは、数日前、ボリビアからこんなメールを送ってきた。
「たとえ旦那に勧められたとしても、のりピーには断る自由があったのだから自業自得だよ。だからといってシャブのせいで正常な判断ができなくなっちゃった人間に、反省や自力更生を求めるなんてお目出度い考えは周囲も捨てなきゃダメ。本人のためだというのなら、一時的には強制的に自由を奪って薬から抜け出す糸口を与えてあげないとね。そんな施設なり制度があったら、オヤジも死なずに済んだし、オレももう少し普通の人生を歩めたかもしれない」
 自分だけではない。今や日本は、知らぬ間に我が子が、孫が、パートナーが薬物に汚染されるかもしれない恐ろしい国になってしまった。言うまでもないことだけど、覚醒剤は一回目に手をつけるかつけないかがその後の命運を分ける。のりピーの息子さんのように、第2、第3のMくんを出さないためにも、自分のためにも、薬物汚染と闘っていこう!


■民放連 「覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか」 1980年代(?)■



■政府広報 「覚醒剤の恐怖」 1980年代(?)■



■覚醒剤音頭 忌野清志郎■



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ボウリング・ブームを覚えてますか? [社会現象]

 ぼんくらオヤジが少年期を過ごした東北の温泉町には、万博の余韻も冷めやらぬ昭和45年(1970)の暮れに、ホテルの付属施設としてボーリング場ができた。付属施設とはいっても20レーンの本格的なもので、町民は1ゲーム100円で遊ぶことができた。しかも小中学生はシューズのレンタル代が無料で、平日なら1ゲームが50円という大盤振る舞いだったから、ぼんくらオヤジも友達と誘いあってボウリングに熱中した。
中山律子.jpg それにしても、当時のボウリング・ブームは凄かったよね。土日にテレビを点ければ、どこかのチャンネルでは何かしらのボウリング番組をやってたし、CMには中山律子か須田開代子が顔を出していた。このふたりがスポーツ界を代表するライバル同士としてもてはやされたおかげで、ぼんくらオヤジのクラスの女子は中山派と須田派に分裂。男子もどっちかに味方しなけりゃ双方から干される立場に追い込まれてエラい目に遭った。ぼんくら少年は面食いだったので、美人だというだけの理由で中山派に所属。だが、クラスのアイドル的存在で学級委員でもあったC子が須田派だったこともあって中山は少数派に転落し、長期間にわたって中山派は律子グッズを体育館裏で密かに見せあったり、ボウリング場では「律子ファンはガッタガター」などとヤジられたりと肩身の狭い思いをすることになったのだった。
 そんな悲喜こもごものボウリング・ブームも、昭和47年(1972)をピークに徐々に冷め、翌48年(1973)のオイルショックをきっかけに急速に衰退していく。ぼんくらオヤジが大学に入るころには、ボウリング場のほとんどは廃墟と化していた。友達と入り浸っていたボウリング場も、その頃には潰されてゲームセンターに様変わりしていた。
須田開代子.jpg 現在では、かつてのようなブームとは程遠いものの、ボウリングは身近なスポーツとして定着している。完全に廃れなかったいちばんの理由は、かつて一世を風靡したプロボウラー達が、マスコミが見向きもしなくなったその後も地道に、そして必死に浮沈を乗り越えてきた結果だといわれている。先の中山・須田両プロは、ともに手を取り合って、ブームの過ぎ去った昭和51年(1976)に『ジャパン・レディス・ボウリング・クラブ(JLBC)』を設立。相次ぐボウリング場の閉鎖の中でスポンサー探しに奔走する傍ら、ボウリング場周辺の地元住民に手弁当で指導を行うなどの涙ぐましい努力を重ねて、昭和53年(1979)のブーム再燃まで業界を持ちこたえさせていく。中山プロは、平成7年(1995)11月に須田プロが病に斃れた後も活動を続け、平成16年(2004)には女性初の日本プロボウリング協会の会長に就任。10月で68才を迎える今も、日本のどこかでボウリングの普及に心血を注いでいる。


■律子さん~律子さん~ナ・カ・ヤ・マ・律子さん♪■




■野村美枝子&石井利枝、ボウリングブームを語る■




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学校周辺が実に怪しげなスポットだった頃のお話 [社会現象]

布教活動.jpg 先だって、ロケットペンシルの投稿に、
「校門前で怪しい行商のおじさんが(ロケットペンシルを)販売していた」
 という情報を頂いた(ふぁんくしょんDさんに感謝!)。そういやそうだった。学校の周りって、ミョーな大人たちがウロウロしてなかった?
 ぼんくらが真っ先に思い出したのは、
「アナタゥワ~キャミゥヲ~シンジマスカ~」
 当時は珍しかった青い目のガイジンさんが、たいていは二人組で、下校する子供たちをターゲットにこの質問を連発していた。子供たちは多少なりとも彼らのお相手をすると、およそ日本人向きじゃないオドロオドロしいイラストで聖書のエピソードを描いた小冊子やしおりなんかをもらえた。時には、英語の聖句を印刷したビニール製の小銭入れをもらえることもあって、ゲットした子が休み時間に見せびらかして人だかりができたりしてた。結構な宣伝効果があったんだよね、今にして思えば(笑)。時に紙芝居なんかもしてくれたこのガイジンさんの正体は、ほとんどが『末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)』の若者たちだったようだ。後に『エホバの証人(『ものみの塔』はエホバの証人が運営する別法人)』も同じような布教活動を行っているので多少の混乱があるかもしれないけど、いずれもアメリカ発の宗教団体で、学校周辺や街中でウロウロしていたのは、こうした宗教活動に燃えて世界中に派遣された若者たちだった。当時は珍しかったスポーツタイプのチャリで往来を疾駆する様は、田舎者のぼんくらには異星人に見えたな(笑)。
マニカラーペンシル.jpg 怪しかったのはガイジンさんだけじゃない。学校周辺の道端で時間限定の店を広げていた行商のおじさんこそ、怪しい大人の筆頭だっといっていい。先に紹介したロケットペンシルのおじさんなんかの他に、円盤の穴にペン先を突っ込んでグリグリ回すといろんな幾何学模様が描ける『アート定規』や、一本のペンが芯先を変えるだけで多色の色鉛筆に変身する『マニカラーペンシル』なんかを実演販売していた。後にこうした商売が問題視された時に、
アート定規.jpg「別にボッタクリ価格で売ってるわけでも、粗悪品を売ってるわけでもないのに、何がいけないんだろう」
 なんて思った記憶があるので、悪徳商法ではなかったと思うんだけど、被害を受けた人はいる?
 あ、待てよ。中にはホントに怪しい商品もあったぞ! 雑誌の印刷面に紙を乗せて、小瓶に入った液体をかける(かけて擦ったかな)と、乗せたマンガのコマや文字が転写されるってやつ。あの液体って何だったんだろう。不思議に思ったぼんくら少年が親に聞いても、
「おおかた家にあるようなものを薄めて売ってるんだろうから勝っちゃダメっ」
 なんて答えが返ってくるだけだった。一度、父親が面白がってベンジンや洗剤で試してみたけど、ダメだったような気がする。あの小瓶の正体を知ってる人、教えて! ぼんくら息子たちに見せて自慢するから(笑)。
 子供たちの安全を確保するための努力が実り、あの怪しい人影はいつの間にやら排除されてしまった。時は子供たちが「怪しい」とみなす人物が出没すれば、たちまち親のケータイ連絡網に警戒情報が流れる時代にまで進化している。事件事故はそれでも発生しているとはいえ、ボクらの子供時代とは比較にならないぐらい今の子供たちは安全なのだ。でもぼんくらオヤジは、
「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」
 と、あの怪しい人々のことを愛しく思っている。えてして体に悪いものは美味い。危険とイカガわしさは、劇薬である半面、人の成長を育む栄養補助食品でもあり、楽しさの源泉でもあるんじゃないかと。目下、ぼんくらは二男が通うPTAの役員もしてるんだけどね、ヤバいな(爆)。


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団地の生活は憧れの的だった [社会現象]

団地1.jpg 先日、ぼんくらオバンがお向かいのTSUTAYAからジブリのアニメ『耳をすませば』を借りてきた。ぼんくらオヤジの感性は枯れ萎んでいるようで、映画そのものは「なんだかなぁ~」って感じだったんだけど、ひとつだけ強く印象に残ったものがあった。それは『団地』の光景だ。
 当然、近藤監督も意識してるんだろうけど、ある時期の昭和の団地が丹念に描かれていたのだ。外観や内部の様子はもちろん、住民の人間関係も含めてね。
団地2.jpg 公団住宅、いわゆる団地は、1950年代の半ば頃から建設が始まる。当時の一般的な間取りは、和室2間にダイニングキッチンの2DK。水洗トイレと風呂場、ベランダが標準装備されていて、ダイニングキッチンにはちゃぶ台に替わってイスとテーブルの5点セット。今の人たちには信じられないだろうけど、当時は憧れの的だったんだよね。狭さの故に、必然的にジジババ抜きの核家族という新しい家族形態をもたらしたことも憧れに拍車をかけ、『団地族』なんて呼び名も生まれたりした。
 閉鎖的な間取りと核家族化でご近所付き合いも希薄になり、戦後型都市生活のひな形が誕生する。姑から解放され、家電製品の普及で家事にも時間をかけずに済むようになった主婦が『団地妻』(誰だ、スケベぇな想像をしてるのは^^;)なんて揶揄されたのは、批判っていうより羨しかったからだろう。
団地3.jpg 古い一戸建ての家に住んでいたぼんくら少年が羨ましかったのは、団地に住む子供たちの結束力だった。閉鎖的というわけじゃないんだけど、団地内に公園という共通の遊び場があって、生活圏が一緒だという感覚は、当たり前のように仲間意識を育んだのだ。兄弟でもないのに年齢性別を超えた子同士で遊んだり、お互いの住居を自由に行き来する様は、それだけで自由な雰囲気を感じさせるものだったし、盆踊りやクリスマス会など、自治会主催の行事が、気心の知れた者同士の箱庭的な環境で行われるってのも何か羨ましかった。もっとも団地に住む友達の中には、こうしたしがらみが嫌いな子がいたことも確かだけど(笑)。
 当時、子供たちが溢れかえって活気に満ちていた団地は、少子化と施設の老朽化、そして住民の高齢化という当初からの懸念が現実のものとなる中で、存続の危機に立たされている。仕方のないことだけど、ボクらが子供時代を過ごした世界は、確実に失われようとしているのだ。


■ひばりヶ丘団地 1959(埋め込み不可なので下のリンクをクリックしてね)■
http://www.youtube.com/watch?v=zCZn1MVLQYg



■ひばりヶ丘団地 2008■



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どうしてぼくらは『シェー』をしたのか? [社会現象]

shee01.jpg(1) 右腕または左腕を垂直に上げ、手首を直角に曲げる。
(2) 反対側の腕はひじを曲げ、ひじから先を床と平行とする。
(3) 同時に左脚または右脚を上げて膝を曲げ、膝から先を床と平行として、反対側の片脚で立つ。
(4) 垂直に上げる腕と膝を曲げる脚は、反対側でも同じ側でもよい。

※漫画では、上げた足の靴は脱げ、靴下がずり下がった状態が多い。
※「シェー」と叫ぶだけでポーズを取らないこともあり、「シェー」とは言わずにポーズだけ取ることもある。

 以上が正しい『シェー』だそうな(Wikiによる)。そっか、少年時代に考えもせずにやってた『シェー』って、こんなに複雑だったんだ(感動)。知らない人のために説明しておくけど、赤塚不二夫の漫画『おそ松くん』に登場すキャラ『イヤミ』の一発ギャグだ。万博以前に生まれた人で『シェー』を知らない人はまずいないだろう。
 ある時期の日本人は老若男女、有名無名に関わりなく、『シェー』に感染していたといってもいい。巷の子供達はもちろんのこと、王選手や現皇太子、ビートルズ、宝田明、沢井桂子、ニック・アダムス、田中邦衛、田宮二郎、果てはゴジラまでが『シェー』をやったのだ! 近年では、93年に名ドライバーの故アイルトン・セナがやっているというからソラ恐ろしい。
shee02.jpg どうして皆があんなギャグに夢中になったんだろう? 近頃の『ピース』と同じで、ある種、写真の決めポーズとして普及したという説もあるんだけど、これはどうも怪しげ。自分でどんなときに使ってたかな、と記憶を辿ってみると、例えば、写真なんかを撮られて照れくさい時や、失敗をごまかす時に『シェー』でお茶を濁していたような気がするんだけど、皆さんはどうだった? 
 もうひとつ忘れちゃならないのが、テレビ・アニメが66年に始まっていることだ。64年の東京オリンピック以後にじわじわと浸透し始めていたカラーテレビの爆発的な普及まであと2年。今の地デジ現象と似たり寄ったり、つまり人々の関心がテレビに向かい始めていた時期に重なるのだ。我も我もと日本人がテレビを購入した時期に、単純でわかりやすいギャグが電波に乗っていたのだ。もちろんこれだけじゃない。例えば、
「え、知らないの? 遅れてるー!」
 当時、この「遅れてるー」は、『シェー』並みに使われた言葉じゃなかったろうか。目まぐるしく変化する高度経済成長期にあって、時代に取り残されるのが恐怖だった日本人には、こんなバカバカしい発想が迫力たっぷりの脅しになったのだ。ただのギャグも、知らなければ、使いこなさなきゃ「遅れてる-」。
 何が本当のところかは結局は分からないけど、『シェー』を通して、当時の日本が透けて見えてくるのは確かじゃないだろうか。こんな凄いギャグを生み出した赤塚不二夫は、やっぱ天才だったね!


※古いほうは埋め込み禁止なので、YouTubeで直接、観てください。



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