スマートボール [遊び]
当時いくら出せば遊べたのかどうしても思い出せないんだけど、友達と一緒に遊んでいたんだから大した料金じゃなかったはずだ。パチンコに対して「横モノ」と呼ばれる遊技台で、ビリヤード台を傾けたものにキューを固定したフランスの『バガテル』が原型だといわれている。これがアメリカでピンボールになり、ピンボールが日本でスマートボールになったというのだが真偽のほどは不明だ。
ピンポン玉ほどのボールをピンボールと同じ方式で射出し、運良く入賞口に入ればそれぞれの穴に応じた数のボールが払い出される。入賞口には種類があって、フツーのが単勝穴だとすると、ふたつ以上の穴を占領して初めて払い出しが行われる連勝穴があったり、もっと進化したものだと、パチンコのように一ヶ所のチャッカーにボールが入れば数カ所の役物が開くスグレモノもあった。
ガラスカバーに載せたボールで盤面が見えなくなってくるのが快感だったなぁ。フワフワとしたボールの動きと、釘にボールの当たるコンコンという穏やかな音は、正に昭和そのものだった。
投票を終えて思うこと - ある父と娘へのオマージュ [その他]
親子といえども個性や世代による価値観の差は時として軋轢を生む。昭和と呼ばれる60余年は激変の時期であり、戦前と戦中戦後世代、高度経済成長期の世代、そしてその後の世代では、人生の基である少年時代の様相がまるで異国であるかの如くに違う。違った世代に生まれた者同士が親子であるためには、互いを認め合うというよりも、互いの間に乗り越えられない不一致のあることを容認せざるを得なかったのだ。
だが、それだけに異質なものと同居する知恵と忍耐を、昭和生まれは身につけている。いかに乗り越えられぬ食い違いがあろうとも、決して排斥してはならないことを昭和生まれは知っている。価値観の多様化と国家の威信喪失の後には、揺り戻しとしてのナショナリズムが待ち受けている。だが、ことの是非を云々する前に、日本が既に既婚者の17人にひとりが国際結婚という多文化共棲国家になっている事実は受け入れなければならないのだ。
経済事情に引きずられるように政治に地殻変動が生まれようとしている。平成にあって昭和生まれの真価が問われるのはこれからなのではないか。
覚醒剤やめますか、それとも… [社会現象]
有名な民放連の覚醒剤追放キャンペーンだ。当時、大学生だったぼんくらオヤジは、このCMを耳にする度に何ともいえない気持ちになった。福島に住んでいた頃の悲しい記憶が甦るのだ。
少年時代の2年余りを過ごしたのは東北でも有数の温泉町で、そこには歓楽地ならではの人々が集まってきた。彼らの子供たちも必然的にぼんくら少年と同じ小学校に通うことになるわけで、その中にMくんというヒョロっと背の高い色白の少年ががいた。普段は物静かで穏やかな少年だったけど、些細なことで手がつけられなくなるほど暴れ出したり、ネコを段ボール箱に入れてアパートの2階から落としたりする残酷な一面があった。
Mくんは、ぼんくら少年の住む家から歩いて数分のアパートに父親と二人で暮らしていた。お父さんは某有名暴力団の下っ端で、ほとんど放置されているといっていい毎日を送っていた。ぼんくら少年を預かってくれていた亡父の親友夫婦はMくんが不憫でならず、毎日のように夕食にMくんを招き、風呂に入れて帰していた。ぼんくら少年がMくんと兄弟のように親しくなったのはいうまでもなく。
ある日の深夜だった。玄関を激しく叩く音に家の者全員が飛び起きた。玄関には下着姿のMくんがいて、腫れ上がった唇から血が滲み出ていた。話によると、父親が部屋で暴れているという。突然、その辺のタンスやテレビに殴りかかり、どうしていいか分からずに立ちすくんでいたMくんも殴られたというのだ。じきにパトカーのサイレンが聞こえたので、ぼんくら少年の養い親のオジサンが様子を見に行き、アパートの住人による通報でMくんのお父さんが逮捕連行されたという報を聞いて帰ってきた。
それから半月ほどをぼんくら少年と共に過ごしたMくんは、岡山の親戚に引き取られていった。迷惑そうな表情をした親戚の小父さんの後を、大きなバッグを引きずるように付いていったMくんの姿は忘れることができない。
Mくんは、工業高校を出て小父さんの経営する自動車修理工場に就職し、現在ではJICAの職員として海外を飛び回っている。別れても手紙のやり取りを欠かさなかったぼんくらオヤジには、彼がその後に味わった苦労が手に取るように分かる。別居して数年後に彼の父親は数百万の借金を残して自殺し、本来なら返す義務のない借財を、息子は10年あまりをかけて完済した。それが父親への供養だと思ってのことだ。酒井法子の一件を知ったMくんは、数日前、ボリビアからこんなメールを送ってきた。
「たとえ旦那に勧められたとしても、のりピーには断る自由があったのだから自業自得だよ。だからといってシャブのせいで正常な判断ができなくなっちゃった人間に、反省や自力更生を求めるなんてお目出度い考えは周囲も捨てなきゃダメ。本人のためだというのなら、一時的には強制的に自由を奪って薬から抜け出す糸口を与えてあげないとね。そんな施設なり制度があったら、オヤジも死なずに済んだし、オレももう少し普通の人生を歩めたかもしれない」
自分だけではない。今や日本は、知らぬ間に我が子が、孫が、パートナーが薬物に汚染されるかもしれない恐ろしい国になってしまった。言うまでもないことだけど、覚醒剤は一回目に手をつけるかつけないかがその後の命運を分ける。のりピーの息子さんのように、第2、第3のMくんを出さないためにも、自分のためにも、薬物汚染と闘っていこう!
■民放連 「覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか」 1980年代(?)■
■政府広報 「覚醒剤の恐怖」 1980年代(?)■
■覚醒剤音頭 忌野清志郎■
水飲み鳥? 平和鳥? ハッピーバード? [テクノロジー]
当時の少年マンガには、グラビアにUFOや宇宙人の死体、数千年前の電池といったオーパーツ、ネス湖の恐竜やイエティなどの巨大生物、ミイラの呪い、心霊写真などなど、挙げたらキリがないぐらいの心躍る情報が満載されていて、下手をすりゃ本体のマンガよりも面白い内容だった。この不思議博物館の中に『永久機関』というものがあって、雑誌によっては水飲み鳥を永久機関のひとつとして取り上げていた。
永久機関は、外部からエネルギーを受け取らずに仕事を行い続ける装置のことを指す。水飲み鳥は、水の気化熱の力を借りて人形の頭とお尻の温度差を作らなければ、内部に満たされたジクロロメタン(塩化メチレン)の液体と気体を凝集させたり気化させて気圧の変化を起こし液体の移動を行うことができないので、残念ながら永久機関とはいえない。そもそも永久機関という考え方自体に無理があったわけなんだけど、錬金術と同様に実に怪しい魅力を放っていて、しかも研究の過程で得られた副産物が後の科学に多大な貢献をした点も錬金術と同じだった。もちろん、こんなややこしいことが子どもに分かるはずもなく。水飲み鳥は不思議を体感できる貴重なアイテムだったのだ。
この水飲み鳥、日本で発明されたと思っている人が多いようでネットでもこうした記述が蔓延してるけど、実際は昭和21年(1946)に熱力学の研究者でアメリカ人のMiles V. Sullivanが考案し特許を取ったものを、Edmund Scientificという会社が『Dippy Drinking Bird』という名前で売り出したものだ。当初はグラスの縁に引っかけるタイプが登場し、後に日本でお馴染みのスタンドタイプが登場した由。ぼんくらオヤジはスタンドタイプが先だと思い込んでいたので、これにはビックリした。たしかにSullvianの設計図は引っかけるほうになっているよね。
以前ほどじゃないけど、水飲み鳥の愛好家は決して少なくないようで、今でも雑貨屋さんに行くと売っていることがある。値段も1,000円前後とお手頃。ネットでも手に入るみたいだから、また買って観葉植物の茂みに飾ってみようかな♪
■水飲み鳥 ハンギングタイプ■
■水飲み鳥 スタンドタイプ■
ハクキンカイロを見直そう♪ [テクノロジー]
「ははーっ」
とは言っても、これは水戸黄門の一幕ではない。ぼんくら少年の属する秘密結社では、話のつじつまが合わなくなったり自分に不利なことがバレそうになった時は、秘密基地の奥に隠してある印籠を引っぱり出して「ひかえおろう!」と宣言できれば他のメンバーはひれ伏さなければならず、すべてをチャラにできるという掟があった。もちろんこれを阻止されれば企みは失敗となるわけで、実に芸術的な問題解決法なのだった(バカ過ぎて話になんない^^;)。
この印籠、光沢のある金属のボディにマジックで葵の御紋らしきものを描き込んだ不思議な代物で、しかしてその実体は、メンバーの一人がおじいさんからもらったカイロのお古だった。
ベンジンを燃料とする白金触媒式懐炉『ハクキンカイロ』。場所によっては『ハッキン』って言わないと通じないかもね。あのツルツルの感触やベンジンの燃える独特の臭い、滑らかな肌触りの巾着袋、そしてホッとする温もり。冬の戸外に飛び出そうとして母親に引き留められてカイロを手渡されたり、懐からカイロを引っぱり出してかじかんだ手を温めた思い出のある人は、決して少なくないんじゃないかな。ある時期の子供たちにとって、ハクキンカイロは冬の暮らしに欠かせないアイテムだった。
ハクキンカイロが発売されたのは大正12年(1923)だ。ハクキンの創業者、的場仁市氏による発明で、今や当然のように使われているのでピンとこないけど、実は現代の水準から考えてもハイテクと呼んでいいほどのスグレものなのだ。
「ベンジンを燃やしてるだけでしょ-?」
という人がほとんどかな。ぼんくらもその程度にしか考えてなかった。でも、なんでハクキン→白金→プラチナなんだろうと思って調べてみたら、その精巧な仕組みが分かってビックリ。
ベンジンなど炭化水素の燃料は、プラチナを触媒として酸化する時に、二酸化炭素と水に分解しながら300~400度の比較的穏やかな熱を発生させる。これを熱源として利用したのがハクキンカイロなのだ。
「えー、ウソだぁ。だってフタを開けて芯に火を付けたもん!」
そう言うかもね。たしかにそうするんだけど、これは先の化学反応を始めるにあたって触媒となるプラチナを130度以上に加熱する必要があるためで、あくまでカイロの熱源ではないのだ。この方式だと、ベンジン1ccで使い捨てカイロの13倍の熱を発生させ、約60度の表面温度を約1~2時間維持することができる。
ベンジン臭かったり燃料の補充が手間だと敬遠されて、使い捨てカイロに大きくシェアを奪われていたハクキンカイロだったが、Recycle(再資源化)・Reuse(再使用)・Reduce(省資源)のエコ3原則にかなった商品として、再び脚光を浴びている。冷え性で辛い思いをしている人やアウトドア派の人、レンズの結露に悩む写真愛好家なら是非、使用を検討してみちゃどうだろうか。
■ハクキンカイロの使い方■
■ハクキンカイロこはる CM■
見せ物小屋とヘビ女 [その他]
先生もグルになっての集団のイジメに遭いながらも少しずつ友達が出来はじめた頃のこと、地域で長い伝統を誇る祭りがあった。町中を太鼓の鳴り響く屋台が行き来する勇壮な祭りは各地からから大勢の観光客を集め、祭りの中心となる神社の境内には、たくさんの露店に混じって幽霊屋敷や見せ物小屋が建ち上がった。
裸電球やスポットライトの光が彩る華やかな夜の景色とは真逆に、昼間の境内は人もまばらで物憂げなムードが漂う。学校が休みになることもあって、スマートボールや射的の客も大半は子供たちだ。的屋のおじさんたちも遊び半分。当然のように見せ物小屋もガラガラで、内容も子供たちに合わせてくれたのか、昼間の演目に鶏やヘビの生き血を飲むような残酷な見せ物は外されていた。
好奇心の強いぼんくら少年にとって、見せ物小屋は、当時の愛読書だった『プリニウスの博物誌』そのもので、小遣いを使い果たしてでも観たい出し物が目白押しだった。人間火炎放射器や箱抜けなどの奇術やヘビ女、ドッグショー、奇形の動物たちが舞台に現れては消えていく。あれは、引田天功が大枚はたいて創り出すイリュージョンが安っぽく思えるほどに、いかがわしく、幻想的だった。
6年生の秋のことだ。祭りを観たくて福島を訪れたぼんくら少年に、ちょっとしたサプライズが待っていた。見せ物小屋の裏手をブラブラしていたら、テントの楽屋口が半分めくれているのが目に飛び込んできた。好奇心に駆られて中を覗き込むと、そこには大きなニシキヘビを肩に載せたヘビ女がゴザの上にぺたりと座っていた。目が合うと、ヘビ女がおいでおいでをする。
「ちょうど遊んでやってたんだ。抱かせてあげるからおいで」
重いから座ったほうがいいというので、靴を脱ぎゴザの上に座ると、ヘビ女はぼんくら少年の肩にヘビを載せてくれた。重い! 頭を撫でてやってと言われたけど、体を支えるのが精一杯でとても無理だ。
「坊やは力がないねぇ! アタシの膝の上に乗んな」
言われるままにちょこんと膝に座ると、ヘビ女は自分の肩にヘビを載せたまま、ぼんくら少年を抱きかかえるようにしてヘビを触らせてくれた。ヘビは思いのほか可愛かった。頭を撫でてやると、舌をチロチロと出しながらじっとしている。そして止めると、おねだりをするように頭を左右に振るのだ。肌がヌルヌルしていなくて乾いていることや、体温が高いこともその時に知ったんだけど、ぼんくら少年の心中はヘビとの付き合いを楽しむどころではなかったのだ。何故かというに、ぼんくら少年が母親以外の女性から抱きしめられたのはこれが初めてだったし、その時ヘビ女は着物がはだけてトップレスの状態だったからだ。体にガッチリと巻き付いた白いふくよかな腕から立ちのぼるドーランと汗の入り交じる匂いと、薄いシャツを通して伝わってくる乳房の感触で半分、頭の中が白く飛んでいたわけで。
長い時間だったような気がするんだけど、実際は数分のことだったかもしれない。ヘビ女がぴたりとお喋りを止めたのでチラリと見上げると、彼女は無言で泣いていた。彼女が若いお姉さんであることにも気付いた。どうしていいか分からずにそのままでいたら、やがて彼女の腕の力が抜けた。
「もういいだろ。これ以上は金をもらうよ」
ぼんくら少年はフラフラと立ち上がると、礼もそこそこにテントを立ち去った。見せ物小屋を観るために来たのに、どうしてか気が重くて、結局、一度も小屋に入ることもなく帰京してしまった。以来、今日のこの日まで見せ物小屋に入ったことはない。もしかすると、ヘビ女のお姉さんも幻想だったのだろうか。
昭和を嫌う若者の気持ち [ネット]
「昭和顔ばっか」 利府高選手が対戦校をブログで侮辱 高野連が厳重注意 (09-03-31 スポニチ)
第81回選抜高校野球大会に21世紀枠から出場し、ベスト8進出と快進撃を続ける宮城・利府高校のレギュラー選手が、1回戦で対戦した掛川西高について、自身のブログに「変な顔のやつぱっか」などと書き込んでいたことがわかった。抗議の書き込みが来たため中傷書き込みは2日後に削除されたが、高野連は利府高を口頭で厳重注意した。
利府高は1回戦で掛川西高校(静岡)を10-4で下し、2回戦も千葉の強豪・習志野高校を2-1で破る快進撃を続けており、31日13時30分から準決勝進出をかけて早稲田実業(東京)と対戦する。
中傷書き込みをした選手は、掛川西高校と対戦前の23日、自身のブログに「いろいろ疲れたー 掛川西って変な顔のやつばっか 笑 昭和くさい 負けたら昭和以下か… 大正? 負けねーだろ」などと書き込み。これを見た閲覧者から批判があり、2日後に削除したが、同校に抗議のメールが数件寄せられたという。
利府高は29日に日本高野連に事情を説明。菊地校長が掛川西高に電話で謝罪したほか、30日午前には教頭が掛川西高を訪れ、謝罪したという。書き込みをした選手は『迷惑をかけることをやってしまった。自分が逆の立場なら許せないと思う』と反省しているという。
春のセンバツにこんな話題があったんだね! ぼんくらオヤジは恥ずかしながら全く知らなかった^^;
まあ、どうでもいいことではあるんだけど、よっく読んでみると何か変だよ。利府高の野球部員が掛川西のメンバーを侮辱し、それが問題になり、学校挙げての謝罪に繋がったって話なんだけど…。こらっ、件のコーコーセー、昭和生まれにも謝罪しろっ。「逆の立場なら許せない」って分かってんだろ、このイカレポンチ! え、「大人げない」ってぇ? はぁそーでした、スミません^^;;;
それにしても、この昭和に対する軽蔑と憎悪の気持ちは、いったいどこから生まれたんだろう? 一部のお笑い芸人がこうしたネタでウケを取っているのは知っているけど、それだけなんだろうか。皆さんはどう思う?
ナショナル坊やという変わったトモダチがいた [その他]
別に関心のあるキャラではなかったんだけど、登下校時には必ず目に飛び込んでくるもんだから、いつの間にか坊やの頭をポンと軽く叩いて、
「おはよー」
とか、
「ただいまぁ」
なんて声をかけるようになっていた。不思議なもので、日によって坊やの顔は楽しげだったり、シュンとしているようにもみえたり、時には意地悪にみえることもあった。その時のこちらの気分を坊やに投影してたのかも知らん。
ある冬の日、吹雪の中を下校した時のことだった。電気屋さんの軒先には、いつものようにナショナル坊やが立っていた。強い風のために粉雪が体の半分にこびりついて却って寒々としてみえたので、ぼんくら少年は毛糸の手袋をはめた手で雪を落としてあげた。
その日の晩は激しい積雪だった。ぼんくら少年は、何を思ったのか押し入れから小さくて着れなくなったカーディガンを引っぱり出し、シャッターの閉まった電気屋さんに出掛けていった。そしてナショナル坊やに積もった10センチほどの雪を落とし、カーディガンを着せたのだった。
翌日、登校時にみてみると、ナショナル坊やは何も着ていなかった。
「イタズラだと思われちゃったんだ」
ホントにガッカリ! なんだか面白くない一日になって憮然として下校すると、ナショナル坊やの首から伝言板がぶら下っていた。
「セーター、アリガトウ。ウレシカッタヨ。ボクワ サムクナイカラ シンパイシナイデ。セーターワ デンキヤサンニ アズケタカラ トリニキテネ」
ぼんくら少年は嬉しくて仕方がなかった。でも気恥ずかしくって取りに行かずにいたら、数日後にカーディガンが家に戻っていた。
「お宅のお子さんだろうって電気屋の奥さんが持ってきてくれたわよ。もー何を考えてんだか!」
ぼんくら母によると、電気屋さんは店の奥からずっとナショナル坊やとぼんくら少年の付き合いを見守ってきたらしく、カーディガンを一目見て合点がいったのだそうだ。いつもなら頭ごなしに叱りつけるぼんくら母も、汚れたことに文句を言った以外は、いつになく優しかった。ぼんくらオヤジにとって昭和とは、こんな時代だった。
■明るいナショナル ナショナル坊や編 1960年代■
■明るいナショナル ナショナル劇場編 1970年代■
かんしゃく玉は悪ガキの必須アイテムだった [遊び]
ぼんくら少年は本当に悪ガキで、街中のクルマにイタズラをして回った。それもかなり悪質で、たとえば黒塗りの高級車が人気のない料亭の駐車場に停まっていたりすると、そぉ~っと近寄って排気筒にジャガイモを蹴り入れるんだよね。エンジンがかからずにボンネットを開けたり、クルマの下を覗き込んでる大人を垣根の陰なんかから見物しちゃシシシと笑っていた。そんなガキだったから、小学校の同級会に出ようもんなら必ずといっていいほど、
「お前と付き合ってたおかげで、オレがどれほどヤバい思いをしたか分かってんのか!」
なんて酔っぱらった友人にからまれる。何を仰るウサギさん、お前らも一緒になって喜んでたろーが(怒)。ここだけの話だけど、こーして悪事を働いた仲間の一人は現在、○京地○○捜部のお偉いさんでR。しつこいよーだけど、ここだけの話だからね。
こうした悪事の中で、ぼんくら少年がもっとも気に入っていたのは、停車中のクルマのタイヤと地面の間にかんしゃく玉を挟み込んでおくトラップだった。これは単純なんだけど、クルマが発進した途端に爆発音がこだまするので、運転手はまず間違いなく飛び出してタイヤを見て回るんだなぁ、シシシ。
かんしゃく玉のメカニズムはいたってカンタン。メーカーによって多少の違いはあるけど、基本的には黒色火薬とマグネシウム、アルミニウム粉末、そして砂が基本成分で、叩きつけたり圧力が加わって砂と火薬が擦れ合った結果として発火・爆発する仕組みだ。
とにかく使いでがあって、通学路で喧しく吠えかかる番犬にはパチンコでかんしゃく玉を飛ばしイジメ返してやったし、誰彼構わずイチャモンをつけて回る小言婆さんの家に忍び込んで(当時は鍵なんてかかってなかった)玄関にバラ撒いたりしたなぁ。いやぁ懐かしい(←未だに反省していない^^;)。安かったし、カンタンに手に入ったし、イケないことにも悪事にも邪悪なことにも使えたし、かんしゃく玉は悪ガキどもの必須アイテムだったのだ。
この使い方って、実は映画の特殊効果では当たり前のように用いられていて、鉄柱やコンクリートの壁など被弾する側に穴を開けて火薬を仕込めない時には、パチンコで飛ばして火花と煙を出すそうな。こういう仕事をしてる人たちって、ぼんくら少年みたいな悪ガキだったんだよ、きっと。
火薬なだけに危険でもあったわけで、ぼんくら少年は転んだ拍子にズボンのポケットに入っていたかんしゃく玉を暴発させてヒドい火傷を負ってしまったことがある。もちろんズボンもポケット部分が黒く焦げてしまった。これって因果応報ってヤツ? もちろん親にはこっぴどく叱られたけど、禁止はされなかったな。かんしゃく玉自体ではなく、用い方に問題を求めたあたりが昔と今の親の違うところだろうか。まあ、それをどう使っていたのかが分かればさすがに禁止したろうけど(笑)
■シャクなこの世のかんしゃく玉だ! 小林旭/東京スカパラダイスオーケストラ■
森永エンゼルマークのヒミツ [その他]
ぼんくらも集めた時期があったんだけど、なにせ長続きしない性格で、銀のクチバシを3枚集めたところで友達のメンコと交換しちゃってそれっきり。たまたま近所の女の子が当てた金のクチバシを、まるで月の石でも見るみたいに拝ませてもらい、その後届いたカンヅメの中身を見せてもらったら、それで満足しちゃったんだよね^^。結局のところ、カンヅメ自体はどうでもよくって、金のクチバシを当てるドキドキ感とカンヅメの中身に対する好奇心が満たされたらそれでよかったのだ。
むしろ関心があったのは、なんでクチバシに描かれたエンゼルがロゴのエンゼルと違ってるんだろうってことだった。当時のロゴは、ダイナマイトの発破スイッチを持ったエンゼルが墜落しているような絵柄だったのに、空を飛びながらこちらに手を振っている実にフレンドリーなエンゼルがクチバシには描かれていたからだ。ぼんくら少年的には何故ゆえにこちらの可愛いエンゼルをロゴに使わないのかが釈然としなかったのだ。
少年時代のこの疑問を解決すべく、40年年目の昨日、意を決して森永本社に電話してみたところ、鮮やかな回答をいただいた。
「さぁて…分かりませんねぇ」
当たり前だよねぇ(笑)。それでも折り返し連絡を頂けることになり、待つこと小1時間。本当にお電話を頂いて話を伺うことができた。
それによると、キョロちゃんを冠した『チョコボール』は明確に子供をターゲットにした商品であり、しかもそのオマケを手間をかけて集めてもらうために、子供たちに親しんでもらえるエンゼルを新たに考案した結果、現在もクチバシに印刷されている金銀のエンゼルが誕生したとのこと。
ならば何故、そのエンゼルを新たなロゴとして採用しなかったのか?
これは森永のロゴの歴史に関係がある。初代エンゼルマークが誕生したのは明治38年(1905)。日本が日露戦争に勝利し、仁丹が発売を開始した年だ。ぼんくらの少年時代に使われていたロゴはこれをリメイクしたものといっていいだろう。ちなみに、
「あれはダイナマイトの発破スイッチではありませんで、創業者森永太一郎のイニシャルを図案化したものなんですよ」
ということだった。ん~残念!
「ぼんくらオヤジさんがお子さんの頃に親しんで頂いたエンゼルマークは1951年から1986年まで使われた6代目にあたりますね。それ以降は7代目となる現在のエンゼルマークとなっております」
ちなみに何故、エンゼルマークがロゴに採用されているかというと、創業者の太一郎さんがメインで作っていたマシュマロが「エンゼルフード」と呼ばれていたことから図案にエンゼルが採用された由。
『おいしく たのしく すこやかに』という可愛いキャッチフレーズと共に世に出て1世紀。キョロちゃんのチョコボールと金銀のエンゼルは、平成の子供たちにも尚、愛され続けている。
■「大きいことはいいことだ♪」森永エールチョコレート 1968年■
■森永チョコフレーク by キャンディーズ 1976年■
■森永チョコボール&おもちゃのカンヅメ 1980年代■
■グリコ森永事件の頃のCM 1985年■
■森永ハイチュウ 血液型編(A型・O型) 1991年■