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『Oh! モーレツ』と小川ローザ [テレビ]

小川ローザ1.jpg ぼんくら少年が異性を意識し始めた昭和44年(1969)、はからずも鼻血ブー系の名CMが誕生する。『丸善ガソリン100ダッシュ』のCMだ。パターンはいくつかあるけど、クルマが猛スピードで走り抜け、風圧で小川ローザのスカートがまくれて白いパンティがチラリと見える。そこでローザが口元に手をやり「Oh!モーレツ」ってのが基本だった。いってみれば当時流行った『スカートめくり』の元凶ともいえる存在で、ぼんくら少年史上、極めて重要な位置を占めるCMなのであった(馬鹿だね^^;)。
 オリジナリティがあるのかモンローの真似なのかがイマイチ怪しい役を演じた小川ローザは当時23才。文化服装学院在学中の抜擢だった。このCMがきっかけで、歌手として『風が落とした涙』をリリースしたり、テレビドラマや映画に出演するなど、たちまちにして人気タレントとなったローザは、モータースポーツに華を添えるレースクイーンの元祖として伝説を残すことになる。
小川ローザ2.jpg そしてCM出演から1年と経たぬ昭和45年(1970)にはトヨタ・ワークスのエース・ドライバーだった川合稔と結婚。夫婦でコロナT80型のポスターのモデルになるなど華やかな経歴は頂点を迎えたが、半年後に夫が鈴鹿サーキットで事故死するという悲劇に見舞われる。その後は一切の芸能活動から身を引き、昭和48年(1973)に一時的に映画出演で復帰するものの同年に引退。その後の足取りは全く分からないという謎の多い女性でもあるのだ。
 平成13年(2001)に菊川怜の『猛烈サービス・超モーレツ!』で再復活を遂げたわけだけど、かつてのインパクトは既に無く。逆に小川ローザがいかに妖艶なタレントだったのかを思い知らされる出来の悪さだった。
 初代レースクイーンは、流れ星のように突然現れて輝き、大人にはエロスを、子供にはスカートめくりを遺して消えていった。


■猛烈ダッシュ 1969年■



■小川ローザ『風が落とした涙』 1969年■



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かぜ耕士と『たむたむたいむ』 [深夜放送]

 今日は、ぼんくら長男の中学校でゴスペル・コンサートがあった。学校のコンサートなんだからと大して期待もせずに行ったら、『アノインティッド・マス・クワイヤー』という綾戸智恵やDA PUMP、平原綾香、クリスタル・ケイと共演するぐらいの本格的なシンガーズで度肝を抜かれちゃった。頑張ったね、主催のPTA(拍手)!
 コンサート自体も本当に楽しくてよかったんだけど、アンコールで歌ってくれたのが『涙をこえて』だったんだよね。昭和40年代を生きた人なら知らない人はいないぐらいの曲なんだけど、ぼんくらオヤジにとっては、ある人物を思い出すという意味で感慨深い曲なのだった。
かぜ耕士1.gif かぜ耕士。この名前を覚えている人は、ある時期、相当な深夜放送ファンだったはずだ。『涙をこえて』を作詞し、風小路将伍というペンネームで数多くの情報番組やドキュメンタリー番組を手掛ける放送作家であり、昭和48年(1973)から昭和53年(1978)年までニッポン放送の深夜番組『たむたむたいむ』のラジオパーソナリティを務めていた人物だ。
 たむたむたいむは、ぼんくら少年がラジオの深夜放送に夢中になった時期とぴったり重なっていて、恐らくかぜ耕士の担当した期間は初めから終わりまで全部聴いたんじゃないかと思う。事情があって聴けない時はカセットに予約録音したり、友達に録音を頼んだりしてでも聴くほどのファンだった。深夜0時から0時10分までの『あおい君と佐藤クン』と0時30分から1時までの『コッキーポップ』の間の20分枠を使った番組で、飾らず真摯な姿勢でリスナーと向き合うかぜ耕士のトークは、多感な時期の少年の心に深く響くものだった。元祖都市伝説のナンチャッテおじさんの情報発信源としても知られているように『なんでもしゃべろう30秒』でリスナーの生の声を紹介したり、リスナーが自作自演した曲を流す『自作自演の歌』など、当時としては画期的な聴取者参加型の番組でもあった。
 最終的には、身体障害を抱えた人々をめぐっての意見が番組内で論争を呼んで、それに巻き込まれたかぜ耕士が心身ともに疲れ果てて番組を降板するという愛聴者としては辛い結末を迎えちゃうんだけど、それもかぜ耕士の誠実な人柄故のことだったのだと今では理解することができる。最終回なんて泣けて仕方がなかったし、しばらくは思い出しても身を切られるように悲しかったけどね。
かぜ耕士2.jpg 今じゃ番組のパーソナリティとかMCに人格的な影響を受けたなんて言ったら、
「バカか、お前」
 って笑われちゃうよね。でも、ぼんくら少年にとって、かぜ耕士は正にそんな存在だったよ。昭和とは、人を揺り動かす言葉や歌が電波に乗る時代だった。かぜさん、30年目の御礼です。本当にありがとうございました。



お知らせ: 『かぜ耕士のたむたむたいむ Web Version』にリンクするお許しを、かぜ耕士さんから頂くことができました。トップページからブログやウェブ・ラジオなど、現在のかぜさんの多彩な活動に触れることができます。恒久的なリンクは後で貼りますが、取り急ぎ本文にもリンクを掲載させて頂きます(※ウェブ・ラジオを聴くにはパスワードの申請が必要です)。末尾ながら、リンクを快諾してくださいましたかぜ耕士さんに深く御礼を申し上げます。

 『かぜ耕士のたむたむたいむ Web Version』 http://www.din.or.jp/~kkoji/



■たむたむたいむ最終回 前半 (下のリンクからどうぞ♪)■
http://www.youtube.com/watch?v=cLLu6Jqf-B0



■たむたむたいむ最終回 後半 (下のリンクからどうぞ♪)■
http://www.youtube.com/watch?v=4oZScWJ7zsM



■ステージ101による『涙をこえて』 1974年■



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ズック靴が子供のシンボルだった時代 [ファッション]

 先日、ぼんくら次男の靴を買いにショッピングモールに出かけた。今って凄いんだねぇ、子供用の靴って。サイズが小さいだけで、他は種類も値段も大人のものと大差ないんだよな。ポケットマネーで買ってやろうとタカをくくっていたぼんくらオヤジはすっかり青ざめてしまった。
「おーおーどれでもいいよぉ、好きなものを買いなさい。最低2足はね。交互に履かなきゃ直ぐにダメになっちゃうからね」
 なんて威勢のいいことを出かける前に言っちゃってたもんだから、ぼんくら次男は店に入るなり買い物カゴを引っ掴んで嬉々として靴の物色を始めた。ぼんくらオヤジは値札を見るたびに喉は渇くわ胃は痛くなるわ、薄れかけた意識の中でこんなことを考えていた。
「自分が子供の頃って何を履いてたっけ?」
 
運動靴1.jpg 思い出したのは『ズック』だ。『運動(スポーツ)靴』とも『短靴』とも呼ばれていた。ズックとは太い麻のより糸を分厚く密に織った耐水布のことだ。このズックとゴム底でできた靴を『ズック靴』と呼んでいたものが単にズックと呼ばれるようになったのだ。発祥の地は19世紀のイギリスで、日本では昭和24年(1949)に鬼塚商会(現アシックス)が納入用に生産を始めたのが最初と言われている。ただ、この通説については下調べの最中に戦前のアサヒ靴のポスターに似たような靴を発見したり、ズックという外来語が既に明治時代に使われていたというフシもあって、断定は避けたいと思う。
 一般的なズックは、足の甲の部分がゴムバンドで伸縮するようになっているものだった。しばらく使っているとこのゴムバンドの部分が波打ってきて脱げやすくなっちゃって、それが靴の寿命の目安でもあったと思う。中には穴が開くまで履く強者もいたけど(笑)。
運動靴2.jpg やがて布はズックからナイロンに変わり、ゴムバンドの部分がモロに見えないようにアニメキャラをあしらった合皮の飾りを被せたものなんかが登場したけど、基本形は全く変わっていなかった。価格も昭和40年代で300~350円と実にお手頃で、当時の子供たちにかける親の金銭感覚が伺える数字ともいえる。
 子供の靴といえば即、ズックか長靴という時代は昭和40年代の中頃まで続いたけど、万博と前後するように子供靴は急速に多様化を初め、ズックは学校の世界に徐々に押し込められていく。

「決めたよ」
 ハッと我に返ると、満面の笑みをたたえてぼんくら次男が目の前に立っている。重そうに手に持ったカゴには、ボルトが履いていそうなピッカピカのシューズが2足…。怖くて値札が見れないままにレジへ。
 この後の話は思い出したくもないので書かないけど、クレジットカードで決済しましたっ(号泣)


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B級玩具傑作選 - ベビーヘリコプター [遊び]

ベビーヘリコプター1.jpg この画像を見て数十年ぶりに思い出した人も多いんじゃないだろうか。
「忘れてたけど、これで随分遊んだよなぁ」
 ってね。『ベビーヘリコプター』と呼ばれたこのオモチャ、ヒモの付いたつまみをグイッと引っ張ると、ゴム動力の軸が回転して、軸上に載せた円盤状の羽が飛んで行く仕組みだった。
 結構な勢いで空高く羽が飛んで行くので、友達と飛ばしっこして遊ぶと、どっちが高く飛んだの遠くへ飛んだのと、きゃあきゃあ騒いで面白かったなぁ。問題はカンタンに壊れちゃうこと。動力源のゴムが切れちゃったり、引っ張ったヒモが元に戻らなくなっちゃったりと、これほどトラブるオモチャもなかった。馬鹿力で引っ張るほうがそもそも悪いんだけど。たいていは直そうとして致命的に壊しちゃうんだよね^^; それでも、ぼんくら少年が遊んでいた頃で20円と高い買い物ではなかったので、壊してもそんなに気にすることもなく買い換えちゃあ、また壊していた。
 名も知れないメーカーが作っていたベビーヘリコプター。今でもどこかで細々と作られているらしく、駄菓子屋やネットで100円程度で販売されてるよ。

ベビーヘリコプター2.jpg


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遊んで食べられる『カタヌキ』 [遊び]

カタヌキ1.jpg 祭りの縁日や駄菓子屋で忘れられない遊びやお菓子はたくさんあるよね。でも、遊べるお菓子となるとそうはないんじゃない? 以前に取り上げたフエガムやフエラムネ、フーセンガム…、後は何だろ? そうそう、忘れちゃいけないお菓子とも遊びともつかないものがあるんだな。『カタヌキ』だ。
 カタヌキは、第2次大戦中に大阪の製菓会社(株)ハシモトで誕生した。小さな長方形の板菓子に様々な模様が一筆書きで描かれていて、それを針などで割らずに抜き取れば景品がもらえるというシステムだった。昭和20~30年代中頃までに少年少女だった人は、紙芝居のおっちゃんが遊ばせてくれたという印象のほうが強いんじゃないだろうか。しかもカタヌキはべっこう飴だと覚えているはずだ。実をいうと、今のような精糖を主原料とした板菓子になったのは昭和40年代も後半になってからで、それ以前はべっこう飴を薄く延ばしたもので、名も『ヌキ飴』と呼んでいた。ところがこのヌキ飴、量産には相当な職人芸が必要で、しかも夏場は互いにベタベタとくっついてしまうことがあり、これを当時の技術でクリアするのはまず不可能だった。
 そこで精糖に澱粉やゼラチンを加えたものを高温下でもベタつかない薄い板状に加工したわけなんだけど、遊んでみれば一発で分かるようにメチャクチャ破損しやすいわけで、商品の取り扱いが当初から大問題だった。そこで課題となったのが大きさで、試行錯誤の末に現在の2.5cm×3.5cmという履歴書用の証明写真のような大きさに落ち着いた。驚くのは、未だに製造過程のほとんどが手作業で行われていることだ。製造機械の技術が発達した今でも、ちょっとしたことで板が反ってしまったり厚みが均一にならないなど、相変わらず職人芸を必要とするお菓子なのだ。
 平成13年(2001)には『ザ・かたぬき』として型を一新。最近では恋のおみくじ付き『チャレンジ!!』が発売されるなど、カタヌキは元気でっせ~♪ たまには遊んでや!!

カタヌキ2.gif

昔懐かしいオーソドックスなカタヌキのデザイン


カタヌキ3.gif

2001年以降の『ザ・かたぬき』のデザイン


■大人が夢中になってます^^ 分かるなぁ、この気持ち♪■



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『トランシーバー』も欲しかった [テクノロジー]

トランシーバー1.jpg 先日のレーシングカーセットとほぼ同時期に、やっぱり夢のような高額のオモチャが出回っていたのを覚えてる? 『トランシーバー』だよ。
 価格はメーカーや性能によってバラツキがあるけど、発売当初の昭和40年(1965)前後で、大まかに言って5,000円台だった。レーシングカーセットと同じぐらいだよね。だから、それこそお父さんが興味を持たない限りは、フツーの家庭の子供たちに手の届くオモチャじゃなかった。
 トランシーバーが発売されのは、ちょうどトランジスタの生産歩留まりが上がって市場価格が大きく下がり始めた時期だった。もっともこうした高額のオモチャは、レーシングカーセットと同じく欧米をターゲットに開発されたものをついでに国内にも流したわけで、消費市場が国内で成熟していたからではなかった。したがって持てる者と持てない者が発生したのは当然の成り行きだったといえる。
 もちろん、ぼんくら少年は「持てない者」の典型だった。でもこのトランシーバー、相手がいないとタダの箱なんだよね(笑)。これが幸いして、遊ぶにはホントに不自由しなかった。もちろん「持てる者」を抱き込む政治手腕は必要だったけどね、ひひひ。
トランシーバー2.jpg 見通しのいいところだったら軽く100メートルは電波が届いたかな。商店街や住宅街だと20~30メートルがいいところだったと思う。それでも離れたところにいる友達と喋れるなんて、当時の感覚ではスゴいことには違いがなく、トランシーバーに押し当てた耳に割れた友達の音声が飛び込んでくるのは何ともいえない快感だった。秘密基地から指令を出して駄菓子を買わせたり、別の友達を尾行して様子を基地の友達に伝えたり、遊び方は無限だった。トランシーバーを借り受けて、夜中に近所の友達と長々お喋りをした時のことは今も忘れられない。
 トランシーバーで遊んで、後にCB無線やアマチュア無線を始めた友達も少なくない。ふと思うんだけど、もしかしてこういう経路を辿ってきた人って、ネットもこの延長線上にない? ぼんくらオヤジは正にそうなんだけどな(笑)


■オモチャのトランシーバーで通話距離を試してます■



■親子でCB無線を楽しんでる様子です。いいですね♪■



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欲しかった『レーシングカーセット』 [遊び]

レーシングカーセット1.jpg ぼんくら少年は、誕生日やクリスマスが近付くと、いつになく熱心に新聞の折り込み広告をチェックした。おもちゃ屋のチラシを探していたのだ。クリスマス・シーズンのおもちゃ屋のチラシは、特に赤と緑のクリスマス・カラーで縁取りがしてあって、ズラリと並んだオモチャの写真はどれもこれもがステキに見えた。その中で真っ先に探し出して値段を調べたオモチャがあった。『レーシングカー・セット』だ。
 昭和37年(1962)にバンダイが発売したレーシングカーセットは、家庭用のスロットカーといっていい存在で、原理は鉄道模型と大した違いはない。軌道中央にスロット(溝)があって、この両側に電気が流れている。そしてミニチュアカーは、底にある通電端子から電力をもらって走行した。遊ぶほうは、アクセルだけのシンプルなコントローラーを持って、スイッチの押し加減でスピードを調節するんだけど、これがとにかく速いんだよね。特にカープが難しくて、直線の加速とカーブの減速をいかに上手く出来るかどうかで勝負がついた。
 軌道もいろんな形状があって、直線と曲線以外に、宙返り軌道なんかもあったよね。軌道もクルマもオプションでどんどん増やすことが出来て、その辺も魅力になっていたよね。
レーシングカーセット2.jpg 問題は値段の高さだった。元々バンダイが欧米市場向けに開発した商品だったので、あまり国内市場を意識した価格設定ではなかったのだ。昭和40年前後のキット(曲線と直線の基本的な軌道とレーシングカー2台)で定価が5,000円ほどしたわけで、現在の価値に引き直して、家庭用ゲーム機とほぼ同等の価格だったことになる。したがって庶民の息子だったぼんくら少年が、何度チラシに目を通しても手の届く値段に下がるはずもなく、いくら熱弁をふるって両親にプレゼンをかけても購入が承認されるはずもなく。当時の少年マンガ誌に数多あったレーシングカーセットが当たる懸賞にも幾度となく応募したけど、夢が適う前に少年時代が終わってしまった。
 まあ何だかんだと言って、結局はお人好しで金持ちの友達の家で散々遊ばせてもらったから、文句は言えないんだけどね(笑)


■シェイクカーをスロットカーに改造しちゃってます。大人になっても楽しんでるっていいね!■



■本格的なスロットカーの近況-まだ健在です! 昔はお店がありましたね♪■



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サボり懺悔写真日記 - 白鳥庭園 [サボり懺悔写真日記]

 今日は、ぼんくらオバンと朝から遊び回っていたので、記事が書けなかった^^; 持っていたiPhone3Gで近所を撮ってきたのでお茶濁しにアップするね、タマにはいいでしょう♪
 そもそも何で朝から浮かれていたかというと、朝の空気が爽やかで、しかもこんな鰯雲が出ていたからなんだよね。こりゃあ外に出るっきゃないでしょー^^
白鳥公園1.jpg

 てなわけでマンション1Fのコンビニでサンドイッチと飲み物を買い込んで、歩いて6~7分の『白鳥庭園』へ。名古屋市熱田区にある白鳥庭園は、平成元年(1989)の世界デザイン博覧会があった時に造成された新しい庭園なんだけど、そこそこによく出来ていて、外国人観光客にも人気のスポットだ。ぼんくら一家のようにご近所の住民にとっては、隣接する広大な白鳥公園と併せて憩いの場になってるんだよ♪
白鳥公園2.jpg

 まだまだ紅葉なんて先のお話。でもこんな天蓋のあるベンチなんて最高だよね。ここでぼんくらオバンと一緒に昼食やらお喋りやら読書やら。芝生で遊ぶ若い親子連れを眺めて楽しんでいるうちに、あっという間に時間が過ぎちゃった。
白鳥公園3.jpg

 日が傾いてきたのに、まだ帰ろうとしないぼんくらオバン。別に黄昏れてるわけじゃないよ、こんときだって、帰りにどこで買い物をしようかなんてことを喋ってたんだから(笑) これからも時々、ご近所の様子を放り込んでいくね♪ それにしてもiPhoneのカメラはあんまりよくないねぇ、これじゃ昭和初期の絵はがきだよ(笑)
白鳥公園4.jpg





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当たりがでたら、もう1本の『ホームランバー』 [食]

ホームランバー1.jpg ぼんくらオヤジは無類のアイス好きだ。美味いアイスクリームがあると聞くとどこにでも出掛ける。かつて横浜に住んでいたのは、ご存知のように横浜がアイスクリーム発祥の地だったからだ(ウソです^^;)。そして、この嗜好の原点となったのが『ホームランバー』だった。
 現在、メイトーのブランド名で乳製品を扱う協同乳業(株)と名糖産業(株)の2社で製造されているホームランバーだけど、パッケージが多少違うだけで中味は同じだ。
 ホームランバーは昭和30年(1955)、先の2社の母体となった名古屋精糖(株)がデンマークから最新式のアイスクリームバー・マシンを輸入したことから製造が始まった。当時はまだ珍しかったアイスクリームバーは売り出した途端に大ヒットし、マシンを24時間体制でフル稼働させても注文に追いつかなかったというからスゴい。
 1本10円という子供たちの小遣いでも手の届く値段設定。バーに刻まれた「名糖ホームラン!1本当たり」が出れば、もう1本もらえるというワクワクする仕掛け。単に物珍しさだったら一過性で終わっただろう人気を定着させたのは、こうした巧妙な販売戦略にあったのだ。また逗子などの有名な海水浴場では「名糖海の家」を開いたり、昭和35年(1960)には長嶋茂雄をホームランバーのキャラクターに起用するなどイメージ戦略を次々に展開した結果、ホームランバーは文字通りアイスクリーム界のホームラン王となる。
ホームランバー2.jpg おまけも「もう1本」から様々な景品にグレードアップしていって、昭和53年(1978)には空飛ぶ円盤UFO(フリスビー)やヘリコプターのオモチャ、昭和55年(1980)には1万名に当たる「ぼくらのスピードガン」キャンペーンを展開。拡販戦略も秀逸だった。
 多様化した消費者の嗜好や同業他社とのシェア争い、また昭和46年(1971)の名古屋精糖の倒産などで、かつての勢いは既にないけど、ホームランバーはバニラ、チョコ、プチパリチョコ、ソーダフロート、チョコボールなどのラインナップを擁して、日本の代表的なアイスクリームの座を守って今日に至っている。


■あんまり関係ないけど、アイスだけに愛を込めて♪■



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ライトプレーンは昭和の空を駆けた [遊び]

ライトプレーン1.jpg 駄菓子屋で買えたオモチャで、高くてなかなか買えなかったものがある。ライトプレーンだ。ゴム動力飛行機ともいわれていて、竹ひご製のフレームに紙を貼った翼と動力ゴムを実装した1本の棒材を組み合わせたものだ。材料と設計図を梱包したカラフルな紙袋が駄菓子屋の目立つ所に吊るされていた。名前も「スカイホース東京号」とか「スーパーアロー・テントムシ号」、「レルミック・レッドウイング」なんてカッコよかったよなぁ!
 作り方はいろいろで、部品を繋ぎ合わせて紙を張れば出来上がるものから、竹ひごを熱して曲げるところから始めなければならない上級者向けのものまで様々だった。ニューム管と呼ばれる管をカットして竹ひごのパーツ同士を継いだり、旋回させるために棒材の先をわずかに削ってプロペラを取り付けたりする必要があって、相当に手先が器用で辛抱強い子供でなければとても作れる代物じゃなかった。ぼんくら少年も小遣いを叩いて何度かチャレンジしたけど、まともに作れたことは一度もなかった。たいていはニューム管で繋ぐ際に力み過ぎて竹ひごを折っちゃうか、紙を上手く貼れずに貼り直しを繰り返しているうちに破ってしまうかで"THE END"となった。よしんば完成にこぎつけたとしても、翼がいろんな方向にひん曲がってしまって、まともに飛んでくれなかった。父に頼んで作ってもらう手もあったけど、壊そうもんなら大目玉を食らうのは目に見えていたので、これも叶わぬことだった。
 現在でも日本模型航空連盟(JMA)の行う競技会が各地で行われているけど、参加者のほとんどは高齢の熟練者で、子供たちや若者はほとんどいないという。遊びも多様化してるし、第一、遊ぶ場所を探すのが難しいかもね。その辺の公園で飛ばそうもんなら、
「お子さんやご老人にぶつかったらどうする気ですかっ」
 なんて公園のご意見番がふっ飛んでくるだろうな、たぶん。
 かつては校庭や稲刈りの終わった田んぼで空を自在に飛び回っていたライトプレーン。秋空をトンボと一緒に飛ぶ風景なんて、今年もお目にかかれないだろうな。

ライトプレーン2.jpg


■田んぼで飛び回るライトプレーン 秋空編■



■室内用ライトプレーン 映像が粗いのが残念!■



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