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肝っ玉かあさんと京塚昌子 [テレビ]

肝っ玉かあさん2.jpg 昭和43年(1968)から昭和47年(1972)までTBSで放送されたファミリー・ドラマ『肝っ玉かあさん』は平均視聴率が30パーセント前後をキープし続けるという驚異的な人気ドラマだった。
 石井ふく子がプロデュースし、平岩弓枝が脚本を担当したんだけど、日本語Wikiには向田邦子がクレジット無しで平岩の代筆を担当したことになってるね。ただし真偽のウラ取りになるような情報は残念ながら得られなかったし、よしんばそれが正しかったとしても向田がいつ、どんな状況でどの程度の代筆を行ったのかということも現時点では不明なので念のため。
「下北沢に行ってくるわ」 
 なんて生活圏の地名が登場するのでワケも分からず母と一緒に観てたドラマだったけど、割烹着姿での肥満体の京塚昌子がいかにも「日本の母」というイメージで、母とは「おっちょこちょいでしっかり者」だというステレオタイプが刷り込まれちゃった観がある。
 ドラマの舞台は、大正五三子(京塚昌子)が女手ひとつで切り盛りしている蕎麦屋の大正庵。長男、一(山口崇)の妻である綾(長山藍子)の実家や大正庵の従業員とのすったもんだを五三子が持ち前の明るさで前向きに解決していくというのが基本パターンだった。山岡久乃が演じる綾の母は、
「どっこいしょ」
 父役の千秋実は、
「馬鹿者っ」
「何だっ」
「うるさいっ」
 などなど、肝っ玉かあさんの「下北沢」も含めて、それぞれのキャラに決まり文句があるのも特徴だった。
 こうした手法も含めて『肝っ玉かあさん』は、後継の『ありがとう』や『渡る世間は鬼ばかり』のお手本になっていく。
 肝っ玉かあさんを演じた京塚昌子だけど、彼女ほど演じた役柄と実体がかけ離れた役者さんもそうはいないだろう。
 昭和5年(1930)生まれ。出身は東京。高校卒業後に新派の劇団に入団して役者としての腕を磨く。昭和27年(1957)から始まった東芝日曜劇場の『カミさんと私』で演じた伊志井寛役が当たりTVドラマに転身し、『肝っ玉かあさん』で母親役としての不動の地位を確立した。
 温厚な母親役とは裏腹に、私生活では数々の浮き名を流し、戸籍上は独身を貫いた。若かりし頃はスレンダー美人だったんだけど、盲腸の手術がきっかけで体質が変わり(本人伝)、最も太った時は、太腿が最も痩せていた頃のウエストサイズを上回ってしまったという。
 手術と体質云々はともかく、大の酒豪だったことが肥満の一因だったことは間違いない。なにせ、ウイスキーのボトルを一晩で3本も空けちゃったっていうんだから凄い。
 飲むと言えば「打つ」だけど、彼女の競馬好きも半端じゃなかった。好きが昂じて馬主にもなっちゃったし(笑)。ちなみに馬の名前は「マサコサン」だった。
肝っ玉かあさん1.jpg 性格的にも短気で激しいところがあったようで、杉田かおるによると、昭和50年(1975)のドラマ『山盛り食堂』出演時に、子役だった杉田にお腹の肉を掴まれた京塚が激怒し、杉田が降板させられるという出来事もあったようだ。
 たくさんの恋をし、破天荒に飲んで打って人生を楽しんだからこそ、京塚昌子は家族や親戚に滅私奉公していた当時の日本の母を演じることができたのかもしれないね。京塚昌子は昭和58年(1983)、公演先で脳梗塞で倒れ、長い闘病生活を送った後、平成6年(1994)、心不全のために死去した。享年65才だった。



■「肝っ玉かあさん」オープニング 年代不明■

http://www.youtube.com/watch?v=io6rpJsP0Iw&feature=related



■永谷園「ぜいたく茶づけ」CM by 京塚昌子 年代不明■

http://www.youtube.com/watch?v=oUnBJuRXRBU&feature=related


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天才・たけしの元気が出るテレビ!! [テレビ]

元気が出るテレビ1.jpg 先日のウィッキーさんの記事で登場した『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』は昭和60年(1985)4月から日テレ系列で放送されたバラエティ番組だ。
 ビートたけしの冠番組で、松方弘樹をはじめ原田大二郎、宝田明、野口五郎などがレギュラー出演していた。現在は当たり前の手法を先駆けて実現させた画期的な番組でもあったったんだけど、イケメン俳優やアイドル歌手がバラエティ番組でお笑い芸人とつるんでバカをやるなんてことは、当時の番組じゃあり得ないことだった。
 芸能界で言う「一般人」を高田純次なんかが突撃ルポして巻き込み、一躍時の人に祭り上げるなんて過激なこともやっていたよね。商店街の片隅で何十年と蕎麦を打って暮らしてきたお爺ちゃんを有名人にしちゃったり、好き放題をやって贅沢三昧に明け暮れる田舎の成金一家をおだてて殿様気分にさせたりと、今考えてもやり過ぎなんじゃないかと思うことをやっていた。
 この番組が最も過激で先駆的だったのは、扱う内容がフィクションなのかそうではないのかを視聴者に対してウヤムヤにするという手法をとったことだ。
 たとえば、ある町の商店街に奇妙な素行で知られるお婆さんがいるという話題があったとする。そこに高田純次をリポーターとする取材クルーが乗り込んで、商店街を巻き込むハチャメチャなリポートを交えながら問題のお婆ちゃんに肉薄するんだけど、道具立てとしての商店街や取材を受ける人々は本物であっても、肝心のお婆ちゃんはウソなのかホントなのかが視聴者には少しも分からないんだよね。もちろん最後までその辺の真偽が明かされることはなく、ただ成り行きが面白かったというイメージだけをのこして番組は終わっちゃう。
元気が出るテレビ2.jpg その後、こういう手法はドキュメント・バラエティというスタイル名が付けられて、以降の『電波少年』などのバラエティ番組に引き継がれていく。後続の番組群とは違って、ヤラセなんて言葉が一般の視聴者に知られていなかった頃のことだから、こうした違和感や混乱が視聴者に与えたインパクトは大きかった。
 それだけに批判も大きく、
「内容が馬鹿げている上に真偽のほどが明らかではない番組で、子どもたちに与える悪影響が懸念される」
 と、全国のPTAからは子どもに見せたくない番組のトップ5に、オンエア中の11年間にわたって名前が載り続けるという「怪挙」を達成した(笑)。
 また番組に取り上げられて人気の急上昇した人物や会社、商店街なんかが、企画終了後に再び見捨てられて様々な問題を引き起こす事態も少なからず発生し、テレビ制作に携わる人々のモラルが問われることにもなった。
元気が出るテレビ3.jpg たけしが有名なバイク事故を起こした後に精彩を欠いた時期があったことや、後発のフジテレビのバラエティ番組『だうんたうんのごっつええ感じ』やNHK大河ドラマ『秀吉』の大ヒットなどに視聴者を奪われたことで、番組は平成8年(1996)10月で打ち切りとなった。でも、ホントのところは、たけしが最終回の時に自身で語ったように、
「今のバラエティでやっていることはすべてこの番組でやってきた」
 という言葉がすべてだったんじゃないだろうか。およそテレビで遊べることはあらかたやっちゃったんだと思うよ。その後のバラエティ番組で『元テレ』を超える番組は出ていないもんね。やっぱりビートたけしは天才なのだ。



■軽井沢はとある蕎麦屋の怪しい蕎麦打ち名人 年代不明■

http://www.youtube.com/watch?v=Vo_YkqWGP28



■人気コーナーだった「早起きウエスタン」 年代不明■

http://www.youtube.com/watch?v=iP1JYZ0ioow



■「ジェットコースター」シリーズ ラストの宅八郎が圧巻! 年代不明■

http://www.youtube.com/watch?v=yKyUi86QoDo


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ウィッキーさんのワンポイント英会話 [テレビ]

アントン・ウィッキー.jpg 昭和54年(1979)から日テレの『ズームイン!!朝!』で『ウィッキーさんのワンポイント英会話』を担当していたのがアントン・ウィッキーさんだ。
 昭和15年(1940)にスリランカの裕福な家庭に生まれ、国立セイロン大学を卒業後、昭和36年(1961)に文部省の国費留学生として初来日。その後は東大農学部大学院で海洋生物学を学んで昭和44年(1969)に博士号を取得したという超エリートなんだよね。
 先に紹介した『ウィッキーさんのワンポイント英会話』は15年間も続いた人気コーナーだったから、東京で生活していた人なら彼に声をかけられた人がいるかもね♪ 朝の通勤・通学中の人にいきなり英語で声をかけ、質問するというゲリラ手法がお茶の間にアピールしたんだけど、当然のように逃げちゃう人もいて面白かったよね。考えようによっては迷惑な企画なんだけど、ウィッキーさんから滲み出る優しさとウィットのおかげで全然、不快な印象を受けなかったところがミソだったのかもしれない。
 15年の生放送のうちには様々な珍事件があったようだけど、ぼんくらが今でも覚えているのは、昭和63年(1988)に鞍馬天狗に扮したビートたけしとリポーター役の高田純次がこのコーナーに通行人として乱入した時のことだ。その時の模様は下のYouTubeの動画で楽しんでもらいたいんだけど、福留さんに正体を見破られるまでのたけしのしたい放題とウィッキーさんの生真面目な態度が対照的で可笑しくて仕方がなかった。これって、てっきりヤラセだと思ってたんだけど本当に『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』のゲリラ出演で、『ズームイン!!朝!』のスタッフから後日、たけしは散々お灸をすえられたらしい(笑)。
 最近はごくまれに『ズームイン!!』関連の特番に出たり、イエローハットのCMで顔を拝める程度だけど、ウィッキーさんは日本各地の大学教授を歴任後、現在は千葉の麗澤大学で国際比較学の教鞭を執っておられるとのこと。マスコミへの露出度が少ないことについては、
「大学の講義を犠牲にしてまでレギュラー番組に出演するつもりはない」
 と仰っている。さすがだね、ウィッキーさん♪



■ビートたけし VS ウィッキー 1988年■

http://www.youtube.com/watch?v=2kW0UOiuTM8



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あなたの知らない世界 [テレビ]

 このブログで怖いネタを扱うとお叱りを受けることが多いので鬼門なんだけど、子どもの頃は特に鬼太郎の世界と親しい関係にあるのか避けて通れないんだよね^^;
 ところで、夏休みとか旗日でないと観れなかったのがお昼のワイドショーだったよね。教育をしっかりしている家庭だと見せてもらえなかったもしれないな。不倫だ、芸能スキャンダルだと、子どもに触れてもらいたくないネタのオンパレードだもん(笑)。
 ぼんくら一家は教育上の配慮とは無関係にご飯時にテレビを点ける習慣がそもそもなかったので、フツーならお昼のワイドショーなんかとは無縁だったんだけど、昭和48年(1973)の夏休みから毎年、お盆のシーズンの水曜日に限ってテレビの音が聞こえるようになった。
あなたの知らない世界1.jpg 何でかというと、日テレの『お昼のワイドショー』でやっていた『あなたの知らない世界』というコーナーに家族全員がかじりついていたためで、この時だけはお昼ご飯の時間が11時半になった^^;。
 視聴者から寄せられた恐怖心霊体験をドラマと取材で再現し、それを霊能者や放送作家の新倉イワオさんが検証するというこの手の企画の元祖といっていいコーナーで、昭和54年(1979)からは毎週木曜日のレギュラーコーナーとなり、昭和62年(1987)に『午後は○○おもいッきりテレビ』になった後も平成6年(1997)まで続いた。
あなたの知らない世界2.jpg 内容は時代劇か吉本新喜劇並みにパターンが一緒で、多くは日本人の死生観を色濃くした輪廻転生や因果応報を土台にしている。先ず、何らかの霊現象が発生して障りがあったという再現ドラマがあり、スタジオで新倉さんが解説をする。場合によっては現場に霊能者が出向いて「霊視」を行い、起きたとされる霊現象から過去の因縁を特定してみせて除霊を行う。たわいもないといえばそこまでなんだけど、時に放り込まれる心霊写真とセットだったりするとなかなかに怖かった。
 小学生になったばかりの弟は、兄貴の背中にしがみついて肩越しに覗き込み、しかも時折、耳元で絶叫するので暑苦しいやらうるさいやら^^;
あなたの知らない世界3.jpg 普段は怖いものなしの妹も、この時ばかりは母の腕にしがみついて画面を食い入るように睨みつけていた。母は文字通り帝釈天で産湯を使ったクチなので、こういう因縁話はあっさり信じちゃうんだよね。母親の発散する恐怖心はたちまち子どもたちにも伝染し、かくしてお茶の間は阿鼻叫喚の世界と化すのだった(笑)。じゃあ父はどうしていたかというと、そういう家族をパイプの煙越しに観てニヤニヤしていたよ。あんなものはインチキだ、とも言わなければ肯定もしなかった。ただ一度、
「未知のものに畏怖の念を覚えるから恐怖心が生まれ、好奇心が恐怖心に勝って人は前進してきたんだ。恐怖心無きは高慢の証。好奇心無きは理性の敗北。ほっほっほっ♪」
 と言ったことがあった。そのせいかどうかはともかく、たしかに我が家には超常現象や心霊写真、UMA(未確認動物)やUFO、オーパーツ等々、兄弟でかき集めたジャンク本が山のようにあって、母が「邪魔だ」とブーブー文句を言っていた。父は暇つぶしによく読んでたけど(笑)。
新倉イワオ.jpg ところで番組の中核だった新倉イワオさんだけど、85才になった現在もお元気で、相変わらず心霊カウンセリングや講演などで各地を回っておられるそうな。
 お仕事柄なんだろうか、よくニセの死亡説が流れているようで、ぼんくらも去年、2チャンネルで彼が亡くなったという話を読んで信じちゃったことがある。彼の訃報については今後も要注意だよ(笑)。



■「お昼のワイドショー界」時代 1986年?■

http://www.youtube.com/watch?v=GL3xoSFFeSg



■「午後は○○おもいッきりテレビ」時代 1988年?■

http://www.youtube.com/watch?v=YJYDoksqluo



■「46年目の精霊流し!」エピソード2の1 年代不明■

http://www.youtube.com/watch?v=fiieZUIc3RU



■「46年目の精霊流し!」エピソード2の2 年代不明■

http://www.youtube.com/watch?v=UeoxlANVfkg


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白バイ野郎ジョン&パンチ [テレビ]

ジョン&パンチ.jpg 日々お世話になっているブロ友、ダーさんのアイコンを観る度に懐かしい思いでいたんだけど、今日は昭和52年(1977)から昭和58年(1983)まで放送されていたアメリカのTVドラマ『白バイ野郎ジョン&パンチ』を取り上げてみるね。
 原題は "CHiPs"。CHiPsは "California Highway Patrol" の頭文字CHPから作られた愛称なんだけど、ドラマもCHiPsのセントラル分署に配属されている2人の警官ジョン(Jon ※"Jonathan"の愛称なので"John"じゃないよ)ことジョナサン・アンドリュー・ベイカーとパンチ(Ponch ※アメリカではフランク"Frank"と呼んでいる)ことフランシス・ルエリン・パンチョレロを軸に展開する警察ものだ。
 ジョン役はラリー・ウィルコックスで声優は田中秀幸、パンチ役はエリック・エストラーダで声優は古川登志夫が担当した。ただし、ジョンは第5シーズンをもって実家の農場を手伝うために退職してしまったので、第6シーズンではパンチの相棒がトム・ライリーの演じるボビーに交代した。ボビーの声優は太川陽介だった。
 実はこのジョンの交代劇なんだけど、名コンビを演じていたラリーとエリックが、実際は不仲だったからだと言われているよ。初顔合わせ以来ギクシャクしていたんだけど、ドラマがヒットしてパンチの人気が突出するようになって関係はいよいよ悪化し、第5シーズンに入って耐えられなくなったラリーが降板。観ているほうからすれば、いかにも唐突としかいいようのない相棒交代劇になっちゃった。ドラマのタイトルも『白バイ野郎パンチ&ボビー』に代わったよね(笑)。
ラリー・ウィルコックス.jpg ラリーは降板後も俳優やディレクターの仕事を続け、平成10年(1998)には再び『帰ってきた白バイ野郎ジョン&パンチ "CHiPs '99"』でエリックとコンビを組んだりしていたんだけど、62才になった今ではビジネスに軸足を移していて、大会社の経営責任者として活躍しているよ。
エリック・エストラーダ.jpg エリックは相変わらず俳優として元気に活躍している。御年60才。ちょっとお腹は出てきたけどね(笑)。プエルトリカンの血を活かしてスペイン語のドラマで大当たりしたり、最近ではカートゥーン・ネットワークのアニメ "Sealab 2021" で声優を務めるなど、多彩な活動で知られている。
 血なまぐさい題材の多い警察ドラマだけど、ジョン&パンチはあくまで明るく、親切で温かみのある警察を描いた本当に気持ちのいいドラマだったよね。警察の日常が違和感なく描かれていたのは、プロデューサーのリック・ロズナーが警察の広報官をしていて内情に詳しかったからなんだって。
 最後にジョン&パンチが乗っていた白バイだけど、あれはハーレイダビッドソンじゃなくて、なんとカワサキなんだって! 当時のCHPで実際に配備されていた "Z1000POLICE" というバイクだそうな。詳しい人がいたら教えてね♪



■イントロ初代バージョン 意外に知られてないかも 1977年■

http://www.youtube.com/watch?v=EAVtR21BrM4



■イントロお馴染みバージョン これが日本じゃ定番かな 年代不明■

http://www.youtube.com/watch?v=VTDOLoDiOcg



■Mad TV版ジョン&パンチ 18禁! 品行方正な人は観ないでね^^;■

http://www.youtube.com/watch?v=hAPiG993F10


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ノッポさん [テレビ]

ノッポさん1.jpg ノッポさん。昭和42年(1967)から平成2年(1990)までNHK教育テレビで放送された『なにしてあそぼう』『できるかな』に登場する身長181センチのおじさんキャラだ。
 演じていたのは俳優であり歌手であり、そして作家でもある高見映さんだ。昭和9年生まれだから、ノッポさんを始めたのは33才の時で降板したのが56才。今年の5月で76才になるんだね。
 芸人の父を持ち、フレッド・アステアに憧れてダンサーを志すも芽が出ず、一時は自殺を考えるほど追い詰められたんだけど、すんでのところでノッポさんの役が転がり込んできた。以来、高見さんは23年間にわたって決して喋ることのないキャラを演じ続けることになる。
ノッポさん2.jpg その高見さんが口を開く日が来る。『できるかな』の最終回で、ノッポさんとして初めて子どもたちに語りかけたんだ。台詞は全部、アドリブ。喋り始めて間もなく、高見さんは、
「うわー、喋っちゃった」
 と漏らす。喋らないノッポさんへの決別を勝手にしてしまったという思いが、つい口をついて出たのだった。
 放送終了の反響は高見さんの予想を遥かに超えていた。ある日、街を歩いていたら、見知らぬ大人が高見さんに気付いて泣き出した。懐かしさと寂しさが込み上げてきたからだった。
「イメージ通りの声でした」
 と往来で声をかけてもらったこともあった。嬉しかった。随分と長い間やってきたんだなぁ、と感慨もひとしおだったという。イメージ通りの声だったからこそ、番組終了後もずっとノッポさんとしてやってこれたんだと、今では最終回で語りかけて本当によかったと思っているそうだ。
ノッポさん3.jpg フジテレビの『ひらけ!ポンキッキ』などの筆頭構成作家として台本を手がけたり、児童文学作家として50冊近くの著書を書き上げるなど多彩な活動を続ける傍らで、相変わらずテレビ番組や教育機関からはノッポさんとしての出演・講演依頼が後を絶たなかった。気付いてみれば、著作のほとんどは高見映ではなく『高見ノッポ』。幼児・児童教育の分野で長年の功績を認められて受賞した第58回放送文化賞は『高見のっぽ』に与えられた。
 特に平成17年(2005)に71才で初挑戦した短編ミュージカル『グラスホッパー物語』以降は、別に高見さんが自分で名乗っていたわけでもないのに、世間では高見のっぽという名前が定着しちゃった。
 相手の年齢や立場に関わりなく周囲に敬意を払う謙虚な姿勢や優しい人柄の故か、高見さんは子どもたちのことを、いつも『小さい人』と呼ぶ。
ノッポさん4.jpg「ぼくが嫌いなのは『子どもの目線』というやつです。大きい人は“子どもの目線で物事を考えなさい”とよく言いますが、ヘタをすれば小さい人のほうが目線は高いかもしれない。そういう思い上がりにまったく気づかない人を、ぼくは認める気になれません。実際、上から見下したような態度で物を言う大きい人を、5歳当時のぼくは軽蔑していました。“そんなこと言われなくてもわかってるよ。馬鹿にするな”って。小さい人というのは、それくらい油断できない相手なんです(東京都人権啓発センター刊『TOKYO人権 第30号』平成18年6月6日発行)」
 ボクらはノッポさんに遊んでもらい育ってきたんだけど、ノッポさんのような本当の意味での『大きい人』になれたんだろうか?



■「できるかな」 高見さんの軽快なタップダンスが見物♪ 年代不明■

http://www.youtube.com/watch?v=RSlVCmDPrCo



■「できるかな」最終回 ノッポさんがしゃべった! 1990年■

http://www.youtube.com/watch?v=nUIy3aBDAyI



■「グラスホッパーからの手紙 - 忘れないで」 2005年■

http://www.youtube.com/watch?v=SwdkwC9scD8



■「グラスホッパー物語」 素晴らしい出来です♪ 2005年■

http://www.youtube.com/watch?v=0CzdXYlRMLk



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デンセンマンと電線音頭 [テレビ]

デンセンマン1.jpg ニューギニアの火力発電所から100万ボルトの送電線に乗って日本にやってきたヒーローは誰だ? 分からない? じゃあね、ツートンカラーの全身タイツに赤い裏地の黄色いマントをまとって、ガイシの付いた電柱が耳という出で立ちで分かるかな。ダメ? 最後のヒントは、マントにスズメが3羽留まっていて、電線音頭を踊るキャラだよ。もう分かったよね、デンセンマンだ。
 デンセンマンは昭和51年(1976)から昭和53年(1978)までNET(現テレビ朝日)で放送された『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』に登場した人気キャラクターだ。番組中の「キャンディーズの作法教室」というコーナーで、ベンジャミン伊東(伊東四朗)と小松与太八左衛門(小松政夫)と一緒に唐突に乱入して電線音頭を踊り、再び唐突に去るというシュールさがウケて一大人気キャラにのし上がった。
 キャラクターデザインは、なんと石ノ森章太郎が担当してたんだね。ちょっとピンと来ないような気もするんだけど、同時期に放送されていた『超神ビビューン』も彼の作品だったことを思えば納得がいく。
 ところでデンセンマンが踊っていた『電線音頭』だけど、デンセンマンのために作られた曲じゃないって知ってた?
デンセンマン2.jpg 元はといえば『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』の前番組だった『ドカンと一発!60分』で桂三枝が歌っていたものだったんだ。レコード化しても全然売れなかったんだけど、番組では評判が良かったので『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』に引き継がれて使われ、今度は伊東&小松コンビで『デンセンマンの電線音頭』として再販したら大当たりしたんだよね。
 子どもは友達同士でのおふざけに、大人は宴会芸としてホントに都合のいいネタだったから、未だに歌って踊れる人がいるんじゃない? ぼんくらオヤジは…覚えてました(笑)。今でも歌って踊れますっ(恥)


『デンセンマンの電線音頭』

作詞:田村隆 作曲:不詳 編曲:東海林修

デンセンマン3.jpgさあ! みなさん ご一緒にどうぞ!!
チュチュンガチュン チュチュンガチュン

(伊東)
電線に スズメが三羽止まってた
それを猟師が鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ
ヨイヨイヨイヨイ オットットット
ヨイヨイヨイヨイ オットットット

(小松)
勉強は 国語 算数 理科 社会
休み時間に弁当食ってさ
先生にさ 呼ばれてさ 立たされてた
ヨイヨイヨイヨイ オットットット
ヨイヨイヨイヨイ オットットット

(デンセンマン)
裏山に UFOが飛んで来た
それを猟師が鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いて 食ってさ
ヨイヨイヨイヨイ オットットット
ヨイヨイヨイヨイ オットットット

チュチュンガチュン チュチュンガチュン

(スクールメイツジュニア)
僕んちは カラーテレビが 三台あってさ
パパは野球に ママドラマ
ぼくとさ 妹はさ お勉強さ
ヨイヨイヨイヨイ オットットット
ヨイヨイヨイヨイ オットットット

(全員)
キャンディーズ 淳子に百恵に ひろみくん
ドリフターズも大好きだけど
一番さ好きなのは デンセンマン
ヨイヨイヨイヨイ オットットット
ヨイヨイヨイヨイ オットットット

チュチュンガチュン チュチュンガチュン

(全員)
電線に スズメが三羽止まってた
それを猟師が鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ
ヨイヨイヨイヨイ オットットット
ヨイヨイヨイヨイ オットットット


■正調「デンセンマンの電線音頭」■

http://www.youtube.com/watch?v=2bB9v7b20Fg



■「デンセンマンの電線音頭」フルバージョン■

http://www.youtube.com/watch?v=LgvKx5nPzcY


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キャロライン洋子 [テレビ]

キャロライン洋子1.jpg キャロライン洋子のことを覚えてる? ぼんくらオヤジが彼女を初めて知ったのはいつだったのかはっきりしないんだけど、昭和37年(1962)生まれの彼女は、ぼんくらオヤジが物心のついた頃から絶え間なくテレビに登場していて、会ったこともないのに2番目の妹みたいな気持ちになるほど身近な存在だった。
 今でもはっきりと覚えているのは、昭和50年(1975)にNHK少年ドラマシリーズで放送された『長くつ下のピッピ』と、同年に日テレで流された『少年探偵団-BD7』だ。
 妹がかじり付いて観ていた『長靴下のピッピ』では、ピッピの吹き替えをキャロライン洋子が担当していて、
「チョラホップ チョ~ララララ チョラホップ サンサン♪」
 で始まるテーマ曲も歌ってたんだけど、吹き替えとは思えなぐらいピッピそのものといった感じで、ピッピのキャラ設定とテレビで見せる活発でおてんばなキャロラインのイメージがピッタリ重なった文字通りのはまり役だった。
少年探偵団.jpg もう一方の『少年探偵団』は、ぼんくらオヤジはもう中3だったからフツーなら観てない種類の番組なんだけど、弟が欠かさず観てたんで覚えてるんだよね。キャロラインの実兄、黒沢浩が少年探偵団の団長役で、その妹役を本当の妹のキャロラインが演じてたんだけど、覚えてるかな。主役級の7人の陰に隠れてたから、ちょっと記憶にない人のほうが多いかも。なにせ実の弟妹だから呼吸もピッタリ合っていて、なんとも健気な妹を好演していたんだよ。
キャロライン洋子2.jpg キャロライン洋子の本名はCaroline Nan Koff。アメリカ人の父と日本人の母を持ち、東京で育ったんだ。兄妹で劇団若草に入り、昭和40年(1965)に読売テレビのドラマ『パパのおくりもの』に出演して以来、人気子役・モデルとして様々なテレビ番組や雑誌に登場して、当時の子どもたちの憧れでもあった。子役時代を過ぎてからもタレントとして活躍していたんだけど、19才の時にアメリカに活動拠点を移し、散発的にCMやトーク番組などに顔を出す程度で、徐々にタレント活動から遠ざかっていく。
 その後のキャロラインの転身は見事なものだった。数理科学と数学を専攻してオレゴン州立大学を優秀な生成期で卒業して同大大学院に進学。人工知能に関する論文で修士号を取得して、現在はヒューレット・パッカード社で人工知能の研究を続けている。
 余談だけど、兄貴の黒沢浩(William Hiroshi Koff)も現在、テレビ番組・CMの制作会社を経営するなど、目立たないけど活躍している。最近流れている「プロアクティブ」のCMは彼の会社が手掛けてるよ♪



■「長くつ下のピッピ」テーマ曲 by キャロライン洋子■
長くつ下のピッピ1.jpg




■「少年探偵団 BD7」オープニング 兄貴の浩のほうだけね^^;■

http://www.youtube.com/watch?v=G4w2dd6u1To



■キャロライン洋子出演のCM集 1980/86/87年■

http://www.youtube.com/watch?v=ITnTZNJUY5E


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日本初のテレビCM [テレビ]

精工舎CM.jpg ゴメンね、今日はトラブルが発生したので本当の小ネタで許してね。
 国内のテレビCMのお初は、昭和28年(1953)8月28日の午後7時から日本テレビで流された精工舎(現・セイコーホールディングス株式会社)の時報だ。本当は午前11時20分から日本初の民放局として日本テレビが本放送を開始したのに続いて、
「精工舎の時計が正午をお知らせします」
 という正午の時報として流すはずだったんだけど、スタッフがセッティングを間違い、フィルムを裏返しに入れちゃってNG。そこで仕切り直しをしたのが午後7時だったんだよね。なんとものんびりしたお話だけど、このCMこそが、以降に連なる恐ろしい数のCMの源だと思うと、やっぱり感慨深いものがあるよね♪



■日本初のテレビCM「精工舎の時報」 1953年■

http://www.youtube.com/watch?v=XGfnEkP6wk8


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CM『一秒の言葉』にみる昭和と平成 [テレビ]


■SEIKO「一秒の言葉」 昭和バージョン 1985年■

http://www.youtube.com/watch?v=yFejf6D97m8




「一秒の言葉」 by 小泉吉宏(※) 

「はじめまして」
この一秒ほどの短い言葉に
一生のときめきを感じることがある

「ありがとう」
この一秒ほどの短い言葉に
人の優しさを知ることがある

「がんばって」
この一秒ほどの短い言葉で
勇気がよみがえってくることがある

「おめでとう」
この一秒ほどの短い言葉で
しあわせにあふれることがある

「ごめんなさい」
この一秒ほどの短い言葉に
人の弱さを見ることがある

「さようなら」
この一秒ほどの短い言葉が
一生の別れになる時がある

一秒に喜び 一秒に泣く
一生懸命 一秒
一生懸命 コミュニケーション

※吉宏さんの吉は土に口のほうです。



■SEIKO「一秒の言葉」 平成バージョン 2008年■

http://www.youtube.com/watch?v=xsnhOJM-BxU



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