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ティッシュ・ペーパーの謎を探る [テクノロジー]

kleenex2.jpg 今朝、地震のニュースを観ながらぼんくらオバンが、ボックス・ティッシュの取り出し口に付いているビニールをペリペリと剥がし始めた。ビックリして何故ゆえに左様なことをするのかと問うたところ、
「認知症の入居者さんがこれを取りたがるんだよね。どうしてかなって思って」
 なぁるほど。彼女は老人ホームでも認知症の入居者さんが居住する棟で働いていて、普段から熱心に認知症の勉強もしている。当然、認知症特有の行動についても興味津津なわけで。
 でも、ぼんくらオヤジはむしろ、何故こんなところにビニールが付いているんだろうという素朴な疑問が湧いてきた。箱の製作工程に、こんなひと手間をかけただけで俄然、コストもかかる。消費者は、資源ゴミに出すときに、イチイチ潰したうえにこのビニールを剥がさなきゃならない。お互いに負担を強いるからには、それ相応の理由があるに違いない。そこで早速、調べました! 
 箱にホコリが入るのを防ぐため。えー、そんな理由? ぼんくらオヤジは、箱から出すときに一遍に出てこないようになってるとか、そんな理由を考えてたんだけどなぁ。納得がいかずに、ぼんくらオバンがビニールを剥がしたボックスで試してみたけど、たしかにビニールがなくても普通にペーパーを取り出すことができた。
 ならば、なぜティッシュ・ペーパーはああもキレイに引き出すことができるんだろうか?
 残念ながら、これは細かいメカニズムが分からなかった。ただし紙の重ね方に秘密があるのは確かで、1枚引き出すごとに次の紙の一部が箱の外に飛び出すようになる重ね方と折り方が開発されるまでには相当な試行錯誤と時間がかかったようだ。
 もうひとつの疑問は、なぜ2枚で1組なのか?
 これは、1枚ずつの製造では、今の技術をもってしても折って重ねる工程などで大量生産が難しいほど薄く、逆に2枚分の厚さでは柔らかく製造できないためだ。
kleenex1.jpg ティッシュ・ペーパーは、第一次世界大戦中に脱脂綿の代用品として開発され、一部はガスマスクのフィルターなどにも使われたが、戦争が終わって多量の過剰在庫が発生。それをアメリカのキンバリー・クラーク社がメイク落とし用として販売したのが『クリネックス・ティッシュ』だ。1924年のことだった。英語で"tissue paper"と言わずに"facial tissue"または"Kleenex"と言うのはこのためだ。当初は重ねて裁断したものをドサッと売っていたみたいだけど、1928年にはポップアップ式のボックス・ティッシュの原型が誕生している。もちろん今のように引き出せるようになるまでには数十年もの歳月が必要だったわけだけど。
 日本でボックス・ティッシュが発売されたのは昭和38年(1963)。以来、日本独自のちり紙は、瞬く間にティッシュ・ペーパーにとって代わられてしまう。消毒剤などが配合されたウエット・ティッシュや肌荒れを軽減する鼻炎用ティッシュなど様々な形に進化しながら、ティッシュ・ペーパーは昭和生まれのボクらと一緒に育ち、平成の今も生活の一部となっている。






■日本人のティッシュの年間消費量は1人あたり約4.5キロで世界一。問題でっせ!■




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皆さんのご無事をお祈りしています - 大地震 [業務連絡]

prayer.jpg 今朝の大地震で名古屋のぼんくらオヤジも大きな横揺れ(震度4)を感じて飛び起きました。ぼんくら息子たちは寝たままでしたが(^^; これは大きな地震がどこかで起きたに違いないとテレビをつけたところ、駿河湾を中心とする震度6弱の地震発生を各局が伝えていました。
 ブログをご覧の皆様の中には、静岡・伊豆方面にお住まいの方がいらっしゃるかもしれません。特に震度5、6の地震に遭われた皆様のご無事を祈っております。
 
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B級玩具傑作選 - マジックハンド [遊び]

マジックハンド1.jpg「こりゃ使えたもんじゃないや」
 一見、役に立ちそうで、使ってみれば単なるオモチャといえるのが『マジックハンド(任天堂の『ウルトラハンド』)』だ。
 ぼんくら少年は虫が嫌いで、とくに毛虫と蛾が死ぬほどダメだったものだから、マジックハンドを百貨店のおもちゃ売り場で発見した時は狂喜乱舞した。これさえあれば、あのグロテスクな生き物に直接、触らずに自分の身の回りから排除できるし、指をカマで挟まれることなくカマキリを捕獲できると思ったからだ。
 決して安くはなかったこのオモチャを必殺「買ってくれダンス(野原しんのすけみたいにお尻を振りながら「買って買って買ってぇ~」と連呼する技)」で手に入れたぼんくら少年は、早速、部屋に飛び込んできた体長5センチ余りの仇敵スズメ蛾を捕獲することにしたのだった。
マジックハンド2.jpg 結果は悲惨極まりないものだった。入手したマジックハンドは蛇腹式で、畳まれたアームが伸びると同時に先端が閉じてターゲットを掴むというタイプだったから、ある程度アームを伸ばしておいてターゲットに先端を近付けないと掴むことはまず不可能な代物だった。なわけだからそーしたんだけど、伸ばすほどにアームがユーラユーラと揺れて蛾に焦点が定まらない。えいやっ、と繰り出した先端部はまったく見当違いな方角に吹っ飛び、壁に当たった振動に驚いた蛾は飛び立って、あの独特の直線的な飛行形態でもって、こともあろうにぼんくら少年の首筋にピタっと張り付いたのだった。その後のことは覚えていない。
 ぼんくら母によると、夕食の片付けも終わって、テレビを観ながら居間でくつろいでいたら、息子の部屋からこの世のものとも思えぬ絶叫が! 驚いて部屋に駆けつけると、マジックハンドを握ったままで息子が床に倒れていて、首筋には大きな蛾がブローチのように張り付いていたそうな。何が起きたのかが分からなかったぼんくら母は気絶した息子を抱きかかえて、近所のお医者さんのもとに走ったのだった。
マジックハンド3.jpg 目が覚めると、消毒液の臭いのする部屋で心配そうにこちらを覗き込むお医者さんとぼんくら母の顔が。
「どうした! 大丈夫か?」
 不思議がって根掘り葉掘り質問するお医者さんと母にどう答えていいか分からず、結局、本当のことは言えなかった。だって子供心にバカバカし過ぎて、こんなことで騒ぎになったなんてことがバレたら…ねぇ^^;
 あまりのムゴたらしい結果に以降、ほとんど手をつけることもなく、マジックハンドはオモチャ箱に眠るゴミと化したのだった。合掌


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丸美屋のふりかけが好きだった [食]

すきやき.jpgのりたま.jpg 今日は体調不良なので、軽く懐かしアイテムを取り上げるね♪
 ぼんくら少年が親に付いてスーパーに行くと、買ってもらえるまでは床に寝ころんで手足をジタバタさせて騒ぐ商品がいくつかあったんだけど、丸美屋のふりかけもそのひとつだった。
 数あるふりかけの中でも、丸美屋の『のりたま』と『すきやき』は、平成の今も定番に居座っているふりかけ界の王者だ。
 『のりたま』は昭和35年(1960)、『すきやき』は昭和39年(1964)年に発売された。特筆すべきはエイトマン・シールを封入した『すきやき』と『のりまき』で、撒き餌には必ず食いつくというぼんくら少年のような子供たちの支持を得て、驚異的なヒット商品になった。その後もスーパージェッター・シールの封入商品を投入するなど、ヒットにヒットを重ねて、丸美屋は不動の地位を占めていく。
 手弁当ブームに『手のりたま』や『どこでモーすきやき』を投入するなど、丸美屋は未だ意気軒高。昭和30年代の商品で平成を席巻している。頑張れ、丸美屋!






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証城寺のタヌキは渡米していた [音楽]

the-hungry-raccoon.jpg 昭和59年(1984)にアサヒビールが出した「生とっくり」のCMを覚えてる? タヌキなガイジンのお姉さんたちが舌なめずりをしながら徳利に入ったビールを飲むっていう絵的には大したCMじゃなかった。でもミョーに気になったのが使われていた曲だ。『証城寺のタヌキ囃子』には違いないんだけど、英語なのだ。しかも音がSP盤っぽい。気になって広告関係の雑誌を調べたものの分からず、そのうち忘れて今日という日を迎えてしまった^^;;; それが今朝、ぼんくら次男が歌っていた鼻歌で唐突に思い出したので調べてみたら、なんとあっさり分かってしまいました。ネットって、やっぱりスゴいね!
 歌っていたのはアーサー・キット(Eartha Kitt 1927 - 2008)という歌手で、オーソン・ウエルズをして「世界で最もエキサイティングな女性」と言わしめたほどの女優でもあった。アイデンティティを喪失したかのようなエキゾチックでセクシーな芸風で、日本ではあまり知られていないけど、アメリカでは多彩な活動で知られる芸能人だった。
eartha_kitt.jpg もしかすると『ウシュカ・ダラ(Uska Dara)』って曲を知ってる人はいる? 江利チエミも歌ってた(恐らくは)トルコ民謡なんだけど、江利チエミのじゃないウシュカ・ダラを覚えてる人がいたら、それって、たぶんアーサー・キットだと思う。それにしても何なんだろう、彼女の発散する無国籍性って。お母さんがチェロキー族のインディアンとアフリカ系アメリカ人の混血児、お父さんがドイツ人(あるいはオランダ人)という複雑な血筋が芸風の根っこにあったのかな。
 彼女がなんで昭和31年(1956)に証城寺のタヌキ囃子を歌うことになったのかという経緯は不明。各国の歌を万国旗式に歌っていた人でもあるので、あんまり大した理由はなかったかも(笑)。
 最後に"Sho-Jo-Ji The Hungry Raccoon"の歌詞を。歌ってみない? 面白いよ♪

Sho-jo-ji (The Hungry Raccoon)


Sho sho sho-jo-ji,
sho-jo-ji is a raccoon.
He is always hungry
so he sings of koi koi koi.
He will rub his head and tummy,
rub head and rum tum tum.

Macaroons and macaroni,
jelly beans, and pink abalone,
koi, koi, koi, koi, koi, koi
All he says is koi koi koi

Sho sho sho-jo-ji,
sho-jo-ji is a raccoon.
He is always hungry
so he sings of koi koi koi.
Always a-hungry very hungry
that’s why he sings of koi

Sho sho sho-jo-ji,
sho-jo-ji is a raccoon.
He is always hungry
so he sings of koi koi koi.
He will rub his head and tummy,
rub head and rum tum tum.

Makeruna makeruna,
osho-san ni makeruna
Koi koi koi koi-koi-koi
Minna dete koi-koi-koi

Sho sho sho-jo-ji,
sho-jo-ji is a raccoon.
He is always hungry
so he sings of koi koi koi.
Always a-hungry very hungry
that’s why he sings of koi.


■Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon) by Eartha Kitt■




■アサヒビール 『生とっくり』のCM■




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少年は『地球ゴマ』に宇宙をみた [遊び]

地球ゴマ1.jpg ぼんくらオヤジは引き籠もりとは無縁の少年だったけど、たまに部屋に籠もると勉強机の上でする“お楽しみ”があった。
 『地球ゴマ』。コマの軸と赤道方向に金属の輪っかが回してあって、輪っかからは天地に軸足が付いている。この輪っかの中に円盤形のコマが仕込んであって、糸を巻いて回転するのはこちらのほうだ。ブーンという音と共に中の円盤が回転すると、不思議なことに外側のシェルは回転することなく立ち上がる。その状態でシェルの軸足に力を加えると、地軸を中心に傾斜しながらシェル自体が回ったりもする。普通のコマでは、よほどの熟練者でなければ出来ないような芸当がカンタンにできるのが魅力だった。
 理系の知識に明るい人ならすぐに分かると思うけど、地球ゴマの正体はフランスの物理学者フーコーが1852年に発見した原理に基づくジャイロスコープだ。こーゆー話が苦手な人も、せっかくだから、ちょっと付き合ってよ♪ ジャイロ効果は、次のたったふたつの理屈で成り立っている。

1.円盤が高速回転をしていると、外から力が加わらない限り、回転軸の向きは一定する。
2.いったん回転軸に力を加えると、それに対して90度の方向へ回転軸が移動する。

 なぜ地球ゴマという名前が付いたかといえば、このコマで地球の自転や公転を分かりやすく理解できるからだ。同じ理屈でジャイロコンパスやジャイロスタビライザー、オートパイロットなどの仕組みを勉強できるので、理系の学校や科学クラブでは欠かせない実験教材でもある。
地球ゴマ2.jpg 地球ゴマは名古屋のタイガー商会が大正10年(1921)に製造販売を始めた由緒ある玩具で、最盛期の昭和30~40年代にかけては駄菓子屋や文具屋、縁日の露店なんかで手に入れることができた。つい最近までは普通に売られていた形跡があるのに、今はというと、ほとんどのネット通販で品切れになっている。希に売っていても、定価が1,700円にも満たないものに4,000円もの値が付いているところをみると、何らかの理由で製造が行われていないとみるべきだろう。タイガー商会に電話もしてみたけど繋がらなかった。
 暗い部屋で卓上ライトの光を浴びながら地球ゴマが回転を始めると、勉強机の上は宇宙の一部になった。それを無心に見つめるうちに、ぼんくら少年はすべてを忘れることができた。自転する惑星を、太陽の回りを廻る惑星を、回転する銀河を、ちっぽけな玩具が体現して見せてくれるのだから。そして力を失ったコマがパタリと倒れると、少年は再び、日が射し友達の待つ世界へ飛び出すのだった。

追記: HNジャイロマンさんより、タイガー商会が健在で、東急ハンズでは正価で販売されているという嬉しい情報をいただきました。商品が出回っていないのは、手作りなのでたまたま品薄になっているだけなのではということです。したがって法外な値段で販売する業者には手を出さないようにとのアドバイスも頂きました。尚、機会があればタイガー商会に取材に行きたいとも思っていますので、夢が叶いましたらご報告します。末尾ながら、貴重な情報を提供してくださったジャイロマンさんに重ねて御礼を申し上げます。 ぼんくらオヤジ記


■地球ゴマのCM(昭和40年代)■




■地球ゴマの回し方■




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中高生といえば『マジソンバッグ』だった [ファッション]

マジソンバッグ1.jpg ぼんくらオヤジが中学生になって驚いたことがある。かなりの数の2、3年生が同じバッグを持ち歩いていたのだ。白い横文字がプリントされた紺色の絹目ナイロンバッグで、ズックの肩掛けカバンをたすきに掛けた上からヒョイと肩に引っかけている姿は、お世辞にもカッコいいとは思えなかった。だから、それが『マジソンバッグ』という大人気商品だと分かるまでは、てっきり学校指定の体育系サークル用バッグかと思い込んでいたわけで(笑)。もっとも当たらずとも遠からずというか、体育系の生徒たちの間で特に好まれたのは確かで、別名『スポーツバッグ』とも呼ばれていたようだ。
 マジソンバッグは、鞄メーカーのエースが昭和43年(1968)から10年間にわたって製造販売していたバッグで、
「MADISON SQUARE GARDEN SPORTSMAN CLUB boxing wrestling football」という文字と星条旗やワシのマークが印刷されているが、当のマディソン・スクエア・ガーデンとはまったく関係がない。当時の売価は1,500円だった。今の価値で6,000円前後に相当するわけで、あの頃の中高生にとっては数ヶ月分の小遣いをはたかなければ買えない代物だったことになる。
マジソンバッグ2.jpg そこで市場のニーズに応えて(笑)登場したのがパチ物、バッタ物と呼ばれる模造品だ。理解に苦しむんだけど、エースはマジソンバッグの意匠登録をしておらず、これが廉価版模造品の大量生産に拍車をかけたのだ。このバッタ品の売価は、正規品の半額近い800~1,000円ほど。たとえ偽物と分かっていても中高生が飛びついたワケだ。おかげさまで正規品販売中の10年間で売れた2000万個という驚異的な販売実績のうち、半数以上は偽物というこれまたオッタマげた数字を叩き出した。
 当時の日本では、偽ブランド品を犯罪視するような商業倫理は製造者にも消費者にも希薄だった。国産のバッタ品なら正規品に引けを取らない品質だったこともあって、
「モノがよけりゃ別にいいじゃん」
 って安易な価値観が蔓延していたのだ。商標権や特許の侵害を公然と行っている今の中国をマスコミは平然と非難し嘲笑するけど、かつての日本が似たり寄ったりの状況だったことを知っている身にしてみれば、何ともおメデタいお話に聞こえて仕方がない。もちろんダメなものは駄目! なんだけどね。


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ワラ半紙とガリ版印刷 [テクノロジー]

ガリ版3.jpg ぼんくらは小学生の大半を新聞委員として過ごした。新聞委員に立候補し続けたのは、別に幼くしてジャーナリズムに関心があったわけでもなければ、書くのが好きなワケでもなく、役得で好奇心を満たすことができるという下世話な動機からのことだった。新聞委員って、取材名目でたいがいのことには首を突っ込むことができたんだよね。A君が何月に転校するとか、担任の先生がじきに結婚するとか、学習発表会で歌う合唱曲が○△□に決まったとか、そんな情報は先ず学級委員と新聞委員に知らされたし、それが公表されるまで職務上の守秘義務ってやつで「知ってるけど教えない」って立場が公然ととれる快感もあった。イヤなヤツだったんです、ホント(^^;;;
ガリ版2.jpg ぼんくら少年のもう一つの快感は、ガリ版の原紙を切る作業だった。
 ロウ紙というパラフィンやワセリンなどを染み込ませた半透明の薄葉紙をザラザラした専用のやすり台に載せ、鉄筆で文字や絵を刻んでいくことを「原紙を切る」と言っていたんだけど、この原紙の匂いが妙に好きだったのだ。今にして思えば、揮発性の匂いを喜ぶアブない子供だったってだけのことか(笑)。正式名称の『謄写版』よりもガリ版という通称が好まれたのは、鉄筆がガリガリ(実際はカリカリって感じかな)と音をたてたからだろう。この音が放課後の静かな教室に響くのも心地よかった。
 原紙を切ったことで、ロウ紙の上にはロウがドット状に削れてインクの染み出す部分が出来る。
ガリ版1.jpg したがって原紙をスクリーンにピンと張って上からローラーでインクを塗ってやれば、スクリーンの下に置いた紙には文字や絵が印刷されることになる。印刷自体は単調な作業だったけど、ちょっとでもインクの付け方にムラがあったり、ローラーを転がす力が違っていたりすると、仕上がりがモロにバラついいてしまうという難しさがあった。円筒形のブリキの容器に入ったインクがまた何ともいえないゲル状のもので、専用のハケで伸ばすようにローラーに塗る時に、どうしてか手や机なんかにくっ付いちゃって、あれはイヤだったなぁ! なかなか取れなかったから、服に付けてしまうと後で母親の雷が落ちることになるのも困りものだった。インクの匂いは好きだったけどね、やっぱり揮発性だったから(笑)。
ワラ半紙.jpg もうひとつ忘れられないのは、当時使っていた『ワラ半紙』のことだ。細かく切った稲ワラや麦ワラを薬品で煮溶かしてパルプにしたもので、中質紙や再生紙を指して呼ぶワラ半紙とはまったく違うものだった。品質が安定していなくてワラの繊維がそのまますき混まれていたり、ちょっと強く消しゴムを使っただけで破れちゃうほど強度は弱かった。表裏があって、裏面は細かい文字が書けないほどザラついていたし、色も見るからに茶色がかっていて、色鉛筆を塗っても、何ともいえないくすんだ色合いになるのだった。それでも単価が安かったのと、インクの乗りがよかったことで、ガリ版印刷には最適の紙だった。よって当時のボクらは、ガリ版で印刷された宿題や各種のお知らせ、学級新聞なんかを、大量のワラ半紙で受け取ることになったのだ。
 ガリ版印刷は、1970年代の後半にはタイプライターの活字をロウ紙に打ち付けるタイプ印刷と小型輪転機の登場で頂点を極めたものの、その後のオフィス革命に伴う急速な印刷技術の変化で瞬く間に主役の座を滑り落ちていく。ワラ半紙も、輪転機では詰まりやすいうえにインクも滲むことが多く、大量消費によってコストが下がったPPC用紙(コピー紙)に取って代わられていく。
 ぼんくらオヤジの実家には、小学校の頃の文集や学級新聞、テストの答案なんかが後生大事にしまわれている。親ってそうなんだよね。皆さんのご両親はどう? 当時のガリ版印刷が残っていたら手触りを思い出して、僅かに残ったインクの匂いを嗅いでみてくださいな。時計の針が、アッという間に巻き戻りますよ♪






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なぜ学校では『レモン石けん』だったのか? [雑貨]

レモン石鹸2.jpg ぼんくらオヤジが小学生だった頃、学校の手洗い場に行くと、蛇口からみかん用のネットがぶら下がっていて、中に丸く黄色い石けんが入っていた。使うと、泡立ちはそれほどでもないけどしっかり洗えて、手にはうっすらとレモンのような香りが残った。うがいと手洗いは当時も励行されていたから、この石けんは正に生活の一部だった。
 やがて中学生になり、新築された校舎に移ると、洗い場にレモン石けんの姿はなく、代わりに緑色の液体の入った容器が備え付けられていた。
 それから数十年が経ち、我が子の授業参観で小学校を訪ねたぼんくらオヤジは驚いた。ネットこそ専用のものになっていたけど、あの懐かしいレモン石けんが洗い場の蛇口にぶら下がっていたのだ。先生に聞くと、
「さぁて、いつ頃からでしたかねぇ~。思い出せないぐらいだから10年以上は経ってるんじゃないですかねぇ、レモン石けんに戻ってから」
 とのこと。レモン石けんは意外に早く復権していたのだ。
 なぜ学校ではレモン石けんが重宝されているんだろうか? そんな素朴な疑問が湧いて調べてみたんだけど、諸説あって決定的な理由は見つけることができなかった。
 最も有力なのが単価の安さだ。納入価格のバラツキを考慮しても、1個あたりの単価は30~40円。標準的な固形石けんの3~4分の1のコストだ。おまけになかなか減らないときているから2度美味しいのだ。
 ある引退した先生のお話では、子供たちが手を洗ったかどうかが手の臭いを嗅げば分かったので大変便利だったとか。手洗いの指導に際してシトラスの香りが役に立ったのだ。
レモン石けん3.jpg 1946年からレモン石けんを製造しているカネヨ石鹸は、愛らしい形とフルーツの香りが特に子どもたちに喜ばれたことが学校に普及した理由だったとしている。
 単に納入品目の変更をしていないお役所仕事の結果だといううがった見方もあるけど、これは一時的であれ液体石鹸に変わった経緯をみても説得力に欠ける。
 おそらくは先の理由が複合した結果なんだろうけど、ボクらがそうであるように、きっとボクらの子供たちも大人になってレモン石けんを懐かしがるだろうと思うと、なんか嬉しくない?


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史上最短のブーム『アメリカンクラッカー』 [遊び]

アメリカンクラッカー1.jpg 指が1本通せるぐらいの輪っかと2個のプラスチック・ボールが丈夫なヒモで結びつけられているだけのオモチャ。時は1971年。春休みに入って間もない3月初旬に『ママレンジ』でお馴染みだったアサヒ玩具から『カチカチボール』という商標で発売された通称『アメリカンクラッカー』は、あっという間に子供たちの心を捉えて大ヒット商品にのし上がった。
 造作に負けず劣らず遊び方もシンプルで、輪っかに指を通してしっかり持ったら、あとは2個のボールを振り子の要領でカチカチぶつけ合うだけだ。初めはそっと指を上下させてボールのぶつかり合うリズムを安定させ、少しずつボールの振れ幅を大きくしていく。そして最後に「そらっ!」と思い切りよく力を加えると、双方のボールが上下でぶつかり合う。ただこれだけのことなんだけど、上手く行った時の爽快感といったらなかった。辺りに響き渡るカチカチ音と、ボールが赤や青の弧を宙に描く様は子供心をくすぐるには十分過ぎるぐらいの効果があった。
 やったことのない人には、この遊びが意外に難しいなんてとても思えないだろうなぁ。たしかに、ただボールを振り子のようにぶつけ合うのはカンタン。でも、最終目的の「上下カチカチ」となると俄然、難しくなるのだ。ちょっと上下運動にふらつきが加わっただけでボールはあらぬ彼方に弾かれ、手や腕はもちろん、運が悪けりゃ顔面を襲われるんだから怖い。実際、ぼんくら少年も容赦ない勢いで飛んできたボールを左目の下で受け止めて、ノックアウトされたボクサーみたいな青あざを作ってしまった。当ブログでひんぱんに登場して頂いているご近所のお医者さんにも、
アメリカンクラッカー2.jpg「眉間に当たっていたら死んでおったぞ、馬鹿者めがっ」
 って怒鳴られたっけ(^^; そんな怪我をしても、親は注意したぐらいで禁止もしなかったんだから、おおらかというかオメデタいというか(笑)。懲りることを知らない(ぼんくらオバンに言わせれば「学習能力のない」)ぼんくら少年は、その後も体の至る所に青あざを作りながらこの遊びを続けたのだった。
 アメリカンクラッカー・ブームの幕切れはあっけなかった。プレイ中にボールが割れて飛び散る事故があったり、それ以前に遊び自体が危険だということに親もようやく気付いて我が子に遊びを禁止するなど、逆風が突如吹き荒れ、メーカーが相次いで製造を中止したのだ。当然のように新学期を迎えた学校でも遊び禁止が申し渡されて、発売後1ヶ月余りで街角からカチカチ音は消えてしまった。
 それでも人々の記憶にそれなりの足跡を残していたようで、たとえばアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』やアーケードゲームの『ジョジョの奇妙な冒険』では武器として登場してるし、アニメ化された『いなかっぺ大将』では風大左衛門がアメリカンクラッカー状の涙を流してるし、何年か前にフジテレビでオンエアされていたクイズバラエティ『たけしの斎藤寝具店』では、ボウリングの球で作ったアメリカンクラッカーが登場した(笑)。やっぱりバカみたいだな、ははは。






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