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使い捨てライター [雑貨]

 最近、何かと物議を醸している使い捨てライター。喫煙がさほど問題にされていなかった昭和には、どこの家庭にもゴロゴロと転がっていた代物だった。
 ぼんくらオヤジの父親はパイプ党だったので、火がバーナーのように噴出するパイプ専用の使い捨てライターを銀座の菊水で買って使っていた。蚊取り線香に火を点けたりゴミを燃やしたりと喫煙とは無関係に役立ったし、買うまでもなく商店やら会社やらが販促品でバラ撒いていたので、家のどこかしらには100円ライターがあったのだ。
クリケット.jpg 世界初の使い捨てライターについては、1965年(1965)にスウェーデン・マッチ社が発売した『ラウンド・スティック』をお初とする説と、昭和36年(1961)に発売されたジレット社の『クリケット』のほうが先だとする説があるんだけど、残念ならが現時点ではよく分からない。後にクリケットの販売権がスウェーデン・マッチ社に移ったこともあって余計に話がややこしくなっちゃってるし^^;
 よく分からないのは国産品も同じで、ライターについての情報を提供するネット情報のほとんどに「昭和38年(1963)に国産初の使い捨てライターが登場」したことになってるんだけど、それが「発売された」というだけで、代理販売だったのか製造販売だったのかが分からない。「作られた」と明記している資料がひとつだけあったけど、これも何というライターが誰によって製造されたのかがひとつとして書かれてないんだ。
 ハッキリしてるのは国産の100円ライターで、かつて高級ライターで名を馳せたクラウンガスライター社が昭和45年(1970)に発売した『マチュラー』がお初だ。
チルチルミチル.jpg ただ100円ライターを世に知らしめることになったのは昭和50年(1975)に東海精器(現東海)が発売した『チルチルミチル』だろう。オイルショック後のインフレで物価が高騰するご時世にあって、
「ささやかでも安値で幸せを運んでくれるものになってほしい」
 という願いを込めてこんなネーミングにしたんだそうだ。デフレの現在とは対照的なお話だねぇ^^; 東海は『チャッカマン』の製造販売でも有名なので知ってる人がいるかもね。一時期の経営不振で商標権が移ったようで、チルチルミチルの販売元は現在、東京パイプ株式会社になってるよ。
 最盛期には月産1800万個を記録を記録したチルチルミチルだけど、喫煙人口が激減した現在、往時の面影はない。東海なんかは先のチャッカマンやガスボンベ等々に活路を見出そうとしているけど、今後の舵取りが難しい業界だよね。


■東海精器「チルチルミチル」のCM 1976年■

http://www.youtube.com/watch?v=GTVCQP11pGc



■ジレット「クリケット」のCM 1975年■

http://www.youtube.com/watch?v=46a9FR_v84I&feature=related


シームレスカーラー [雑貨]

カーラー1.jpg 母のドレッサーによく転がっていた筒状のなんか(笑)。プラスチックで網目の芯を柔らかいピンク色のスポンジが覆った不思議な代物だった。てっきり新手のオモチャかとも思い、丁寧にスポンジの皮膜と芯を分けて置いといたら、後でこってりと叱られた。
「これは遊ぶもんじゃないんだからいじっちゃダメよ」
「じゃあ何に使うのさぁ?」
「これを寝る前に髪の毛に巻いておくとね、次の朝には頭がカッコよくなるのよ。あなた、いつも見てるでしょ?」
 あー、そーいや真夜中に目が覚めて寝ぼけマナコで母のもとに行くと、眉毛のないスッピンの顔な上に、頭にチクワみたいなものをいっぱいくっつけて、しかもその上に虫取り網を被ってて怖かったな。ん、待てよ?
 弾かれたように路地に飛び出すと、夕日を浴びて眩しそうに手をかざしながら井戸端会議をしてる近所のオバチャンたちの頭にも、結構な確率でこのピンクのチクワが巻き付けられていた。そーじゃん、大人の女の人はみんなこんなふうにするんだ!
ヘアネット.jpg 家に戻って、したり顔で妹に、
「R絵も大きくなったら頭にチクワを巻くんだぞ」
 と言ったら爆笑されちゃった。妹はショゲ返った兄に、チクワが『ヘアカーラー』で、虫取り網が『ヘアネット』であることを懇切丁寧に教えてくれた。挙げ句の果てに兄貴の頭にカーラーを巻いて「実演」までしてくれたもんだから、それを母に見つかったぼんくら少年は再度、叱られるハメに^^; その時の姿がよほど滑稽だったらしくて、今でも思い出しちゃ笑われるんだな。…忘れてくれぇ!
 当時はマジックカーラーみたいな便利なものは無かったから、ほとんどの女性は『シームレスカーラー』を髪に巻き、アメリカンピンで留めていた。大阪のラッキー止製作所(現ラッキートレンディ)が昭和25年(1950)に発売して以来、シームレスカーラーは60年目の今年もヘアカーラーの定番商品として健在だよ。

蚊遣りブタ [雑貨]

蚊遣りブタ1.jpg ぼんくらオヤジの住む名古屋は、街のど真ん中ですら緑のあるところなら蚊の餌食になることがあるぐらい蚊が多い。
 活動を始める時期も早めで、昨日の昼休みに近所の公園で読書をしていたら早速、蚊に咬まれちゃった^^; ちょっと早過ぎるかなと思いながら、その足で薬局に寄って蚊取り線香を買ってきたよ。
 ぼんくらオヤジには悪いくせがあってね、こういうものを買うと無意味に開封して使いたくなっちゃうんだよね。煙の匂いも嗅いでみたくなったし。そこで押し入れから蚊遣りブタを引っぱり出して、蚊取り線香に火をつけた。蚊遣りブタの口から蒼白く立ち上る煙と香り。部屋を吹き渡る爽やかな風。ぼんくら家だけに一足早く夏が来たって感じだった。まだ窓の外に雪を見ている人は呆れちゃうだろうね(笑)。
 ところでこの蚊遣りブタ、昭和のレトログッズを挙げてもらうと必ずといっていいほど名前が出るんだな。ネットで昭和の情報を取り上げている有名なサイトでも、蚊遣りブタはほぼ昭和のものと認定されている。たとえば大空ポケット文庫の「まだある」シリーズによると、蚊遣りブタは1950年代の半ばに登場したことになっているんだよね。
 ところがギッチョン(古っ!)、いくら調べても1950年代説のウラ取りができない。そこでゼロから調べ直してみることにした。
蚊遣りブタ2.jpg まず蚊遣りブタなんだから、蚊取り線香の歴史を調べればいいじゃないの。蚊取り線香は、除虫菊を乾燥させて作った粕粉に粘性の強いタブ粉(タブノキの枝葉を乾かした粉)やデンプンを混ぜたものが主成分なんだけど、この除虫菊はなんと明治18年(1885)にアメリカから輸入されるまで日本には存在しない植物だったんだ。しかも明治21年(1888)に発売された蚊取り線香第1号は粉末で、現在の渦巻き型のものは明治28年にようやく登場した。じゃあ蚊遣りブタが登場したのは少なくともそれ以降ってことになるんだろうか。
 ところがギッチョンチョン、なんと江戸時代の宿場町だった内藤新宿(現新宿区内藤町)の武家屋敷跡から蚊遣りブタが出土していたんだよね。画像が無くて残念なんだけど、現在のものよりも口の部分がすぼまっていて、まるで徳利を寝かしたような形らしい。ブタというよかイノシシっぽい感じといったほうがいいかも。もうひとつの特徴は大きいってこと。長さが35センチ、直系が23センチもあるんだ。
 でも待ってくださいな。蚊取り線香よりも蚊遣りブタの先ってどーゆーことよ? 実は蚊取り線香が登場するまで、日本人は杉の葉やおが屑なんかをいぶして蚊を寄せつけないようにしていたんだよね。蚊遣りブタが大きかった理由はこれだったんだ。「蚊取り」じゃなくて「蚊遣り」が正しいワケだね♪
蚊遣りブタ3.jpg なんでブタかってことも、あくまで説ではあるけど、こうした蚊遣りの方法が火事に結び付きやすいことと関係があったらしい。ていうのはね、イノシシは火伏せの神様でブタは水神の使いって民間信仰があったからなんだ。
 他にも常滑、今戸、四日市などがオラが発祥の地と名乗りを上げている蚊遣りブタ。こんなルーツに思いを馳せると、今年の夏にご対面する蚊遣りブタの表情が少しは味わい深くなるかもね。




■蚊取りネコ? こりゃ蚊遣りじゃないやね^^;■

http://www.youtube.com/watch?v=uVrLULS2EN8



■iPhoneアプリ「蚊取りPod」 これじゃ人も逃げてくわいっ!■

http://www.youtube.com/watch?v=FC1dUbeWTn4


ロゼット洗顔パスタ [雑貨]

白子と黒子.jpg ぼんくら少年が不気味に思っているCMがあった。『ロゼット洗顔パスタ』の白子さんと黒子さんが登場するやつだ。美白で幸せな白子さんが色黒で悩む黒子さんに洗顔パスタを勧めるという実に分かりやすいパターンなんだけど、鼻が無いうえに顔の3分の1を占めるギョロ目とという特異な風貌が恐かったんだよね^^; 母が愛用していて、洗面台の棚には、父の4711のリキッドとロゼット洗顔パスタのサーモンピンクの容器がいつも仲良く並べて置いてあったよ。
 昭和9年(1934)に発売された昔ながらの洗顔料で、容器も外箱も昭和レトロを地でいくような古色蒼然としたものだから、逆にお店の棚では目立つのなんの。この洗顔フォームの個性は、一度使ってみれば本当によく分かるはずだ。
ロゼッタ洗顔パスタ2.jpg まずフタを開けると、真ん中に穴の開いた透明なプラスチックの内ブタで洗顔料が覆われている。これって、知らないと穴に指を引っかけて取っちゃいそうだけど、そのままにしといてね。逆に押すんだよ。すると穴から洗顔料がニューっと出てくるから適量を取って使うんだ。形こそ違え、チューブからクリームを出すのと同じ方法ってことだよね。
 次にビックリするのは洗顔料の匂いだ。まるで温泉に行ったみたいな硫黄の臭いがするんだ。女性向けの製品なのに卵の腐ったような臭いがするなんてジョーシキじゃ考えられないよね。これには理由があるんだ。
 話は元号が大正から昭和に変わって間もない頃に遡る。大分のとある街で原敏三郎という若者が奇妙なチャレンジを行っていたんだ。彼の目標は硫黄を精製して粉末にし、ニキビに効果を発揮する洗顔料を作ること。土地柄、硫黄泉に入ると肌がスベスベして色も白くなるという話を小さい頃から聞かされていて、硫黄にはニキビに効く何かがあると確信していたからだ。
 しかも原青年が目論んでいたのはクリーム状の洗顔料だった。固形石鹸しかない時代にこれが成功すれば注目されるのは確実だったからだ。
 日夜研究に明け暮れた結果、昭和4年(1929)、ついに日本初の洗顔クリームが誕生する。天然硫黄の粉末を練り込んだ『レオン洗顔クリーム』だ。個人商店での手作り販売だったから大量の取引はできなかったけど、予想以上に好評で作る端から売れた。そこで原青年は昭和9年(1934)に株式会社レオン商会を設立。こうして大々的に売り出したレオン洗顔クリームは、戦後の昭和26年(1951)に容器を一新し、商品名も『ロゼット洗顔パスタ』となって現在に至っているというわけだ。ちなみにロゼットとはバラ結びのリボンやバラの花束を、パスタとは粉を練り込みペースト状にしたものを意味するよ。
ロゼッタ洗顔パスタ1.jpg ロゼット洗顔パスタは1960年代に販売のピークを迎え、年間600万個という驚異的な売り上げを維持し続ける。でも70年代に入ると、香りの良いライバル製品が次々に市場に投入されてシェアが落ち始め、現在では隆盛を極めた当時の面影はすっかりなくなっちゃった。若い子たちの間では知名度も低いだろうね。それでも天然成分が古い角質を取り除いてニキビを防いでくれるというシンプルさとサッパリした洗い上がりは競合製品には無いもので、使用者に占めるリピーターの割合が群を抜いて高い点でも、ロゼッタ洗顔パスタは孤高の存在だそうだ。
 ぼんくらオヤジのような中高年の脂性の顔にもいいそうなので、一度使ってみようかな。あ、今ではチューブ入りのロゼッタ洗顔パスタも売ってるよ。例の白子さんと黒子さんもデザインされるし。やっぱり相変わらず不気味だし(笑)。


■お馴染みの白子さんと黒子さん 1970年■

http://www.youtube.com/watch?v=P2Q1XohLukU&feature=related



■なぜか白子さんの変わり種が登場しています 1970年(ホントかな^^;?)■

http://www.youtube.com/watch?v=OJ1OWQ5_exQ&NR=1


ソックタッチ [雑貨]

ソックタッチ.jpg 靴下のズレ留め『ソックタッチ』の存在を知ったのは、ぼんくら少年が中2のことだ。バスケットボールをやっていたぼんくら少年が練習中や試合中にハイソックスがずり落ちるのを苦にしていたら、妹が貸してくれたのだ。
 使い方はとてもカンタンで、靴下を固定したい位置から約1センチほど下の部分の肌にソックタッチの液を塗り、靴下を履いて上から軽く押さえればいい。用が済んだら濡れたタオルで拭き取るか水で洗い流せば取れちゃう。ぼんくら少年はゴムのきついソックスを長時間履くと押さえつけられている部分が痒くなってしまうので、多少使い込んで締め付けの緩くなったソックスを固定することができて大助かりだった。
 ソックタッチはコギャルが登場するよりも以前の昭和47年(1972)に白元から発売された。白元創業者の鎌田泉さんが孫から、
「ハイソックスがずり落ちてどうにもならない。どうにかならないか」
 という相談を受け、自宅にあった薬品でノリを作って渡したというのがきっかけだったそうな。これがお孫さんの友だちの間で大評判になったので試しに商品化してみたら大当たりしたわけだ。当時は男女の別なく子どもたちの世界で空前のハイソックスブームが起こっていて、ずり落ちるハイソックスに苦労する子どもたちが少なくなかったのだ。
 もっともブームが去ると当然のように売れなくなり、一時は生産を中止して製造機も廃棄してしまい、製造法すら忘れ去られてしまった。
 それが平成に入ってからのコギャル・ブームで再び脚光を浴びることになる。
「ルーズソックスを固定するのにはアレっきゃない!」
 とファッション業界から白元に再販のリクエストが殺到したのだ。慌てた白元では、とうの昔に定年退職していたパートのおばちゃん達に声をかけまくってソックタッチ製造チームを再結成。6畳ほどの製作室で再び製造を始めたということだ。現在も製造規模は再結成当時と変わっていないんだけど、そんな状態でも年間の製造本数は軽く1000万本を超えちゃうというから驚きだ。
 エタノールを溶剤としたアクリル系接着剤に香料を施した分かりやすい成分で、アレルギーも起こしにくいことから、現在ではソックスばかりじゃなく衣類全般のズレ留めに利用されているということだ。もう製造機を捨てなくてもよさそうだね(笑)。

カネヨクレンザー赤函 [雑貨]

カネヨクレンザー1.jpg 久しぶりに実家で母と二人っきりで過ごしたひととき。キッチンで立ち話をしていたら、母の背後に赤い箱が見えた。流しに食器洗剤や漂白剤と一緒に整然と並べられている箱には、エプロンをした女性がせっせと食器を洗っている姿が描かれている。もう久しく記憶から欠落していた『カネヨクレンザー』の赤函だった。
 母に頼まれて妹とおつかいに行くと、時折、買い物リストに『カネヨン』という項目があったんだけど、母のいうカネヨンとはこの赤箱のことだった。ホントは液体クレンザーのほうがカネヨンだったんだけどね。律儀な妹は、
カネヨンS.jpg「これだと思うから買ったけど、これはカネヨンじゃないわよ」
 と買い物をする度に母に噛みつき、母は、
「あら、そうだったわねぇ。でもこれでいいのよ♪」
 と反省するでもなく平然と受け取り、その後の買い物リストには相変わらず『カネヨン』の文字が躍るのだった。
 カネヨクレンザーが鈴木山陽堂(現カネヨ石鹸)から発売されたのは昭和8年(1933)のことだ。
 クレンザーという名前を日本人が知ったのはアメリカ製品が輸入された大正時代のことなんだけど、それ以前から日本では鍋や釜を洗うのに『磨き砂』と呼ばれる砂や火山灰を原料とする粉をタワシやヘチマに付けて使っていたんだ。日本人って凄いね! ただこの磨き砂だと、たしかにキレイにはなるんだけど、所詮は砂なので傷も付いちゃう。
鈴木治作.jpg カネヨの創業者、鈴木治作さんは伝統的な磨き砂とアメリカ製クレンザーに注目し、山形県産の微細粒子、白土(火山灰の一種)を研磨成分としてこれに洗剤を加えて、国産クレンザーを作りだしたのだ。
 商品の開発は順調だったクレンザーも、市場に受け入れられるまでの道のりは厳しかった。製品の斬新さに加えて発売当初は375グラム入りの角函で10銭と、結構なお値段だったこともあって全く売れず、連日問屋を駆けずり回っても相手にしてもらえない日々が続く。
 そんなある日、鈴木治作さんは実にどん臭い手に打って出る。リヤカーにカネヨクレンザーを積み込んで問屋を訪問し、勝手に運び込んじゃうのだ。そしてリヤカーは問屋からチョッと離れた場所に隠して置いて商談を始める。話がまとまればそれで良し。まとまらなければ、
「相済みませんがリヤカーが先に帰っちゃいました。商品を持ち帰れないので、取りに戻るまで置かしてください」
カネヨクレンザー2.jpg と頼んで帰り、そのままにしておく。やがてしびれを切らした問屋が連絡してくると当日は取りに行かず、翌日に出向いて商談を再開する。このしぶとさにはたいていの問屋が根負けして、商品は徐々に市場に流れるようになっていったのだった。「ものを売ってなんぼ」という商いの基本を地でいくエピソードだよね。なんかスマートになっちゃった現代のセールマンに見習ってもらいたい姿のような気もするな。
 カネヨクレンザーの全盛期は戦後に到来する。戦後に食の欧米化が家庭でも進み、油汚れをさっぱりと落とす洗剤としてカネヨクレンザーがひとり勝ちする時期が10年ほど続いたのだ。台所用洗剤がクレンザーだけなんて、今流に考えたら、
「クレンザーなんかで何でもかんでも洗ったら食器が駄目になっちゃうじゃん!」
 ってことになるんだけど、台所用の合成洗剤が登場するのは1950年代の半ばだ。クレンザーの他には磨き粉や米の研ぎ汁しかなかった時代を想像すればやむを得ないことだったのだ。
 大手の洗剤メーカーがクレンザーの生産を始め、合成洗剤の普及が進むにつれてカネヨクレンザーのシェアは徐々に落ちていったけど、根強い支持が絶えることはなく、遂に今年で喜寿を迎える。成分の大半が自然のもので河川を汚さず、パッケージもリサイクル可能な紙。費用対効果も抜群のカネヨクレンザーは、エコに目覚めた消費者から再び注目されている誇るべき昭和の遺産なのだ。

タバコライオン [雑貨]

タバコライオン.jpg パイプを手放さなかった父が使っていた歯磨き粉。昭和37年(1962)に発売された『タバコライオン』だ。フタを開けると文字通りの白い粉が入っていて、こっそりと自分の歯ブラシを突っ込んでは試してみて、あまりの不味さにオエっと吐き出していた(笑)。一度で懲りそうなもんだけど、忘れたころにまた試すんだからバカだよね^^;
 成分は研磨剤に重質炭酸カルシウムを用い、発泡剤には陰イオン性界面活性剤の代表格として知られるラウリル硫酸ナトリウムが使用されている。他には薬用成分として皮膚用クリームなんかに用いられるポリエチレングリコールや香料が配合されているぐらいで、特に他の歯磨き粉と成分的には違いがないような気がするんだけど、はて?
 ライオンでは「歯のヤニをとり歯をキレイにする」と謳っているから、やっぱり特徴があるんだろうな。そういや、プラモ・マニアの友人がこの歯磨き粉を塗料に混ぜるとツヤ消し効果があるとか言ってたような気がするんだけど、知ってる人はいる?
 大人になって気がついたのは、フツーのチューブ歯磨きとは違ってあまり泡立たないことだ。だから(なのかは分からないけど)なかなか減らない。ぼんくらオヤジの使い方だと優に半年は持っちゃう。
 これは想像なんだけど、泡立たないのは研磨剤成分の重質炭酸カルシウムを多く含んでいるからなのかもね。プラーク(歯垢)なんかはブラッシングだけでも8割がたは落ちてくれるんだけど、飲料に含まれる色素やタバコのヤニは研磨剤がないと落ちないから。
「そんなに研磨剤が入っていたら歯がダメになっちゃうじゃん!」
 と思う人がいるかもしれないけど、炭酸カルシウムは歯より柔らかいので、歯の表面のエナメル質を致命的に傷めるこことはないんだって。
 そーゆー「常識のウソ」を見抜いてか、愛煙家の強い支持を得てかはともかく、今年で48年目を迎える現在もタバコライオンは健在だ。製造は台湾の獅王工業股份有限公司で行ってるけどね。

卓上調味料入れ [雑貨]

卓上調味料容器1.jpg プラスチック製の卓上調味料容器。昭和生まれでこの調味料入れを知らない人はいないんじゃないだろうか。
 岐阜に本社のあるリス株式会社が昭和46年(1971)に発売したのがこの「トレビアンシリーズ」で、発売直後から飛ぶように売れる空前の大ヒットを記録した。一時期は、どこの友達の家に行っても卓上調味料入れといったらこれだった。
 しょう油さしやソースさし、塩・コショウ入れ、楊枝入れ、からし入れ、シュガーポット、箸立てなどのテーブル用品をシリーズ化し、常備品を載せる回転カスターをラインナップに加えたのがミソだった。このカスターがあれば、例えば餃子が献立の場合ならしょう油と酢、ラー油、七味唐辛子の瓶を台所でカスターに載せれば、一度にテーブルに運ぶことができたし、同じように片付けることもできた。
 利便性だけじゃなく、容器のデザインや柄も統一されていたこともセールスポイントだった。高度経済成長が一段落し、生活が安定してデザインにも関心を持つようになった消費者のニーズに応えた製品でもあったんだ。
 プラスチック製であったことも「ガラスに比べて軽く、落としても割れない」というプラス・イメージをもって歓迎されたんだよ。プラスチック製品=チープなんて印象のある今どきとはえらい違いだね(笑)。
 チェリー柄になって名前も「ブルームシリーズ」になってるけど、容器のデザインや色遣いはそのままで、現在も定番商品の座を守っているよ。

レジャーシート [雑貨]

レジャーシート1.jpg 昭和の遠足にはお約束だったストライプのレジャーシート。なんでストライプ? なんでこの色の取り合わせ? 今でこそいろんな柄のシートが出回ってるけど、昭和といえばこれだったよね。
 お初かどうかは断言できないんだけど、データ上では昭和48年(1973)に(株)アサヒ興洋が発売したストライプ柄のレジャーシートが最も古いものといってよさそうだ。
 もっともアサヒ興洋は販売元で、製造元は岡山の森下化学工業(株)という元々ブルーシートを作るメーカーだった。
 ところで、なんで作業用シートが青いかというと、1960年代までポリエチレン・シートの顔料はオレンジや青がせいぜいで、しかも特に青が安価だったからなんだよね。それが70年代に入ると、顔料が飛躍的に改良されて様々な色が使えるようになってきた。とはいえ作業現場にカラフルなシートは必要ない。そこで赤・青・黄で染色した小面積のシートを家庭用としてアサヒ興洋に販売してもらったところ、大当たりしたというのが実相のようだ。
レジャーシート2.jpg 水を通さず、アウトドアで使っても劣化しにくい上に、畳めば場所も取らず、しかも軽いレジャーシートは、それまで一般的だったござをアッという間に駆逐し、家庭の必需品に収まっちゃった。今では難燃剤を添加して防炎機能を持たせるなど、安全性も高い製品に仕上がってるよ♪



■オーソドックスなストライプ・レジャーシート■

http://www.youtube.com/watch?v=2A0U-kISO0A



■ゆるキャラひこにゃん、レジャーシートを敷く♪■

http://www.youtube.com/watch?v=9ZGEisMHIp4


私はコレで会社を辞めました - 禁煙パイポ [雑貨]

禁煙パイポ1.jpg「私はコレで会社を辞めました」
 スーツ姿のおじさんが小指を立てながら語る『禁煙パイポ』のCMが流行ったのは昭和59年(1984)のことだ。カワイコちゃんじゃなく、中年サラリーマンが3人というむさっ苦しい映像だったのに大ヒットしたという異色のCMだった。
 禁煙パイポは、ゴルフ用品の販売製造を手がけていたマルマンが販売(当初は子会社アルマン)していた禁煙グッズ。タバコ型の本体に香料を仕込んだフィルターが仕込んであって、これを吸うことで喫煙衝動を抑え込もうとする極めて原始的なものだった。これでタバコを止められた人ってどの程度いるんかいな^^;
 CMを担当したのは市川準。当時のマルマンは、ゴルフブームの低迷や消費の冷え込みのおかげで、禁煙パイポが当たらなかったら倒産という危機的な状況で、製作費と放映費はすべて銀行からの借金というバクチのような投資だったんだよ(笑)。それがCMが大当たりしたおかげで本業も奇跡的に回復したんだから、企業にとってテレビCMがどれほどの威力を持っているかが分かるよね。
禁煙パイポ2.jpg 面白いのが、CMに出演した3人が全員素人さんで社団法人日本禁煙友愛会のメンバーだったということ。当初のギャラは交通費程度で、謝礼が払われたのはCMがヒットしてからだった。小指を立てたおじさんは東京都の職員だったんだけど、一時は仕事に支障が出るほどの人気者にもなったそうな。
 当初は「コレ」が批判を浴びるんじゃないかという心配があって、放映を拒否されて小指を立てないバージョンを急遽製作するなんてことも実際にあったんだけど、東京で試験的に流したところ大反響を呼び、全国に流される運びとなった。
 CM中のフレーズ「私はコレで会社を辞めました」は、昭和60年(1985)には新語・流行語大賞の流行語部門大衆賞に選出され、CM自体も平成3年(1991)には『昭和のCF100選』に選ばれ、昭和を代表するCMとして認知されたのだった。やっぱりタダモノじゃなかったね、市川準って。



■禁煙パイポのCM 流行りましたよねぇ♪ ■


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