SSブログ

チキンラーメン [食]

チキンラーメン1.jpg 3月1日から日清食品の『チキンラーメン』と『カップヌードル』が発売当時と同じ価格で限定販売されるそうだ。チキンラーメンは35円で、カップヌードルは100円。ともに税込で、それぞれ1千万食の限定販売だよ。
 なんでこんなことをするのかというと、今年が日清食品の創業者で即席麺の発明者とされている故安藤百福(ももふく)さんの生誕100年になるからだ。カップヌードルは明日に回すとして、今日はチキンラーメンの話にするね。
 チキンラーメンが発売されたのは昭和33年(1958)のことだ。それに先立つ3年前の昭和30年(1955)、事業に失敗して失意のどん底にあった百福さんは、
安藤百福氏.jpg「失ったのは財産だけじゃないか」
 と一念発起して自宅の裏庭に掘っ立て小屋を建て、家で手軽に食べられるラーメンの開発を始める。一杯のラーメンを求め、戦後の焼け野原で屋台に長蛇の列を作る人々の姿と、そのラーメンで明日への希望が湧き上がったことを忘れることができなかったのだ。
 掘っ立て小屋に籠もった百福さんが実現しようとしたのは、次の5つの原則を満たすラーメンだった。
1.美味しいこと: 「また食べてみたい」という味であること。
2.調理がカンタンなこと: 家事の手間と時間を節約し余暇を作り出せること。
3.長期保存ができること: 冷蔵庫要らずでないと(当時の)家庭に普及しない。
4.適正価格であること: 一定の品質を維持し、尚かつお手頃価格なこと。
5.衛生的で安全なこと: 原料選定から流通まで厳しいチェックを行うこと。
 こんな高いハードルをカンタンにクリアできるはずもなく、当初は失敗の連続。とくにお湯を注いだだけで乾燥麺を食べられる状態にする手立てがどうしても見つからない。目立った成果があがらず資金的にも追い詰められつつあったある日、百福さんは奥さんの揚げる天ぷらに目を奪われた。
「油で揚げると水分が蒸発してコロモにたくさんの穴が開くのか…。待てよ、同じ材料なら麺もおなじなんじゃないか!?」
 油で揚げることで麺にたくさんの穴が開いてくれれば、その穴から注いだお湯が浸透して麺が食べられる状態になるんじゃないだろうか。この着眼こそが最難関を突破する「瞬間油熱乾燥法(麺を油で揚げ乾燥させる方法)」を後に生み出すことになる。
 チキンラーメンはベビースターラーメンのように初めから麺に味が付いてるよね。どんなふうに作ってるかというと、先ずこねた小麦粉を線状に切り出して蒸し、それにチキンエキスで味付けしてから油で揚げてるんだよ。
 なんでチキン味かというと、
「どこの料理先進国でもスープの基本はチキン。あっさりしてクセのない万人に愛されるチキン味でいこう」
 ってハナっから百福さんが決めていたそうな。今やアメリカ、ブラジル、ハンガリー、インド、インドネシア、中国の6ヶ国で現地法人が製造を行っている「世界の味」になっちゃったわけで、百福さんの視点の正しさがよく分かるよね。
チキンラーメン2.jpg 昭和世代には「ちびっこ(昭和40年生まれ)」、平成世代には「ひよこちゃん(平成3年生まれ)」のキャラクターで親しまれているチキンラーメンは、その手軽さとは裏腹に、戦後の焼け跡の記憶と不屈の男が生み出した昭和の奇跡だったのだ。


■チキンラーメンのCM 1963年■



■チキンラーメンのCM 1968年■



■チキンラーメンのCM 南伸坊バージョン 1985年■



■チキンラーメンのCM 吉川ひなのバージョン 1998年■



■チキンラーメンのCM 50周年記念バージョン 2008年■



お詫びと訂正: 記事本文とはまったく無関係なのですが、S&B食品の『ホンコンやきそば』について頂きましたコメントに対して、「北海道と九州の一部で販売されているだけ」と返信をいたしましたが「仙台の一部でも販売されている」というご指摘を頂きました。この点につきましては、S&B食品に直接、電話取材をした上での返答でしたが、再度確認をとりましたところ「営業販路としての話としては北海道全域と大分だが、食品卸から先の流通先までは把握していない」ということでした。いわゆるメーカーが卸に対して縛りをかける『地域限定商品』のお話とメーカーが全国展開していない商品の話が混同されているのではないかということでした。ぼんくらは返信中、地域限定商品であるという発言は致しませんでしたが、自身がその辺の違いを認識せずにいたため、地域限定商品と読んだ方が解しても無理からぬ文面になっておりました。ご迷惑をおかけしましたことを衷心よりお詫び申し上げます。当該コメントにつきましては、本来、過ちを残した上で訂正を掲載するのが本筋ですが、コメント中の文章で加工が出来ないこと、この記事に直接のリンクがかけられてしまっている由。甚だ不本意ではありますが、誤情報を放置しておくわけには参りませんので、当該コメント(当日と翌日のご質問と返信を含む)を削除させて頂きました。以上、お詫びと修正の経緯を記録として書き留めさせて頂きます。

今後のお願い: 誠に恐れ入りますが、ぼんくらとしましては、記事に対しての文責には責任を持つのが当然と考えますが、さすがにコメントへの返信、まして当該記事以外のコメントについての責任までは負えません。誠に恐れ入りますが、ぼんくらの返信を何らかの資料としてお使いの場合は自己責任で行って頂きたく存じます。尚、これまでは直リンを許容して参りましたが、今回、掲載内容の修正に際して様々な不都合を被りました。今後は、内容を問わず、当ブログの記事にリンクをかける場合は、通常のネチケットに照らし合わせて、ぼんくらの承諾を得てからにしてください。

薄い学生カバン [ファッション]

薄い学生カバン2.jpg 高校生の頃にヤンキーだった人はいる? ぼんくらはヤンキーが流行る前に高校生を終わらせちゃったんで直接は知らないんだけど、それでも気配はあったんだよね。リーゼント頭でボンタン(ワタリ幅が極端に広く逆にスソ幅が狭い学生ズボン)姿の高校生がチラホラと出現してたし。なんといっても、薄い学生カバンを持つのが流行ってた。
 薄い学生カバンをプラプラと持ち歩くのが何故にカッコいいのかと訊かれても困るんだけど、とにかくマトモに教科書やら辞書やらを学生カバンに詰め込むとボストンバッグ並みに膨らんじゃうもんだから、軽快にみえる薄いカバンは惹かれるものがあったのだ。
 流行りの終わり頃にはそういう製品も出回ったようだけど、ぼんくらの頃は自分でカバンを潰すという涙ぐましい努力が必要だった。どうするかっていうと、休みの日に風呂場にカバンを持ち込んで、針金でグルグル巻きにするか漬け物石なんかを重石にして熱湯に浸け込むんだよね。これで数時間も待てば薄いカバンが完成した。しばらく皮の臭いが浴室からとれなくて家族からはひんしゅくを買ったし、ムリにふやかして整形するから当然のように皮も波打ったようになったし、いいことはそんなに無かったのにバカだよねぇ^^;
薄い学生カバン1.jpg 10センチ以上は幅のあったものが5センチ以下になっちゃうわけで、今まで入っていたものも入らなくなり、結局はスポーツをやってたわけでもないのに自腹で偽マジソンバッグを買うハメにもなり。薄い学生カバンをチャラチャラと片手に持つだけの優雅な通学は夢と消え、カバンを二つ抱えて満員電車に揺られる毎日が始まっただけだった。初めっからそーなるのは分かりきってたのに、やっぱバカだわ^^;;;


■古風なヤンキー ボンタン姿のほうじゃないですが懐かしいですねぇ♪■


占い(おみくじ)灰皿 [雑貨]

占い灰皿1.jpg 先日、出先で飛び込んだラーメン屋さんに懐かしいものがあったよ♪ 灰皿の側面を12星座(あるいは十二支)とコイン投入口が一周していて、100円を入れてレバーを引くと、占いを書いた小さい紙の巻物がポロッと出てくる。これって1970年代には食堂という食堂に置いてあったよね。今となっては製造元はおろか商品名すら分からなくなっちゃった。
占い灰皿2.jpg お店のご主人に聞いてみたら『占い灰皿』とか『おみくじ灰皿』と呼んでいるそうだけど、それが正式名称なのかどうかは不明とのこと。以前は営業マンが紙の補充と代金の回収をしに回ってきたんだけど、平成に入った辺りからとんと姿を見せなくなり、単なる灰皿となってしまってから20年が過ぎてしまったそうだ。なんでも近所の喫茶店には新型が置いてあり、同様に営業マンが回ってくるという情報もあるそうだ。そっかぁ、未だに現役なんだ!
「まだ残ってるかもよ」
 ということで試しに100円を投入してみたけどコインが戻ってきただけだった。残念! 
占い灰皿3.jpg 子どもの頃は高嶺の花のお遊びで手が出ず、大人になったら関心が無くなっちゃったのでやらず、物好きな友人が手を出したのを一度見ただけの灰皿だったんだけど、何十年と使い込まれた外見がミョーに愛おしい。家族で行ったデパートの大食堂や町のお蕎麦屋さんの光景が鮮やかに浮かび上がってくる。
 店を出る間際にご主人が一言、
「その占いだけどね、12個も投入口があるけどコインの行き先は1ヶ所なんだよね」
 え、そうなん^^;?


■サイバーおみくじ『猫ぱんち』 困ったなぁ、可愛いじゃねぇか!■



公衆電話ボックス [テクノロジー]

 昭和にはゴロゴロあったけど、最近はほとんど見かけないものの代表格が公衆電話と電話ボックスだろう。今回は電話ボックスに限って思い出してみようね♪
 電話ボックスの歴史は思いのほか古く、国内の第1号は明治33年(1900)に京橋にお目見えした。白い六角形のモダンなボックスだったんだよ。今のような四角形になったのは昭和2年(1927)のことで、その後は材質やデザインに変化はあったものの、基本構造は変わることなく現在に至っている。
電話ボックス1.jpg 戦後の電話ボックスで最も有名なのは、昭和29年(1954)に登場した鋼鉄製ボックスだろう。
クリーム色のボディと赤い屋根が鶴を思わせたので、一般には『丹頂型』と呼ばれているよ。どこもかしこもが丸みを帯びている上に、ガラスやドア部のパッキンが分厚いゴム製だったので、見た目はとってもキュートだった。まあ、ぼんくら息子たちに見せたら、
「窓がなかったら仮設トイレじゃん!」
 って笑われちゃったけどね^^;
 東京オリンピックのころから、都内ではチラホラと現在のタイプとほとんど変わらない総ガラス張りのボックスが姿を現した。目新しく、しかもカッコよかったもんだから、自転車に乗って友達と代々木近辺を探し回った記憶があるなぁ(笑)。これって別に格好良く見せるためじゃなくって、組み立てや解体がカンタンな上に防犯の役目を果たすからだったんだよね。
電話ボックス3.jpg 昭和44年(1969)を境に丹頂型は凄い勢いでこの新型に切り替えられていったんだけど、勝手なもので、いざ姿を消すとなると『オバQ(丹頂型のことをぼんくらや友達はそう呼んでいた)』が愛おしくて仕方がなかった。昭和50年代には、よくお払い箱になったオバQが家庭の裏庭なんかで物置になってたんだけど、見つける度に何ともいえず懐かしかったよ♪
 その後は様々なタイプが出たものの、見た目に目立った変化はないまま様々なアップデートを繰り返しながら、平成3年(1991)のデジタル公衆電話機対応のボックスにリニューアルしたのが最後のモデルチェンジとなった。このままだと、街角から電話ボックスが消えるのは時間の問題かもね。


■高木ブーの電話コント 大らかですねぇ!■



■電話ボックスで遊ぶ男の子 こういう遊びをした覚え、ありませんか♪■



ごきぶりホイホイ [テクノロジー]

ごきぶりホイホイ1.jpg 去年の夏のことだ。標高1000メートルの高原で育ったぼんくら息子たちにとっては、名古屋に越してきて過ごす初めての夏休みだった。
「面白い虫がいたよ」
 ある日、小5になるぼんくら次男が指でつまんで持ってきた正体をみて、ぼんくらオヤジは卒倒しそうになった。次男の指に挟まれて、体長5センチほどのチャバネゴキブリが今にも飛び立とうと羽根を広げていたからだった。そのまま次男をマンションのベランダに突き出して即、放すようにどやしつけた。
「なんでだよぉ、せっかく捕まえたのにさぁ」
 四の五の文句を言う息子を速攻で洗面台に連れて行き、石けんと消毒液で念入りに手を洗わせた。お恥ずかしい話だが、ぼんくら次男は高原で育ったためにゴキブリを見たことがなかったのだ。中学生の長男は東京の実家で何度か遭遇していて知っていたようで、弟のつまんでいたものが直ぐに分かってオヤジと一緒に絶叫していたけどね(笑)
 うっかりしてたなぁ、きっとこのマンションにもいるぞ。そう思って早速、近所の薬局に出向いて『ごきぶりホイホイ』を買ってきた。特に意味もなくゴキブリでパッと頭に浮かんだのがこれだったので^^;
ごきぶりホイホイ2.jpg ごきぶりホイホイが世に出たのは昭和48年(1973)のことだ。大塚製薬の傘下で再建を目指していたアース製薬が満を持して市場に投入したゴキブリ捕獲器で、強力な捕獲力と捕獲したゴキブリを見ずにゴミとして捨てられるというコンセプトが支持されて販売早々に未曾有のヒット商品となった。
 発売当初はゴキブリを捕獲できるほどの粘着シートが開発できなかったため、チューブ入りの粘着材を使用時に塗布する形式だった。ゴキブリが触角で粘着材を感知し後ずさりできないように入り口を上り坂にしたり、ゴキブリの進路を考慮して壁に密着できるように箱の断面を五角形にするなど、ゴキブリの習性を詳細に研究した成果がふんだんに盛り込まれていて、これを超えるゴキブリ捕獲器は今のところ現れていない。使われている誘引材も単なる香料で殺虫剤成分を含んでおらず、食料のあるところにも置ける極めて安全性の高い商品でもある。
 余談だけど、発売当初の価格は本当は250円の予定だったんだけど、当時の大塚製薬の大塚正士社長が「売価は原価で決めずに消費者にとっての価値で決めるべきだ」という方針を打ち出して450円で売り出すことになった。結果、アース製薬は倒産から3年余で再建に成功、現在では殺虫・防虫業界のシェア48パーセントを占めるトップメーカーとなっている。


■ニャンコ、ごきぶりホイホイに捕獲される! 大丈夫だったかな^^;■



かいわれ大根 [食]

かいわれ大根.jpg 先だって財務大臣に就任したイラ菅こと菅直人さんの報道を見ていて突然、かいわれ大根のことを思い出しちゃった(笑)。平成8年(1996)に発生したO157騒動の際に、村山内閣の厚生大臣を務めていた菅さんが、あたかもかいわれ大根がO157の原因となったかのような発言をして甚大な風評被害を引き起こしたことを思い出したからだ(官僚にハメられたという説も有)。
前田瀧郎.jpg かいわれ大根が全国の家庭に普及したのは1970年代の後半と言われている。1960年代の初頭に、福岡県能古島で農業を営んでいた前田瀧郎さんが商業的な水耕栽培に成功したのがお初とされているようだ。出典が明らかじゃないのが残念だけど、日本語Wikiには平安貴族の食卓に供されていたという話も紹介されていて、日本人が古来からスプラウト(発芽野菜)を食していた可能性は十分にありそうだね。
 なぜ「かいわれ」なのかについては諸説あるようだけど、漢字で「貝割れ(穎割れ)」と書くように、かいわれ大根の双葉が二枚貝を広げたような形であるところから名が付いたとするのが一般的だ。
 いつの記憶かな、たしかに食卓にかいわれ大根が初めて登場した時に「へぇ~、こんな食いもんがあったのかぁ!」って思ったことだけは覚えてるんだよね。天皇が神様じゃなくなったのも昭和なら、貴族の食材だったかいわれ大根が庶民の口に入るようになったのも昭和。カロチンやマグネシウム、カルシウム、ビタミンCに富んだ名脇役は、間違いなく昭和の野菜なのだ。


■かいわれ大根の成長の様子 生命って不思議ですねぇ!■


バキュームカー [テクノロジー]

バキュームカー2.jpg 居間で姉妹と3時のおやつを食べてたら、道のほうでガアガアと音がして、じきに身に覚えのある臭いが開け放った窓から流れ込んでくる。慌てて窓を閉めるんだけど無駄。そのうちバタンバタンと何かを片付けるような音がして辺りが静かになった頃には、少しずつ臭いが薄れてくるんだけどね。そう、『バキュームカー』だ。
 あのクルマ、今でも往来を走っていて、平成生まれのぼんくら息子たちも知ってるんだけど、あれとトイレを並列で考えるのはどうやら昭和生まれぐらいなもんで、今の子たちは工場に化学物質を運んだり、ガソリンや石油を運んだり、災害時に給水に回ったりする特殊車両っていう認識なんだね^^;
 昭和に走り回っていたバキュームカーのほとんどは汲み取り式のトイレに貯まった糞尿や浄化槽の汚泥を回収するためのもので、衛生車とか汲み取りグルマなんて呼ばれ方もしていた。地方によっては他にもいろんな言い方があったかもね。
バキュームカー1.jpg トイレの汚物を回収するバキュームカーは、全国に先駆けて昭和26年(1951)に川崎市が導入し、その後、急速に全国に普及したんだよ。ぼんくらが幼稚園児だった頃はホースを車体に巻き付けるタイプだったけど、70年代には電動の巻き取り装置のものに進化していた。
 バキュームカーという名の通り(とはいっても純然たる和製英語なんだけど)、原理は真空掃除機とまったく一緒だ。タンク内の空気を抜いて負圧状態にし、大気圧の差を利用して汚物をタンク内に吸い上げる。実をいうと、この仕組みはね、大正11年(1922)に東京市衛生課が考案して試作機まで作っていたんだけど、何故か採用されなかったという裏話があるんだよ。当時のインフラとしては画期的な試みだっただけに残念!
 1980年代になると、都市部では下水道の整備が進んで急速に姿を消したバキュームカーだけど、現在でも建設現場の仮設トイレや組織的な下水道の構築が難しい地方や山間部などでは現役で活躍しているよ。最近のバキュームカーはタンク内からの排気に含まれる悪臭を特殊な燃焼装置で燃やしちゃうというスグレものだそうな。んー、変わるもんだねぇ(笑)


■ものまね「バキュームカー」 昭和の大らかな笑いですねぇ♪■


40年前、何してた?(BlogPet)

ぼんくらオヤジの「40年前、何してた?」のまねしてかいてみるね

今日は和歌山の箕島高校が打ち上げ!!
今年は神奈川の市外局番が経っちゃうんだよね!!
近鉄難波線開通!
鐘紡が日本シリーズ6連覇を発売する。
夏休みに万博に成功。
アポロ13号ハイジャック事件発生、浅草で大阪万博開幕♪
今年は和歌山のかをしてたけどね。
近鉄難波線開通♪
鐘紡が頻発。
玉の引退試合開催?
第3月:整腸剤「誰かさんと誰かさん」、ジェリー・ライダー』『トラ!』『イージー・ウォレス「キノホルム」の惑星』音楽:整腸剤「誰かさんと誰かさん」、ジェリー・ライダー』音楽:巨人が合併していたの海と富士製鉄が経っちゃうんだ(V6連覇を達成する!!
八幡製鉄が初の富士製鉄が開演15周年を達成する!!
トミーが合併していた?■

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

40年前、何してた? [その他]

1970_1.jpg 今日は急用が入っちゃった。小ネタでゴメンね。
 今年は2010年。なんと3月で大阪万博から40年が経っちゃうんだよね。ぼんくらオヤジも老けたわけだ(笑)。
 万博ネタは3月に回すとして、40年前の昭和45年(1970)には何があったのかをちょっと思い出してみるね。

1月: 喜劇王のエノケンこと榎本健一さんが死去。第3次佐藤内閣発足。玉の海と北の富士が横綱に昇進。
2月: 初の国産人工衛星「おおすみ」が打ち上げに成功。
3月: 核拡散防止条約が発効。万博開幕。近鉄難波線開通。よど号ハイジャック事件発生。八幡製鉄と富士製鉄が合併して新日鉄が発足。
1970_2.jpg4月: 金田正一選手の引退試合開催。春の選抜は和歌山の箕島高校が初優勝。ビートルズ解散。アポロ13号打ち上げ。日立製作所がLSI(大規模集積回路)を開発。
5月: 植村直己がエベレスト登頂。
6月: 日米安保条約が自動延長され、各地でデモが頻発。プラハの春が終焉を迎える。トミーがトミカを発売する。
7月: 米ディズニーランドが開演15周年を迎える。
8月: 歩行者天国が銀座、新宿、池袋、浅草で実施。夏の選抜は神奈川の東海大相模高校が初優勝。札幌の市外局番が「0122」から「011」へ変更される。
9月: 整腸剤「キノホルム」の使用販売が禁止される。万博閉幕。アメリカで大気汚染防止法(マスキー法)が可決される。
10月: ロッテがパ・リーグ優勝、巨人がセ・リーグ優勝(V6)を決める。チリでアジェンデ政権発足。
1970_3.jpg11月: 巨人が日本シリーズ6連覇を達成する。三島事件発生、三島由紀夫が割腹自殺する。
12月: 広島ホームテレビ開局。鐘紡がファッション産業宣言。

映画:『ガメラ対大魔獣ジャイガー』『続・猿の惑星』『トラ・トラ・トラ!』『イージー・ライダー』『ひまわり』

音楽: 菅原洋一「今日でお別れ」、皆川おさむ「黒ネコのタンゴ」、藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」、ザ・ドリフターズ「ドリフのズントコ節」「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」「誰かさんと誰かさん」、ちあきなおみ「四つのお願い」、いしだあゆみ「あなたならどうする」、トワ・エ・モワ「空よ」、日吉ミミ「男と女のお話」、和田アキ子「笑って許して」、サイモン&ガーファンクル「コンドルは飛んで行く」「明日に架ける橋」、ジェリー・ウォレス「男の世界」、ザ・ビートルズ「Let it be」、ザ・ショッキング・ブルー「ヴィーナス」

テレビ番組:「ウルトラファイト」、大河ドラマ「樅ノ木は残った」、連続テレビ小説「虹」、「大岡越前」(加藤剛主演)、「巨人の星」、「柔道一直線」、「細うで繁盛記」、「おくさまは18歳」、「時間ですよ」

アニメ: 「あしたのジョー」「チキチキマシン猛レース」「昆虫物語 みなしごハッチ」「赤き血のイレブン」「男どアホウ甲子園」「いじわるばあさん」「いなかっぺ大将」「魔法のマコちゃん」

 ぼんくらは小学校の5年生。夏休みに万博にも行ったよ♪ 悪ガキ全開の時期でもあったけどね(笑)。ねえ、40年前って何をしてた?


■1970年に流れていたCM集■


ゲイラカイト [遊び]

ゲイラカイト1.gif 風の状態さえ良けりゃ手もとからスイっと垂直に空に昇っていく凧。和紙で出来た角凧や奴凧しか知らなかったぼんくら少年には、尻尾の要らない三角形でビニール製の『ゲイラカイト』はエイリアンのプレゼントじゃなかろうかと思えるぐらいに衝撃的なものだった。
 お隣の和兄ちゃんがハマっていて、羽根木公園でゲイラカイトを揚げる時は、ぼんくら少年の部屋の窓を叩いて、
「ぼんくらぁ、カイトやんない?」
 って声をかけてくれた。こうすれば大抵は妹や弟を巻いて二人っきりで遊びに行くことができたからね(笑)。
 ゲイラカイトが日本に上陸したのは昭和49年(1974)のことだ。アメリカのゲイラ・インダストリー社の商品を東京の(株)AGが代理販売して大ブレークしたんだけど、デルタカイト自体の歴史は1940年代にまで遡る。建築家のウィルバー(通称ビル)・グリーンが中国の伝統的な鳥凧にヒントを得て三角形の凧を考案したのが最初と言われている。日本上陸時に、元NASAの技術者が考案したかのような噂が流れたみたいだけど、これは当時がアポロ計画の真っ只中にあったことと、ゲイラ・インダストリーがヒューストンにあったことから生まれたデマだと思うな(笑)。
 昭和32年(1957)頃にはゲイラ・ブランドとして商業的な成功を収めてはいたんだけど、雑誌がゲイラカイトを取り上げてアメリカ全土に名が知れ渡ったのは昭和49年(1974)のことだった。これが日本に間髪を入れずに波及したわけで、欧米の文化が日本の若者に強い影響を与えていたことが分かる好例だよね。
ゲイラカイト2.jpg 発売時の値段は900円。小学生にはちょっと高価だったかも。ぼんくら少年はもう中学生だったから、マイ・カイトを持ってたよ。ギョロ目のカイトがみるみる空に吸い込まれていき、80メートルのたこ糸がピンと伸び切った時の爽快感といったらなかった。
 ゲイラカイトは根強いファンに支えられて、昨年(2009)で日本上陸35周年を迎えた。値段は何と発売時と変わっていない。消費税分が上乗せされてるけどね。30周年目の平成7年(1995)には、自由自在に旋回させることの出来る『スポーツカイト』も誕生して、楽しみ方は格段に広がっている。無心になれる凧揚げは絶好のメディテーションだよ♪ ひさしぶりに遊んでみない? 


■ゲイラカイトのCM集 1974年■



■ゲイラカイトのスポーツカイト版 よくここまで自在に飛ばせるもんです^^■



この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。