ベルマークって何よ? [その他]
そして自分の子どもが学校に上がった頃にはベルマーク運動自体が下火になっちゃってた。我が子もさっぱりベルマーク関心がないし、PTAで関連の役が回ってくるでもなし。そもそもベルマーク運動って何だったんだろうね?
運動は昭和32年(1957)、福島県の先生(お名前不明)が朝日新聞社に、
「僻地などでも等しい義務教育が受けられるように教材や備品を提供して欲しい」
と支援を依頼したことがきっかけで始まったんだ。
これを受けて昭和35年(1960)、朝日新聞社は創立80周年記念事業としに教育設備助成会(現ベルマーク教育助成財団)を設立。「国内外のお友達に“愛の鐘”を鳴り響かせよう」という思いをベルの意匠に託してベルマーク運動が始まった。
仕組みはちょっとややっこしいけど、たしかによくできてる。集められたベルマークが財団に送られると、1点1円換算で協賛会社から支払われ、学校や施設はそのお金で協賛・協力会社から教育用具を購入することができるんだ。もちろん消耗品や教育・福祉に関係のない商品は駄目だよ。
さらにベルマーク預金で商品が買われると、その購入代金の10パーセントがベルマーク財団に割り戻して寄付され、その資金は僻地の学校や養護学校、病院内学級、盲学校、聾学校、世界各国の日本人学校、発展途上国の学校などへの支援に回されるんだ。
ボクらが小中学生だった頃は、家の台所のどこかにベルマークを入れる袋や箱が置いてあって、買い物から母親が帰ってくると商品を漁ってマーク切り取ってたよね。クラスで持ち寄るとミカンのダンボール箱ひとつ分ぐらいはゆうに集まったでしょ。あれがお金になるのかと思うと、
「ベルマークが自分の小遣いになるんだったらもっと熱心に集めるのに」
なんて仕組みも精神もあったもんじゃない邪な妄想に耽ったりして^^;
今はどうかというと、それだけ熱心にベルマーク運動をしている学校や家庭は残念ながら少数派だ。これは企業にもいえることで、バブル崩壊とそれに続く平成不況で協賛会社は減り続け、平成14年(2002)にはピーク時の7割に当たる55社にまで落ち込んだ。地方格差もほぼ解消して設備が充実したことや、少子化傾向もあって運動そのものの意義がぼやけてきたってこともあるし。
ところが最近、ちょっと流れが変わってきてるんだよ。社会全体が不況に喘ぐ今だからこそベルマーク運動に参加し、社会に貢献していこうという企業が新規に参加してくれるようになったんだ。おかげで現時点での協賛会社は64社にまで数を盛り返しているよ。こんな企業なら消費者としても応援したくなるよね♪
福祉施設への援助を厚くしたり、AEDなどの購入もできるようにするなど、運動の意義自体を見直そうという動きも活発になってきていて、古くて新しい社会運動へ大きく舵を切ろうとしているんだ。50周年を迎える今年でもあるし、ちょっと思い出して注目してみない?
■やったことある? ベルマークの仕分け作業^^;■
http://www.youtube.com/watch?v=rbJsbnoajms
本日休業です^^; [業務連絡]
フランスキャラメル [食]
フランスキャラメルが発売されたのは、なんと昭和9年(1934)のことだ。トリコロール(3色)をベースに金髪で巻き毛の女の子の顔がデンと印刷されたインパクトのある箱だった。
味もひとつの箱にバニラとチョコ、コーヒーの3種類が入っていたんだけど、ぼんくら家では妹と弟がバニラとチョコしか食べなかったので、兄貴としては不本意ながらコーヒー味を取るしかなかった。その反動なんだろうね、ぼんくらオヤジは、未だにアイスはバニラのシングルだよ。
ところでこの顔だけの女の子だけど、どうやらシャーリー・テンプルをモデルにしているらしい。「らしい」というのは、方々で断定的な記事がある一方で、肝心の不二家はまったくこれに言及していないからだ。
シャーリーは昭和3年(1928)の生まれだ。フランスキャラメルの発売年には6才になっていたし、その頃には名子役の地位を確立していて日本でも大人気だったから不二家がキャラのモデルにしても不思議はないんだけど、ぼんくらオヤジの印象では、あくまで参考にしただけなんじゃなかろうかという気がする。写真のシャーリーと箱の女の子がどうしても同一人物にはみえないんだよなぁ。まあ根拠のないお話なんだけど、こういう想像も楽しみのうちだよね♪
シャーリーは82才の今も名士として元気に暮らしてるけど、フランスキャラメルは、いつ製造が中止されたのかいくら調べても分からないぐらい静かに歴史の闇に消えていった。
そういやフランスキャラメルに限らず、欧米文化に対する憧れが強かったのか、商品のキャラクターや雑誌は金髪で青い眼のモデルさんばっかりだったよね(笑)。昭和は間違いなく『舶来品』という言葉が高級感を伴って燦然と輝いていた「欧米か!」の時代だった。
■"On the Good Ship Lollipop" by シャーリー・テンプル 1934年■
http://www.youtube.com/watch?v=5yR7ONpWlIE
キャロライン洋子 [テレビ]
今でもはっきりと覚えているのは、昭和50年(1975)にNHK少年ドラマシリーズで放送された『長くつ下のピッピ』と、同年に日テレで流された『少年探偵団-BD7』だ。
妹がかじり付いて観ていた『長靴下のピッピ』では、ピッピの吹き替えをキャロライン洋子が担当していて、
「チョラホップ チョ~ララララ チョラホップ サンサン♪」
で始まるテーマ曲も歌ってたんだけど、吹き替えとは思えなぐらいピッピそのものといった感じで、ピッピのキャラ設定とテレビで見せる活発でおてんばなキャロラインのイメージがピッタリ重なった文字通りのはまり役だった。
もう一方の『少年探偵団』は、ぼんくらオヤジはもう中3だったからフツーなら観てない種類の番組なんだけど、弟が欠かさず観てたんで覚えてるんだよね。キャロラインの実兄、黒沢浩が少年探偵団の団長役で、その妹役を本当の妹のキャロラインが演じてたんだけど、覚えてるかな。主役級の7人の陰に隠れてたから、ちょっと記憶にない人のほうが多いかも。なにせ実の弟妹だから呼吸もピッタリ合っていて、なんとも健気な妹を好演していたんだよ。
キャロライン洋子の本名はCaroline Nan Koff。アメリカ人の父と日本人の母を持ち、東京で育ったんだ。兄妹で劇団若草に入り、昭和40年(1965)に読売テレビのドラマ『パパのおくりもの』に出演して以来、人気子役・モデルとして様々なテレビ番組や雑誌に登場して、当時の子どもたちの憧れでもあった。子役時代を過ぎてからもタレントとして活躍していたんだけど、19才の時にアメリカに活動拠点を移し、散発的にCMやトーク番組などに顔を出す程度で、徐々にタレント活動から遠ざかっていく。
その後のキャロラインの転身は見事なものだった。数理科学と数学を専攻してオレゴン州立大学を優秀な生成期で卒業して同大大学院に進学。人工知能に関する論文で修士号を取得して、現在はヒューレット・パッカード社で人工知能の研究を続けている。
余談だけど、兄貴の黒沢浩(William Hiroshi Koff)も現在、テレビ番組・CMの制作会社を経営するなど、目立たないけど活躍している。最近流れている「プロアクティブ」のCMは彼の会社が手掛けてるよ♪
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
■「少年探偵団 BD7」オープニング 兄貴の浩のほうだけね^^;■
http://www.youtube.com/watch?v=G4w2dd6u1To
■キャロライン洋子出演のCM集 1980/86/87年■
http://www.youtube.com/watch?v=ITnTZNJUY5E
ノースキャロライナ [食]
「今日は買わないよっ。もー、あればある分みぃーんな食べちゃうんだから駄目! ほれほれ、行った行った」
と、ぼんくらオバンに追っ払われるだけで、実際に買うことはあんまりないんだけどね。少年時代だったら床に寝っ転がって、
「買って買って買ってぇ~~~」
とジタバタするところなんだけど、今こんなことをしようもんなら絶対、ぼんくらオバンに買い物カートで轢き殺されるし^^;
ところで、そんな甘い物好きのぼんくらオヤジが最近、フッと思い出して探したキャンディがあるんだ。昭和43年(1968)に発売された不二家の『ノースキャロライナ』だ。
ノースキャロライナはイチゴ味にメロン味、そしてチョコ味のするソフトキャンディだ。特色は何といっても木の年輪のような渦巻き。不二家のお客様相談室によると、2代目社長の藤井誠司氏がノースキャロライナ州のアパラチア山脈を旅した時に、古木の切り株いっぱいに広がる年輪に感銘を受け、これがキャンディの名前と形状のモチーフになったんだそうだ。
甘くて濃厚なミルク味がベースになっていて、甘党の子どもにとっては頬張っただけで幸せが込み上げてくるようなキャンディだったなぁ。当時のお菓子にはイチゴ、メロン、チョコなんて色分けがしてあっても味は同じ、なんてインチキなものが結構あったんだけど、ノースキャロライナは別格で、ちゃんと味が違ってたしね。
ソフトキャンディという目新しさもあったよね。ちょっと暑いとドロドロ、寒いとフツーのアメと大差なくなっちゃったり、逆に適度な柔らかさの時に噛みつくとビックリするぐらい歯に食い込んじゃって、治療した歯の詰め物が取れちゃったりすることがあった。虫歯の原因にもなれば、せっかく怖い思いをして治療した歯を台無しにするという悪魔的キャンディでもあったのだった。
ノースキャロライナは平成6年(1994)、とくに話題になることもなく静かに製造・販売を終了した。秘密基地に備蓄していたらネズミの餌食になっちゃったことがあったなぁ。弟が大病をして死線を彷徨っていた時、何かしてやれることはないかと必死に考えた挙げ句に、弟の手に握らせたのもノースキャロライナだった。思い出深いお菓子は甘くて、しょっぱい。
■ノースキャロライナが発売された1968年はこんな年でした♪■
http://www.youtube.com/watch?v=SbBMweCXMiM
B級玩具傑作選 - くたくた動物 [遊び]
構造は至ってシンプル。台座にはバネが仕込まれていて、底板と動物の胴体は糸で繋がっている。フツーはこの糸がピンと張った状態なんだけど、底板を押すと、押した側の糸が緩んで動物がへにゃりと傾ぎ、指を放すとバネの力で糸は再び引っぱられて動物もしゃんとする。
これ、日本ではプラスチック製のものが駄菓子屋で買えたのでB級玩具に思われてるんだけど、実は昭和20年(1945)にスウェーデンの木工品メーカーBRIO社が開発した "Sampo" という立派な木製玩具なんだよ。BRIOのサイトを確認した限りじゃキャラはイヌだけみたい(業務連絡:miopapaさん、ご存知ないですか?)。日本では『起き上がりドッグ』と呼ばれていて、お値段も立派に高い。
してみると、ボクらが子どもの頃に遊んだプラスチック製のくたくた動物たちはコピー商品だったってことになるね。
たしかに当時の日本はコピー商品が巷に溢れていた。ぼんくらオヤジの記憶にある限り、一般の日本人が著作権や特許権、商標権といった知的財産権を意識しだしたのは1980年代に入ってからのような気がする。近頃、中国のコピー天国振りをマスコミが餌食にしてるけど、かつての日本を知る身にしてみれば歯切れが悪くなっちゃうよね^^;
■BRIO社のSampo 可愛いでしょう♪■
http://www.youtube.com/watch?v=ORYbjYKvR-I
■健康診断犬スパーキー その時のご主人の健康状態を体現します♪■
http://www.youtube.com/watch?v=TfDWcs0PLN4
電車ごっこにみる今昔考 [コラム]
とくに、ぼんくらオヤジのように少年時代のかなりの時間を友達と公園で過ごした人間には、目に飛び込んでくる子どもたちの遊びや遊び方、友達関係などが多くの場合はかつての自分と見事にダブり、時と場所を越えた子どもたちの普遍的な世界を垣間見る思いがするよ。
でもね、時として違和感というか、
「あれ、何かが違う」
って思うことだって当然ある。それは子どもたちのファッションであったり、遊びの種類であったりすることが大半なんだけど、中には、子どもの世界が根本的に変質してるんじゃないかと思うこともあるんだよね。
例えば「電車ごっこ」。バスごっことしてやった人がいるかもしれないね。遊び方はいろいろだけど、典型的なのは何かで輪っかを作り、その中で2人以上の子どもが縦一列に並んで歩き、電車やバスを疑似体験するよね。輪っかはみんなの持ってる縄跳びの縄を持ち寄って結べばカンタンにできたし、最悪、ヒモやロープがなくても、前の友達のベルトやズボンを掴めば連結できたから、手持ち無沙汰な気分の時にはすぐに盛り上がれるお手軽な遊びだったよね。そういや、当時流行ってたフラフープの輪っかで電車ごっこをした人もいるんじゃないかな。
ぼんくら少年たちは京王・井の頭の沿線に住んでたから、京王と井の頭の二手に分かれて明大前駅ですれ違う様子をシミュレートしたり、じゃんけんをして勝ったほうが特急か急行で、負けたら鈍行というルールを作って、新宿から京王八王子までどっちが先にゴールするかなんて、結構、凝った電車ごっこをして遊んでたよ。車掌役が検札までやって無賃乗車の客をタイホしたりとやりたい放題だったな^^; 子どもたちが想像力を働かせて思い思いに遊べたから、時代や地域でそれぞれに特色があったんじゃないだろうか?
その電車ごっこを公園で見かけないのだ。いや、一度だけあるんだな。幼稚園の子どもたちが先生と一緒に来て、電車ごっこを始めたんだ。先生たちが子どもたちを何グループかに分け、予め用意してあったロープ製の輪っかを渡すんだよね。そして先頭になった子の前には先生が電車の正面を描いたダンボールのプレートを付けてあげて、ようやく電車ごっこが始まるんだ。先生方は進む方向から歩く速さまで、片時もそばを離れず注意して見ていて、ちょっとでも危険と判断すると電車を止めて安全確認。ケガをされちゃうと監督不行届ってことになるんだろうねぇ。
後でぼんくら息子たちに電車ごっこについて訊いて驚いたんだけど、息子たちが電車ごっこをしたことがあるのは幼稚園の時だけ。しかも、彼らは電車ごっこが遊びだとは考えておらず、「お遊戯」だと思っていたことが判明したのだった。先生の下でする遊びの形をとったお勉強。なるほどね、公園で見た園児の姿と一致するな。
「友達同士ででんしゃごっこはしなかったの?」
「えー、するわけないじゃん。先生がいないのに劇とかやらないし。意味ないし」
地元で託児所の経営をしている友人に訊いてみたところ、今どきの子どもたちも「遊ばないわけではない」とのこと。ただし、専用のロープやダンボールなんかで「電車」を作ってあげないとしないんだそうで、もはや自然発生的な遊びではないんだそうな。
「ぼんくらくん、そんなことにビックリするなんてアタマ古過ぎぃ(笑)。紙とハサミとノリを配って『さあ、これで好きに遊びなさい!』って言ったら私たちの頃みたいに大喜びするって思ってるんでしょう。甘いなぁ! それだけじゃ困った顔して『で、何すんの?』って訊かれるだけよ。今の子はね、道具とハウツーをセットで与えないと駄目なの!」
げー、そうなんだぁ。電車ごっこをしなくなってきた、なんてレベルじゃないよね、これって。公園で感じてた違和感の理由が分かったような気がしたんだけど、同時に冷え冷えとした気分にもなっちゃった。クリエイト系や科学系、技術系の仕事をしている人ならよく分かってもらえると思うんだけど、これってヤバくない? 心の危機管理センターで警報が鳴ってるよ。まてよ、我がぼんくら息子たちはどうなんだろう? …怖くて確かめられないよ^^;
■今どきの電車ごっこ 条件1: 電車は大人が準備しましょう♪■
http://www.youtube.com/watch?v=GReohFy8Ync
■今どきの電車ごっこ 条件2: 大人が付き添い、指導しましょう♪■
http://www.youtube.com/watch?v=e_BTVMWsTns
コーワのケロちゃん [その他]
ケロちゃんのご先祖にあたるキャラが登場したのは昭和24年(1949)5月16日付の新聞紙上だった。じんましんの薬レスタミンの広告で、「どうだ、調子は」と訊かれて「ケロリ、ケロリ」と答えるカエルのイラストだ。たしかにカエルという点では一緒なんだけど、ケロちゃんの誕生とするにはちょっとムリがあるような気がする。
我々にとってのケロちゃんのイメージは昭和33年(1958)に登場した販促用の指人形からといっていいだろう。60~70年代に少年少女だった人なら、親と一緒に薬局に行ってこの塩ビ製の指人形をもらった思い出はフツーにあるんじゃないだろうか。
ケロちゃんのイメージを最終的に定着させたのは、昭和39年(1964)に流されたコルゲンコーワのテレビCMだ。腕白坊主(保積ぺぺ)がケロちゃんを見て、
「あれぇ? おめぇ、ヘソねぇじゃねぇか!」
と言いながらケロちゃんにヘソを描き込むというCMだったんだけど、おへそがちっちゃかったり太っていて見えにくい子が虐められるというクレームがついたということで、放送は4ヶ月余りで打ち切りになっちゃった。でもね、察しのいい人は気付いたかもしれないけど、CMに先立つ1年前に登場した店頭ディスプレイのケロちゃんにヘソが落書きされるという「事件」が相次ぎ、全国の薬局から苦情が相次いだからって話もあって、本当のところは謎のまんまだ。
このCM、もうひとつ後遺症があってね。男の子とかけ合いをするケロちゃんの声を男性の声優さんがやってるでしょ。70年代まで少年少女だった人はビックリするかもしれないけど、実はケロちゃんのキャラ設定が女の子だって知ってた?
サトちゃんにはサトコちゃんが、ペコちゃんにはポコちゃんがいるのと同様に、ケロちゃんにはコロちゃんという相方が存在するんだけど、佐藤寛のデザインによる初代ケロちゃんを昭和52年(1977)に久世アキ子によるケロちゃんコロちゃんに改めた時に、ケロちゃんは女の子、コロちゃんが男の子と改めて設定し直したんだよね。見分け方だけど、服を着ている場合は赤い横縞のシャツに赤い吊りスカートがケロちゃんで、青い横縞のシャツに青い吊りズボン姿がコロちゃんだよ。服を着てない時はマツゲのあるほうがケロちゃんだからね。
キャラにちょっとした(かなりかな^^;)混乱があったためか、店頭マスコットはケロちゃんでもコロちゃんでもなく「店頭カエル」と興和では呼んでいて、初代が昭和38年(1963)、2代目が昭和53年(1978)、そして現在の3代目は平成20年(2008)に登場しているよ。2代目は、前年に新キャラにモデルチェンジしているにもかかわらず、佐藤寛の初代デザインを踏襲したものになっているのが不思議だね。
混乱といえば、このキャラを「ケロヨン」とか「ケロリン」と呼んでいる人がいるけど、これは明らかに間違いだ。ケロヨンは以前も紹介したとおり木馬座アワーの、ケロリンは内外製薬が販売している頭痛薬の名前だからね!
■ケロちゃん人気に火を付けた「おめえ、ヘソねえじゃねえか」 1964年■
http://www.youtube.com/watch?v=HAcDXPCqLa0
■新コルゲン・ホワイトカプセルのCM by 明石家さんま 1988年■
http://www.youtube.com/watch?v=Br5qkCGSFDo
■新コルゲン・かぜ錠のCM by 鈴木杏 2005年■
http://www.youtube.com/watch?v=PZGAeNgmasY
キャベツ畑人形 [遊び]
昭和58年(1983)のクリスマスイブに、横浜で「キャベツ畑から生まれた、キャベッジ・パッチ・キッズ」というキャッチで72体を展示するイベントがあったんだけど、日本ではこれがブームの発端となった。
価格は発売当時で6,500円とベラボーに高かったんだけど、顔や髪型、肌や目の色、服装などなどの違いで種類が6000以上もあるうえに、販売時には出生証明書が付いて名前と誕生日が与えられるために、同じ人形は基本的にひとつとしてなく、1年後にはダメ押しのバースディ・カードまで届くという独自性が馬鹿ウケして、爆発的なヒットとなった。
キャベツ畑人形の生みの親はアメリカ人のザビエル・ロバーツだ。ジョージア州のクリーブランドで手芸店のマネージャーをしながらアートの勉強をしていたザビエルは、昭和51年(1976)に "Little People" という名前の出生証明書付き手作り人形を考案。初めはお店で細々と子どもたちに売ってたんだけど、じきに友人たちと会社を設立して人形の販売を始めたんだ。この世界初の出生証明書付きにしてハンドメイドの人形は徐々に口コミで噂が広まり、昭和56年(1981)にはそれを聞きつけたニューズウィークやウォールストリート・ジャーナルなどのマスコミが取り上げるようになると、40ドルで販売されていた人形に100倍のプレミアム価格が付くほどの人気商品になっちゃった。
これを業界が放っておくはずもなく、昭和57年(1982)に玩具メーカーのコレコ社がザビエルらと契約を結び "Cabbage Patch Kids" に改名して大量生産を開始。オリジナルの "Little People" はすべてが布製で手作りだったけど、キャベツ畑人形は顔がビニール製に仕様変更された。顔の微妙な違いを布へのプリントで表現できる技術が当時はなかったためだ。それでも他の仕様やコンセプトは固持され、これが好感されて、同年のクリスマスまでに何と全米で300万体ものキャベツ畑人形が売れるという史上空前の売り上げを記録したんだよ。その後、キャベツ畑人形の人気は世界中に飛び火し、1年後に日本にも上陸したってことだね。
日本はツクダオリジナルがライセンス生産と販売を行っていて、(なぜか近鉄や阪急の)プロ野球のユニフォームを着たものやウエディングドレスのものがあったらしいんだけど、知ってる人はいる?
これまで30年近くにわたって世界中で発行された出生証明書から割り出すと、キャベツ畑人形の人口は軽く1億人を突破するそうで、ヘタに建国なんかをしようもんなら、突然にして世界第12位の国家が誕生するという隠れた脅威になっているらしい。人形を持ってるんだったら、押し入れに放り込んでおかずに引っぱり出して飾ってあげたほうがいいかもよ^^;
余談だけど、人形を持ってる人は、お尻にあるザビエルのサインの色を調べてみてね。色で人形の生年が分かるんだよ(データはこちら)。
■キャベツ畑人形誕生25周年! スゴい人気なんですねぇ^^; 2007年■
http://www.youtube.com/watch?v=09LAleOrBvw
■パロディ「レタス畑人形 VS チャイルドプレイのチャッキー」 怖ぇ!■
http://www.youtube.com/watch?v=NTR0w1hzRLo