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オヤジ(BlogPet)

きょうはぼんくらオヤジと研究しようかな。
ぼんくらオヤジは消費してくれるかな。

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

B級玩具傑作選 - ミニパチンコ [遊び]

ミニパチンコ2.jpg 先日、久しぶりに近所の駄菓子屋さんに行ったら懐かしいものを見つけちゃった。『ミニパチンコ』だ。手のひらサイズでプラスチック製。レバーで玉を打ち出しポケットに入れるという、ただそれだけのものなんだけどね。105円で売ってたよ。
 ぼんくら少年が遊んでいた頃はどうだったけ? 既にプラスチック製だったことはたしかなんだけど、値段は覚えてないな。たいていの駄菓子屋さんには置いてあって、買ってはすぐに飽きてポイ捨てし、また思い出しちゃ買うなんてことを繰り返してた。
 背景の絵が違うぐらいであんまり変わり種はなかったんだけど、ごく稀に、ガイドが渦巻き状になっていて、玉を打つとそれに沿って玉が中心に向かってクルクルと走り、途中に開いている穴に入ると得点になるタイプのものもあった。
ミニパチンコ1.jpg いつの頃からミニパチンコが出回りだしたのかは不明。ブリキの箱にガラスのフタのミニパチンコがネット・オークションに出品されていたりもするから、少なくとも昭和30年代にはあったんじゃなかと思うんだけど、パチンコ自体が昭和5年(1930)には世に出ていたことを思うと「第1号機は戦前」なんて可能性もあるよね。あーあ、また宿題ができちゃった(笑)。
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私はコレで会社を辞めました - 禁煙パイポ [雑貨]

禁煙パイポ1.jpg「私はコレで会社を辞めました」
 スーツ姿のおじさんが小指を立てながら語る『禁煙パイポ』のCMが流行ったのは昭和59年(1984)のことだ。カワイコちゃんじゃなく、中年サラリーマンが3人というむさっ苦しい映像だったのに大ヒットしたという異色のCMだった。
 禁煙パイポは、ゴルフ用品の販売製造を手がけていたマルマンが販売(当初は子会社アルマン)していた禁煙グッズ。タバコ型の本体に香料を仕込んだフィルターが仕込んであって、これを吸うことで喫煙衝動を抑え込もうとする極めて原始的なものだった。これでタバコを止められた人ってどの程度いるんかいな^^;
 CMを担当したのは市川準。当時のマルマンは、ゴルフブームの低迷や消費の冷え込みのおかげで、禁煙パイポが当たらなかったら倒産という危機的な状況で、製作費と放映費はすべて銀行からの借金というバクチのような投資だったんだよ(笑)。それがCMが大当たりしたおかげで本業も奇跡的に回復したんだから、企業にとってテレビCMがどれほどの威力を持っているかが分かるよね。
禁煙パイポ2.jpg 面白いのが、CMに出演した3人が全員素人さんで社団法人日本禁煙友愛会のメンバーだったということ。当初のギャラは交通費程度で、謝礼が払われたのはCMがヒットしてからだった。小指を立てたおじさんは東京都の職員だったんだけど、一時は仕事に支障が出るほどの人気者にもなったそうな。
 当初は「コレ」が批判を浴びるんじゃないかという心配があって、放映を拒否されて小指を立てないバージョンを急遽製作するなんてことも実際にあったんだけど、東京で試験的に流したところ大反響を呼び、全国に流される運びとなった。
 CM中のフレーズ「私はコレで会社を辞めました」は、昭和60年(1985)には新語・流行語大賞の流行語部門大衆賞に選出され、CM自体も平成3年(1991)には『昭和のCF100選』に選ばれ、昭和を代表するCMとして認知されたのだった。やっぱりタダモノじゃなかったね、市川準って。



■禁煙パイポのCM 流行りましたよねぇ♪ ■


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スマイリーフェース [ファッション]

スマイリーフェース1.jpg スマイリーフェース。スマイリーやニコちゃんマーク、スマイルマークなどという名前でも呼ばれていたよね。黄色い円に笑顔の描かれたシンプルなデザインなんだけど、日本では昭和46年(1971)にサンスター文具が缶バッジを発売して大ブレークしたよね。ぼんくら少年も大好きで、缶バッジはもちろん、下敷きやミニ定規なんかもスマイリー入りのものを買って使ってたよ。
 中でもお気に入りだったのは黒地にスマイリーフェースがプリントされたビニール製のショルダーバッグで、小6の時に買ってもらってから何年も愛用していた。最後はボロボロになったのをみかねた親の命令で泣く泣く処分したんだけど、ゴミ袋越しにスマイリーが悲しげに笑っているようで本当に切なかった。
スマイリーフェース2.jpg このスマイリーフェースがいつ、誰によって考案されたのかは諸説あるんだけど、昭和38年(1963)にアメリカの商業美術家であるハーベイ・ボールがデザインしたものだということでとりあえず一件落着しているようだ。平成8年(1996)、ボールのお膝元であるマサチューセッツ州ウースター市によってスマイリーフェースのボール考案説が公認され、平成11年(1999)にはアメリカの郵政公社の記念切手としてスマイリーフェースが採用されたことによって、事実上、アメリカがボールを生みの親として公認する形となった。なんともアメリカらしい強引な政治決着のような気がして、ぼんくらオヤジとしては頭が痒くなるような思いだけどね(笑)。
スマイリーフェース3.jpg ハーベイ・ボールが亡くなった平成13年(2001)には、息子が会長となってハーベイ・ボール・ワールド・スマイル財団なるものが設立されて、スマイリーフェースを世界平和の礎にするためのボランティア活動を展開しているらしい。日本支部なるものもあって、周富徳氏やサトウサンペイ、山田隆夫、柴俊夫などの有名人が「名誉スマイル大使」なるメンバーとして名を連ねてるんだけど、サイトの説明を何度読んでも、いまひとつ、何をしてるのかが分からない。これは私感だけど、これはどうもスマイリーフェースの著作権を世界的に確立するのが主たる目的のような気がする。財団以外にも著作権を主張している会社や個人はひとつやふたつじゃないからね。
 70年代に "Love & Peace" の象徴だったスマイリーフェースは、もはや著作権ビジネスの胡散臭さを物語るシンボルに様変わりしてしまった。相変わらず可愛らしいまんまなのにねぇ^^;


■月と木星、金星が作り出した壮大なスマイリー 2008年■



■花火が作り出したスマイリー 長岡の花火大会ですね♪ 2007年■


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B級玩具傑作選 - けむり玉 [遊び]

けむり玉1.jpg 子どもの遊びの中にはハタ迷惑なものが決して少なくないんだけど、中でも『けむり玉』は横綱級に迷惑な代物だ。
 普通の花火と大差なく硝石と硫黄、松煙というシンプルな中味なんだけど、これを丸い容器の中に封じ込めて不完全燃焼させると大量のススが発生するんだよね。
「ぼんくらちゃん達、よくけむり玉で遊んでたでしょう。あの煙の臭いが洗濯物に染みついちゃってウチの母さん、すごく迷惑してたのよ。『あの悪ガキ達、生ゴミと一緒に持ってってもらいたいわ』ってよく言ってた(笑)」
 昨年末、友人知人の集まったパーティで幼馴染みの女友達にこんなことを言われちゃった^^; そーでしたっ、ぼんくら少年はお小遣いの結構な金額をけむり玉とヘビ玉に貢いでボーボー燃やしてました! あんなものスゴい煙の出る遊びを狭い路地でやってたんだから文句を言われて当たり前だよね。悪さもしていて、通りかかると必ず吠えかかってくる犬のいる庭や、駐停車してるクルマの下にけむり玉を放り込んだりもしてたし。
 2~3個のけむり玉にまとめて火を付ける遊び方も知ってはいたんだけど、これは消防車が来るかもしれないからマズいと、大人に言われるまでもなく友達同士で申し合わせてしなかった。ミョーなところでは抑制が効いてたんだよね。
 昨年の8月に、岐阜県のキャンプ場に向かっていた名古屋市の高校1年生の坊やが、JR中央線の快速電車の中でふざけて花火に点火し、車内に煙が充満するって騒ぎがあったけど、このニュースを聞いてすぐに思ったのは、
けむり玉2.jpg「ボクらが子どもの時にこんなことをしただろうか」
 ってことだった。今の子達なんか考えも及ばないような悪さをしていたぼんくら少年だったけど、電車の中で花火を付けるとどうなるかなんてことはカンタンに想像がついたし、それを実行するなんて、それこそ考えも及ばないことだったと思う。どこでどうなっちゃってるんだろうね?


■36個のけむり玉にいっぺんに火を付けるとこーなります^^;■


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タテタカコと金延幸子 [音楽]

タテタカコ1.jpg 昭和をダイレクトに思い起こさせる歌手がいる。タテタカコだ。
「だれ、その人?」
 そう思う人が多いかもね。つい先日19才で結婚した柳楽優弥の出演した映画『誰も知らない』の主題歌を歌っていたシンガー・ソングライターといえば分かるかな。最近では不動産・賃貸の『ピタットハウス』のCMソングを歌ってるよ。
 昭和53年(1978)生まれで長野県飯田市在住。国立音大音楽教育家に在学中、教育実習のために訪れた母校の飯田女子高校で生徒たちに請われて録音した弾き語りがきっかけとなって、平成13年(2001)頃から飯田でライブ活動を始めたという異色の歌手だ。
 全国的なライブ活動を行ってるんだけど、拠点はあくまで飯田。いろんなミュージシャンとジョイントすることはあっても基本はピアノの弾き語り。自分を語らせてみても、
「べつに動物ともすぐ仲良くなれないし、単純作業は好きだけど、得意じゃないし、過去のことはすぐ忘れ、落ち着きがなく、動きに無駄が多い(自身のサイトのプロフィールより転載)」
 という何とも地味なことを言う。そう、万事が地味なんだよね、この人って(笑)。
 なのに彼女の曲は一度聴いただけで心に焼き付いちゃうから不思議だ。

タテタカコ2.jpg「あした 僕は」

作詞・作曲: タテタカコ

あした ぼくは どこへ行こうか
あした ぼくは どこかへ行きたい
もしも ぼくが 帰ってこなくとも
あした ぼくは どこかへ行きたい

あした 僕に 朝はまたくる
あした 僕に 朝はまたくる
夜が 僕の影を食べるけど
あした 僕に朝はまたくる

あした ぼくは どこへ行こうか
あした ぼくは どこかへ行きたい
もしも 君がどこかにいるのなら
あした ぼくは どこかへ行きたい
あした ぼくは どこかへ行きたい
(JASRAC 143-9853-2)


URL: http://www.youtube.com/watch?v=8gMUz5nGcAY

 アニメ『スケアクロウマン』のエンディングテーマ曲にも採用された曲だ。誰かに聴かせようという他者への媚びがまったく感じられない。ひたすらに内なる自分に語りかける率直さと真摯さが傍で聴く人の心を奥底から揺さぶるんだ。
 人によって感じ方は様々だろうけど、ぼんくらオヤジは彼女の曲に触れる度に昭和に体験したことや出会った人々の記憶が次々に甦ってくる。彼女の曲は別に昭和を意識したものじゃないし、第一、そんなことが記憶の呼び水になるわけじゃない。あの頃には誰もが当たり前のように大切にしていたのに、いつの間にか無くしちゃったもの。その存在を思い起こさせてくれるんだ。無くしたんじゃない、忘れてただけだってね。
 こんな曲を少年時代にも聴いたような気がする。昨日から一晩考えて、ようやく思い出した。70年代の幻のシンガー・ソングライター金延幸子が歌っていた『とべたら本こ』だ。昭和47年(1972)に放送された山中恒原作のTVドラマの主題歌で、平成10年(1998)になってようやくCDに収録された小品なんだけど、どこかタテタカコと通じているように思えてならない。

金延幸子.jpg「とべたら本こ」

作詞・作曲: 金延幸子

言いたかないんだ嘘つきこつき
本こは言えない男の子
叱られ泣き虫万年人
ばれたらカラスに羽ちょっとかりて
おためし おためし とべたら本こ
おためし おためし とべたら本こ
おっかねえ母ちゃんに言ったげよ

おためし おためし とべたら本こ
おためし おためし とべたら本こ
おっかねえ母ちゃんに言ったげよ



 高度経済成長期も終わった。バブルも弾けた。ジャパン・アズ・ナンバーワンの幻想も消え去った。右肩上がりの経済成長も過去のものになった。新興宗教はサリンと壺と印鑑を残して地下に潜った。癒しは全員が求めると与えてくれる人がいなくなるのに気付いた。これからは小さくなったパイを奪い合うんじゃなく、分け合うようにしようよ。オレが、私がと言う前に、隣の人のことを気遣おうよ。他人様のことを悪く言うのはなるべく止めようよ。理由や理屈に頼ることなく「いけないことはいけない」と確信をもって子どもたちに言い切れる大人になろうよ。地道に働き、背伸びをせずに、身の丈にあった暮らしをしようよ。昭和の日本人は、たとえ一時期であってもそれができたんだぜ。
 反吐が出るような説教ソングじゃない、等身大の自分とひっそり向き合うタテタカコの歌は、何もかもが瓦礫のようになってしまったこの国で、北極星のように静かに輝く道標となっているように思えてならない。



■映画『誰も知らない』の主題曲「宝石」 by タテタカコ■

URL: http://www.youtube.com/watch?v=8gMUz5nGcAY



■「傷」 by タテタカコ■

URL: http://www.youtube.com/watch?v=EUKg9eqAe7U


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汽車土瓶 [雑貨]

汽車土瓶1.jpg 懐かしいものを見つけちゃったので、今日は敢えて小ネタでいくね。昭和生まれなら画像を見ただけで、
「あー、これね」
 って言ってくれるだろうと思うんだけどな^^。じゃあ駅弁と一緒に買ったこのお茶の容器の名前って知ってる? 鉄道ファンは別として、意外に知らない人が多いんじゃないかな。材質は陶製だったりポリビニルだったりするけど『汽車土瓶』って呼ばれてたんだよ。ぼんくらオヤジは列車の旅行が子どもの頃から大好きだったので、汽車土瓶を見ただけで未だにワクワクしちゃう。
 汽車土瓶がいつ、誰によって開発されたのかは残念ながら分からない。鉄道マニアは一般に恐ろしく緻密に鉄道関係の資料を漁る人達なんだけど、その彼らが特定できないんだから、門外漢のぼんくらに分かるはずもなく。一般論として言うと明治時代には既にあったとされているけど、資料上では福岡市の皿山で大正時代に汽車土瓶が製造されていたことが確認されているようだ。
 汽車土瓶についてひとつ、はっきりといえるのは、少なくとも昭和30年代まで汽車土瓶は日本における数少ない使い捨て容器だったということだ。今、陶器の汽車土瓶を手に入れたら、とても捨てられない気分になるけどね(笑)。
 ぼんくらの記憶では、昭和40年代にはもうほとんどの汽車土瓶がポリ容器になっちゃってたと思う。ハッキリ言って、あのお茶は不味かった(笑)。だって容器の臭いがするわ、直ぐ冷めるわ、茶葉自体の質が悪いわ、どこを褒めていいのか見当がつかない代物だったもんね。それでも駅弁を車内で頂く時には是非とも欲しい小道具であることに変わりはなく。
 不味くても買われていた汽車土瓶茶に蔭りが訪れたのは1980年代の中頃だった。金属に触れると色や味が変質してしまう特性ゆえに困難だったお茶の缶詰化が技術的に可能となり、ホームやキオスクでお茶缶が売られるようになったのだ。
 汽車土瓶茶の終焉を決定的にしたのは、平成8年(1996)に飲料業界が産廃物抑制のために行ってきた1リットル以下のペットボトル生産の自主規制を解除したことだった。飲み残してもフタをすれば持ち歩くことができ、風味も格段に勝っている小分けのペットボトル茶に放逐されてしまったのだ。
汽車土瓶2.jpg こういうと跡形もなく消え去ってしまったかのようだけど、実をいうと今でも2ケタを軽く越える駅で汽車土瓶は生き残っているんだよ。一時は販売を止めちゃった駅でも復活させるところが増えてるんだって。希少価値に加えて、旅情を誘うアイテムとして再び利益の出る人気商品に返り咲いているみたい。そうなんだよね、旅はある意味、効率や合理を捨て去った究極の遊びなんだもん。行きに出会った重たい陶器の汽車土瓶や駅弁の容器を、先の長い道中でヒィヒィいいながら持ち歩くのも楽しみのうちなんだ♪ 汽車土瓶に再び出会った人は、失ったものを取り戻すことができるかもしれない。


■駅弁と汽車土瓶のある旅の光景 旅情を堪能できますね♪ 1983年■


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消える百葉箱 [テクノロジー]

百葉箱1.jpg 昭和の小学校の校庭にお約束のようにあったのが『百葉箱』だ。ルーバー(鎧戸)で四方を囲まれた白い箱で、中には温度計や湿度計が入っている。凝ったものだと雨量計も併設されてるよね。本来は「百葉窓」だったので「百葉箱」でも読みを「ひゃくようそう」と書かないとテストじゃバツをもらった人も多いだろう。最近はNHK教育放送でも「ひゃくようばこ」って読んでるね。
 19世紀の中葉にイギリスで開発された頃は箱形じゃなく屋根の付いた看板みたいな作りだったんだけど、明治6年(1873)に現在のスティーブンソン型百葉箱となって現在に至っている。日本では翌明治7年(1874)に内務省測量司が導入し、ちらほらと尋常小学校の校庭にも設置されて気象観測が行われてきたんだけど、全国の小学校に設置されるようになったのは昭和28年(1953)に理科教育振興法が施行されてからだ。
百葉箱2.jpg 百葉箱で観測されたデータは気象庁に集められ、長い間気象観測に重要な役割を果たしてきたんだけど、これを知ってる人は少ないんじゃないだろうか。逆に理科クラブなんかに入っていて記録を手伝わされた人もいるんじゃない?
 平成5年(1993)に気象庁は自動観測機器の普及を理由に百葉箱での観測を廃止。以降は老朽化が進むにつれて各地の小学校から徐々に姿を消している。最近の若い先生の中には百葉箱自体を知らない人も増えているそうだよ。


■「チャイルズデイズメモリー」 by 石井竜也 いろんな百葉箱が登場します♪■


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カップヌードル [食]

カップヌードル1.jpg 昨日に引き続いて今回は日清食品の創業者、故安藤百福さんの生誕100周年を記念して、3月1日にから100円(発売時の価格)で限定販売される『カップヌードル』の話だよ。
 カップヌードルが世に出たのは昭和46年(1971)のことだ。インスタントラーメンの国内市場がだぶつき成長が頭打ちになっていた60年代の後半に、百福さんはその活路を海外に求める意志を固める。これだけ聞くとワンマン社長にありがちな根拠のない思い付きのように感じるかもしれないけど、実はアメリカでチキンラーメンを既に試験出荷して成功の感触を掴んでいたのだ。百福さん本人も昭和41年(1966)にアメリカとヨーロッパを視察して回り、海外に受け入れられる製品のアウトラインを描いてるんだけど、その時の様子が東海道中膝栗毛みたいで面白いんだよね。
 先ず百福さんの目に焼き付いたのは、野外のカフェテリアでサンドイッチを食べたりジュースやコーヒーを飲む人々の姿だった。何に注目したか分かる? 答えは彼らが使い捨ての容器を使っていたこと。
「なんだ、そんなことかよ」
 と思うかもしれないけど、東京オリンピックが終わって間もない頃の日本では、使い捨てるのは割り箸やジュースの自販機の紙コップぐらいなもんだった。だから、紙の容器に満たされたスープをプラスチックのスプーンで食べ、ゴミ箱へポイ捨てする姿は衝撃的だったのだ。
 もうひとつ、百福さんの印象に残ったのは、商談の際の試食の光景だった。ほとんどの場合、商談相手は紙コップにチキンラーメンを砕いて入れ、それにポットの熱湯を注いで、フォークで食べ始めたんだ。
 チキンラーメンを使い捨ての容器で提供し、フォークで食べられるようにすればいいんじゃないか。こんなことを夢中で考えていた折も折、帰路の飛行機で百福さんは機内食として配られたマカダミアナッツの容器に出会って、
カップヌードル2.jpg「これだ!」
 って膝を叩くことになる。浅底の丸い紙容器にアルミ箔製のフタが糊付けされたマカダミアナッツ。百福さんはポケットに入れて会社に持ち帰ったんだけど、これこそが数年後にカップヌードルのひな形になるんだ。その時の容器は。今でも日清食品が大切に保管してるよ。
 容器を発泡スチロール製にした理由は何となく分かるよね。軽い上に断熱性が高く、お湯が冷めにくくて、手に持っても熱くないからだ。
 じゃあ、容器の形はどうしてああなったと思う? これは「片手でもおてて座りがよく、手から滑り落ちない形」という百福さんのコンセプトに基づいて40種類余りの容器を慎重に吟味した結果、紙コップを大きくしたような現在の形状がベストなことが分かったからなんだよ。
 もちろんこれで固まったのは基本コンセプトのみ。これを製品化するには、次々に押し寄せる難問をため息をつきながら乗り越える地道な努力が必要だった。これを丹念に書くと本が出来ちゃうぐらいだからここでは紹介できないけど(笑)、どうすれば厚さ6センチの麺の塊を均一に揚げることが出来るのか、輸送中のショックで麺が粉々にならないようにするにはどうしたらいいのか、具は何を入れ、どんな乾燥法を採用すればいいのか等々、ゼロからレールを敷く試行錯誤の末に製品化にこぎつけた何もかもが独創的な食品だったのだ。
 モノは出来た。でも最後の難関となったのが100円という売価だった。だって当時のインスタントラーメンは1袋25円っていうのが相場。その4倍もするラーメンに飛びつくはずがないだろうというのが一般的な見方で、事実、食品問屋さんからは総スカンを食ってしまって、営業的にはハナっから危機的な状況に陥っちゃった。
 でも百福さんは、ここでも意地をみせる。
「これからはいろんなものが100円の時代になる。しかも100円であってこそ多くの人が注目してくれるはずだ」
 そこで経営陣が始めた新規の営業に最初に応えてくれたところが面白い。なんとカップヌードルの価値に真っ先に気付いたのは自衛隊だったんだよね(笑)。これに力を得た経営陣が本格販売をスタートさせたのは、これまたビックリのデパ地下だった。そうなんだよね、百貨店の食品売り場だったら100円はそう高く感じないじゃん! 思惑通り、高値感が災いすることなく高評判が先行してカップヌードルは極めて順調なスタートを切ることが出来た。同時に問屋に頼らない営業も功を奏してレジャー施設やホテル、高速道路のサービスエリア、夜勤の多い警察や消防署、駅の売店、自販機、銭湯、パチンコ屋の景品等々、それまでにはなかった販路が次々に開拓されていったのだった。
カップヌードル3.jpg イメージ戦略も鋭かった。何をやったかというと、当時注目を浴びていた銀座の歩行者天国でデモンストレーション販売をやらかしたのだ。人の溢れる年末のホコ天で百福さんが陣頭指揮をとる特設売り場にはたちまち長蛇の列が出来、特に報道や口コミで評判の行き渡った3回目の販売ではわずか4時間で2万食を売り尽くすという驚異的な記録を叩き出した。
「お湯さえあれば、いつでもどこでも」
 カップヌードルはその後たちまち日本を席捲し、今では80ヶ国以上の国で消費される世界的な食品となっている。市場をみつめる確かな観察眼と、なにものにも囚われない柔軟な開発力と営業力。不況と閉塞感に喘ぐ現在の日本に安藤百福さんが遺してくれたものはチキンラーメンとカップヌードルだけではなさそうだね。


■カップヌードルのCM 発売当初の1971年■



■カップヌードルのCM トム・ソーヤー編 1986年■



■カップヌードルのCM Hungry?編 大貫卓也は凄いですねぇ! 1992年■



■カップヌードルのCM 20世紀 ゴルバチョフ(with 永瀬正敏)編 2000年■



■カップヌードルのCM NO BORDER 希望編 2004年■


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ぼんくら(BlogPet)

ぼんくらオヤジは、フォローするはずだったみたい。

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

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