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万国旗ってなんやねん!? [その他]

万国旗.jpg 今日は飛び込みで用事が入っちゃったので小ネタをひとつ。
 実は子供のころからずっと気になってることなんだけど、『万国旗』って何なんだろう? 調べてみても、これが意外に分からない。現時点で唯一説得力があるのは、慶応3年(1867)から日本が参加を始めた国際博覧会の会場で参加国の国旗が飾られていたことから、イベントやお祭りの際にヒモに各国の国旗を連ねたものを飾りとして使うようになったのではないかという説だ。
 つまり現在でもオリンピックや国連なんかでズラリと各国の国旗がポールに掲揚されているのを、ヒモ+各国旗で再現したってことになる。ということは日本独自の飾り方ってことになるわけなんだけど、これがどうもそうじゃないんだよね。ネットで確認できるだけでも、韓国やスウェーデンで日本と同じ飾り方をしているみたいで頭が痛いんだな^^; 韓国をはじめとする東南アジアの国々だけなら、第二次政界大戦前に日本が輸出(強制?)した文化の名残だって考えられるんだけど、事はそんなに単純じゃないみたい。
 もし運動会で見かけるヒモで吊るす万国旗を外国で見たことがあったら、ぜひ教えてね♪ もちろん、些細いなことでも構わないから、ほかに知ってることがあったらこれも是非!


■そういや手品でも万国旗はお約束のアイテムでした^^■



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入院とフルーツバスケット [その他]

 バカバカしい話だけど、元気な子って病気に憧れない?(笑)
 ぼんくら少年は小児喘息は抱えていたけど、2年間の福島の生活が幸いしたのか、東京に戻った小5の頃には病気とは全く無縁の子供になっていた。喘息が酷かった頃には、登下校時に友達が立ち寄ってくれた時なんか、嬉しかったり寂しかったりで大泣きして我が身を呪ったのに、いざピンピンに元気になると、病気がちな友達がなんだかカッコいい子に見えたりするんだよね、いやホントに^^;
フルーツバスケット1.jpg たぶん不治の病に冒された子供たちが悲劇のヒロインやヒーローとして描かれてるテレビドラマや映画を観たからなんだろうね。そういう子供たちに高級感を感じていたものと思われ(なんか書いててアホらしくなってきた)。
 こーゆー妄想を増幅させる幼馴染みがいたのもイケなかったね。Nっていう先天性の心臓疾患を抱えた友達がいて年に何度も入退院を繰り返していたんだけど、こいつが今でいうジャニ形のイケメンでね。親は世田谷杉並で手広く不動産業を営む資産家だし。しかも最悪なことに、Nってとってもいいヤツだった(笑)。
フルーツバスケット2.jpg 病院が西新橋だったのでそう頻繁には行けなかったけど、ぼんくら少年たちは週末になると足繁くお見舞いに行っていた。ま、なんて美しい友情なんだろう。
 なのに、だ。ぼんくらたちが病室にゾロゾロ入ってきても、半身を起こしてマンガを読んでいたNはチラッと顔を上げただけで再びマンガに目を落としちゃう。Nは失礼なヤツでもある。仕方がないから、こっちも挨拶代わりにNのほっぺたを引っ張ったり脇の下をくすぐったりすると、
フルーツバスケット3.jpg「止めろ~。分かったから好きなのを持ってけ!」
 とワケの分からないことを言う。ぼんくら少年たちがNの言葉で視線を向けた先にあったもの、それはサイドテーブルを飾るフルーツバスケットだった。ラップに包まれたバスケットの中には、リンゴやオレンジ、そして当時は高級品だったバナナやパイナップルがぎっしりと入っていた。時にはマスクメロンなんかも入ってたっけ。親が金持ちだったからだろうね、見舞客もハイソな人が多かったんだろう。ぼんくら少年たちがあらかた略奪しても、翌週には新たなフルーツバスケットが置かれていた。
 もちろん、ちゃんと遊んであげたよ(当たり前)。楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、付き添いのお母さんやおばさんがバスケットのバナナやオレンジを一つずつ渡してくれる。「もう帰りなさい」」という合図だ。
フルーツバスケット4.jpg「N、また来週な!」
「も~来るなぁ」
 そう言いながら、寂しそうに手を振るNを残して病室を去ると、病院の中庭で早速、収奪品にパクついた。
「Nって死なないよね」
「バカっ、そんなワケないだろ! あいつ、カッコいいし」
「カッコいいヤツって危ないんだぞ。テレビで観たし」
 なんてどーしようもなく意味不明な会話を交わしながら。
 結局、神様はぼんくら少年たちからNを奪おうとはなさらなかった。大小十数回の手術を経てNは普通に遊べる"高級感のない子"になれたのだ。その代わりに、フルーツバスケットは持っていっちゃったけどね(笑)。


お知らせ: お友達のナンさんが病気を羨ましく思う子供の気持ちをホントによく捉えた絵本を紹介してくださっています。もし興味がおありでしたらぜひご覧になってみてください。楽しいですよ^^ Komorebi House: 『あたしもびょうきになりたいな!』 http://baniyan.jugem.jp/?eid=223
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「ありがとう!」の気持ちを込めて [その他]

感謝1.jpg あるブロガーさんから「おめでとう!」というメッセージを頂いて気付きました。訪問者数のカウンターが10万アクセスを超えていたのです。既にページアクセス総数はしばらく前に10万を超えていたので意識から外れてしまっていたのですが、本当に意味があるのは訪問者数のほうでしたね^^; キリ番のプレゼント企画も何もせずに申し訳ありませんでした。次は何かを考えておきますね♪
 失業で持て余した時間を「せっかく授かった時間なのだから」と、ふとした気まぐれでブログを始めたのが6月のことでした。
感謝2.jpg あれから早、半年近くが過ぎました。この間にぼんくらが頂いた恵みは計り知れないものがあります。何よりも皆さんのような…、いや、この言葉は嫌いです。貴方のような大切な友人と巡り逢うことができました。
 お目にかかったことはなくとも、貴方はぼんくらと同じ遊びをし、同じお菓子を食べ、同じマンガやテレビを見ながら育ち、大人になり、そしてこの不況下で共に懸命に日々を過ごす幼馴染みなのです。ぼんくらと世代を異にする昭和生まれの貴方は、ぼんくらの兄姉、そして父母であり、弟妹です。ぼんくらにとっては昭和という時間軸を共有したかけがえのない存在です。平成生まれの貴方は、ぼんくらの愛しい子供であり、過去から引き継がれてきたバトンを渡すに相応しい輝ける存在です。ぼんくらがこのブログによって授かった最大の恵みとは、この「気づき」でした。
 また、昭和を具体的にひとつひとつ掘り返していくうちに知った気づきもありました。それは平成の日本人が抱える心の飢えと貧困に関わるものです。
感謝3.jpg マザー・テレサは真の飢え、真の貧しさについて、こう言っています。

 神は飢えている人、病める人、裸の人、家のない人のなかにおられます。飢えといってもパンがないためだけでなく、愛、思いやり、だれかの"あなた"でありたいことの飢えなのです。また裸といっても服がないだけのことではなく、見ず知らずという理由だけで、優しい心づかいを示してもらえない意味での裸であり、家がないというのは、石で造った家だけでなく、自分を招き、受け入れてくれる人を持たないゆえの家なしなのです。

 宗教的な匂いが嫌いだったらごめんなさい。でも、日本が経済的に貧しかった頃を知る貴方なら、物質的・経済的に豊かになった日本人が失ったもの、そして何よりも自分自身の飢えの源をマザーの言葉に見いだすことでしょう。
 昭和という過去を振り返ることを安っぽいノスタルジーや非生産的な行為と見なす思考様式から、そろそろ自由になりませんか? 平成の今が抱える恐ろしい心の飢えや渇きは昭和生まれがもたらしたものかもしれませんし、あるいはそうでないかもしれません。ですが、それをどうにかできるのは、たぶん昭和生まれのボクらなんじゃないでしょうか。
感謝4.jpg 現代にはびこる成果主義という病からすれば、こんな提案は時の流れに抗う無意味な時代錯誤に過ぎません。でも、ドンキホーテでいいじゃないですか(笑) 実のあるプライドを保つこともできるし、第一、面白いじゃないですか!
 未だにキラキラと輝く20世紀少年の貴方よ、20世紀少女の貴方よ、貴方に会えて本当によかった。貴方が声をかけてくださったから、ぼんくらはこうして笑顔で今日を過ごすことができるのです。
 どうか、これからも良き友人であってください。


感謝5.jpg     10万アクセスの節目に感謝を込めて               ぼんくらオヤジより  




■「風の旅人」 大貫妙子 言葉にならない思いはこの歌に託します♪■




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ちゃぶ台返しの真実 [その他]

ちゃぶ台1.jpg 昭和といえばマンガ。マンガといえば巨人の星。巨人の星といえば星一徹。星一徹といえばちゃぶ台返しだよね。今日はちゃぶ台のお話だよ(無意味に長いフリだな^^;)。
 今や日常生活ではほとんどお目にかかれなくなったちゃぶ台だけど、平成の世になってからも人々の記憶から消え去る気配がないし、古いだ死語だと邪険にされないのはどうしてだろうね。
 ちゃぶ台は脚を折りたためる四脚式木製テーブルの総称だ。円形をすぐに想像しちゃうけど、楕円や四角もあるからね。ちゃぶ台の『ちゃぶ』は漢字で『卓袱』と書き、中国語でテーブルを意味するんだよ。
ちゃぶ台2.jpg いつから使われるようになったのかは諸説あって定かじゃない。ただ江戸時代までは、みんなで一つの卓を囲んで食事をする習慣はなかったので、明治以降に登場したのは確かだ。どうも文献上では明治10年(1877)頃からちゃぶ台の名が現れ始めている由。明治40年(1907)には小説にも登場するらしいんだけど、残念ながらなんの小説かは現時点で確認が取れていない。それでも明治末には主に都市部で既に普及していて、大正時代には全国に広まったというのが、文化史では一般的な見解のようだ。
 ちゃぶ台の形状と機能は、日本家屋の在り方と深い関係がある。従来の日本家屋は部屋の用途が特定されていない。例えば日中に居間として使われている部屋が、夜には寝室に化けるといった具合だ。なので家具は簡単に、しかも場所を取らずに収納ができる必要があって、ちゃぶ台のような機能が求められたのだ。
 ちゃぶ台のもう一つの特徴は、多目的だということだ。食卓として使われた後はお菓子やみかん、お茶の載る団らんの舞台となり、ある時には子供たちの勉強机に、またある時には母親の針仕事に使われるという、いってみれば一家団らんを象徴する存在だったのだ。
ちゃぶ台3.jpg ところで今やアーケードゲームにもなっている『ちゃぶ台返し』だけど、星一徹は本当はちゃぶ台返しなんてやってなかったんだよ。知ってた? アニメのエンドロールで一徹が飛雄馬をブン殴るシーンがあって、その時にたまたまちゃぶ台がひっくり返るわけなんだけど、どうやらこれを何回も見せられているうちにボクらが星一徹=ちゃぶ台返しのイメージを作りあげてしまったものらしい。ボクらの記憶も相当にいい加減なもんなんだね(笑)


■ゲーセンの「超ちゃぶ台返し!」 ストレスの溜まってる人、面白いよ♪■



■ちゃぶ台返し by うさぎさん■


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足踏みオルガン [その他]

オルガン1.jpg 先日、小学校の授業参観があってね、ぼんくら次男のことはすっかり忘れて教室をキョロキョロと見回してたんだけど、教室にあるものって、基本はボクらの頃とホントに変わってないんだね。ちょっとガッカリしたのは足踏みオルガンがなかったことかな。脚のないシンセサイザーのようなキーボードが先生の机の上に乗ってるだけだった。
 ぼんくら少年は、やんちゃ坊主のクセにピアノとオルガンを習っていて(正確には習わされていて)、クラスで歌を歌う時なんかは直ぐに伴奏の役目が回ってきたもんだから、学校の足踏みオルガンには格別に思い出があったんだよね。それにしても教室のオルガンは安普請だったなぁ。リードに空気を送り込むふいごから空気が漏れていたようで、もの凄い勢いでペダルを踏まないと音が続かないんだもん。夏なんか弾き終わると汗だくだった(笑)
オルガン2.jpg オルガンは自宅にもあった。これは学校のオルガンとは違って、様々な音を作るストップと呼ばれるスイッチの付いた本格的なものだった。父の書斎に置いてあって、父は気分転換によくカトリックの聖歌集やフランクのオルガン曲を弾いていた。少年時代にベルギー人の神父様から教わっていたという父の演奏は確かに上手く、ぼんくら少年がせがめばどんなに忙しい時でも仕事の手を休めてリクエストに応えてくれた。煙草臭く薄暗い部屋で床に座り込み、オルガンにもたれかかって鍵盤に向かう父を見上げながら、ボウっと音楽に身を委ねる一時は本当に幸せだった。
 この足踏みオルガン、正式には『リードオルガン』または『ハーモニウム』という。ただしアメリカではふいごの種類によってリードオルガンとハーモニウムを区別する場合もあるよ(以後はリードオルガンとするね)。
 元祖リードオルガンと呼べる楽器は1810年にドイツで制作された『エオリーネ(Aeoline)』という楽器で、その後は西ヨーロッパやアメリカで続々と類似の楽器が製作され、最終的には伝説的なパイプオルガン職人のカヴァイエ・コル (Aristide Cavaillé-Coll, 1811-1899) によって室内用オルガンとして完成した。フランクやサン・サーンス、リストのリードオルガン曲があるってことは、リードオルガンが当時、それだけ注目されていた楽器だったってことでもあるよね。
オルガン3.jpg 日本には、開国と同時にキリスト教宣教師がリードオルガンをえっさえっさと海を越えて持ち込んだのが最初だ。その後は、唱歌教育を目的として国による国内生産が大いに奨励され、明治から戦前にかけての国内生産台数は軽く100万台を突破することになった。オルガンが小学校の教室に標準配備されたのは恐ろしく早い時期だったのだ。ヤマハやカワイといった今や世界に冠たる楽器メーカーがリードオルガンの製造を基として発展したことを考えても、開国後の日本にとってリードオルガンがどれほど重要な役割を果たしたのかが分かるよね。
 前世紀の前半にピアノの生産技術が飛躍的に進歩して大量生産が始まり、室内用リードオルガンは世界中から姿を消していく。日本でも昭和50年前後には、教室のオルガンのほとんどは電子オルガンになっていた。現在ではわずかにプロテスタント教会の礼拝用オルガンとして使われているだけだ。


■「女学生」 日本のリードオルガン演奏家佐藤泰平さんの演奏です■



■セザール・フランクのリードオルガン曲 ぼんくらオヤジの父がよく弾いてました■



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「バタンキュー」って何よ? [その他]

バタンキュー1.jpg 今朝の名古屋は快晴だった。さわやかな外気に触れながらベランダで洗濯物を干していたら、介護施設で働いている愛妻ぼんくらオバンが夜勤を終えて帰ってきた。
「あー、疲れたぁ! 入居者さんが転倒しちゃって救急搬送する騒ぎがあってさぁ、全然休憩できなかったよ。もう今朝はバタンキュー」
 失業中のぼんくらオヤジに代わって家計を支えてくれているぼんくらオバンの労をねぎらいながらも、『バタンキュー』という言葉がグルグルと頭の中を回りだした。昭和世代なら知らない人はいないフレーズなんだけど、一体、いつ、誰が流行らせたんだろう?
 意味から考えても、これが『バタン』と『キュー』、つまり疲労のあまりバタンと倒れてキューと動けなくなるって要素分解ができるんだけど、だから何だよ(怒)←誰に怒ってんの^^;
 とゆーワケで調べてみたんだけど、惨敗でしたっ! いくつかの説はあるんだけど、決定打がないんだよね。もし「知ってるよ」って人がいたら教えてね。せっかくだし、ヒントになるかもしれないから、最有力候補を紹介するね。
 ぼんくらオヤジもこれじゃないかと思ってるのが「エンタツ・アチャコ起源説」だ。「教えて!goo」に寄せられた質問に対する回答で(出典:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa62496.html)

横山エンタツ-花菱アチャコ(上方漫才)の戦後の映画で金の無い復員姿の役を演じたとき使ったギャグです。(復員:敗戦時の引揚兵)その当時闇市で安くカストリ(密造焼酎)を飲ませていた店には、工業用の淡いピンク色のメチールアルコールを混ぜた粗悪品があって知らずに呑んで死んだ人の新聞記事が連日のように出た時代がありました。~で、彼らのギャグでは、カストリを飲むと「バタン-キュー」とイカレテ死んでしまうものと、うまく生き延びた方はシャックリをするたびに首が横に傾げるというもので、エンタツの首のギャグは当時の悪餓鬼どもの間で大流行したものです。・・・ですからバタンキューを、特に[カタカナ]で表現すると言うものでもないのですが、際立たせたくもなるでしょう。

バタンキュー2.jpg というものだ。なるほど~、偽カストリを飲んで死んでしまう様子という説明も、当時の子供たちがこの映画を真似て遊んでいた様子も説得力がある。ただ残念なことに肝心の映画が特定できない。エンタツ・アチャコの映画リストであたりをつけようと思ったんだけど、タイトルや制作年からは何の手がかりも得ることができなかった。もしこの辺に詳しい人がいたらヒントでもいいから教えて! 
 この説以外は個人の憶測にすぎず、ここに挙げるまでもないものばかりだ。
 辞書では意味の説明に終始していて、例えば広辞苑では、バタンは「倒れる音」で、キューは「圧迫されたり責め立てられたりして発する苦しみの声」、バタンキューは「寝床に入って直ぐに眠り込むこと」と記されているだけで、出所についての記述はない。
 面白いのが、九州工業大学の村田忠男教授が『月刊言語(2001年8月号)』に寄せた『笛はなぜ「ひゃらぴー」と鳴らないのか』で、バタンキューをオノマトペ(擬態・擬声・擬音語)の観点から解いている次の下りだ。

バタンキュー3.jpgばたんきゅう」の場合には、「ばたん→きゅう」と「時間」の優越性でそれぞれの要素の順序が決定したものと解釈され、同種の例としては「すってんころり」「どんぴしゃり」「ぴかどん」などが挙げられますが、日本語でも意味条件に「時間」の要素の有るオノマトペ例は少なく英語には一例もないそうです。

 日本語は2000を超えるオノマトペを有する味わい豊かな言語だ。その日本で生まれた『バタンキュー』は、昭和の生み出したオノマトペの傑作なんじゃないだろうか。これを平成生まれにバカにされたからといって自重したり、自ら死語だと葬り去るのはモッタイないかもよ。


■エンタツ・アチャコの至芸をどうぞ♪■



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『メンソレータム』と『メンターム』 [その他]

メンソレータム1.jpg ぼんくらオヤジは、子供の頃から『メンソレータム』を愛用している。正確に言うと、今では『メンターム』の愛用者なんだけどね。
 外で遊んでいる時間が長かったからか、夏は日焼けや汗疹に、冬場はしもやけやあかぎれ、リップクリームにと大活躍だった。髭を剃るようになってからは剃った後のスキンケアに毎日、使っている。もっと気の利いたローションはたくさん出てるんだけど、こういうことは保守的というか何というか(笑)
 メンソレータムの主成分はメンソールとペトロレータム(ワセリン)。実にシンプルな薬品だ。名前の由来も成分名を切り貼りしたもので、これまた分かりやすい。アメリカのメンソレータム社が明治27年(1894)に開発し、メンソレータム社や同社とライセンス契約を結んだ会社が製造・販売していた塗り薬の商標だったんだけど、昭和50年(1975)にロート製薬がメンソレータムの製造・販売権を取得し、さらに昭和63年(1988)にメンソレータム社を買収して親会社となった結果、商標と経営権もロート製薬のものになった。
「あれぇ、じゃあメンソレータムってロート製薬が国内生産を始める前はアメリカで作っていたものを輸入してたの?」
 そう思うかもしれないけど、そうじゃないよ。昭和49年(1974)までは近江八幡に本社のある近江兄弟社が作っていたんだ。
 近江兄弟社は、お茶の水の「山の上ホテル」の設計をしたことでも知られるアメリカ人建築家で実業家のウィリアム・メレル・ヴォーリズによって、大正9年(1920)に「近江セールズ株式会社」としてスタートした。近江兄弟が創業者って思う人がいてもムリはないんだけど、社名は地名の近江と「人類皆兄弟」の精神によるものだ。
 ヴォーリズが熱心なプロテスタントのクリスチャンだったこともあって、同社の活動と経営理念は実にユニークだ。企業理念にしてからが驚きで "Operations on Mission Industry"。資本主義社会では当たり前の「利潤追求」ではなく「信仰と事業の両立」をどう実践していくのかが至上命題の会社なのだ。皮膚薬の老舗として堅実な利益をあげながら、病院、老人保健施設、学校などを経営しているのはそのためだ。
 でも、こうした経営がラクに行えるはずもなく、必死の努力も空しく昭和49年(1974)には倒産。創業以来、同社の基軸だったメンソレータムの製造・販売権を返上せざるを得なかった。その後、大鵬薬品工業の資本参加などで再興を成し遂げたんだけど、時既に遅しでメンソレータムの商標はロート製薬のものになってしまっていた。そこでメンソレータムの製造設備を利用し、処方が多少違っているだけで主原料や効能はほとんど変わらない「メンターム」を製造販売して現在に至っている。
メンソレータム2.jpg マスコットが「リトルナース」のメンソレータムと「メンタームキッド」のメンターム。双子と言ってもいい商品だけど、ぼんくらオヤジは現在、メンタームを使っている。利潤追求を宿命としない企業があってもいいと思うし、そうした企業が存立できるかどうかは宿命や原理などによるものではなく、消費者の意識と支援の有無によっていると思うからだ。今や宗教のように信奉されている自由主義経済へのバカな抵抗さっ。


■近江兄弟社ってこんな会社です♪■



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母のアイテム - 裁縫箱 [その他]

裁縫箱.jpg 子供の頃って、意味もなくいじりたい道具や機械があるでしょ? ぼんくら少年は人一倍、好奇心が強かったので、こうしたものは身の回りにワンサとあった。父の持ち物は言うまでもなく、母が日々使っている道具の中にさえ息子の餌食になるものがいくつかあったのだ。
 そのひとつが『裁縫箱』だ。それも今のようなバスケット型のものではなく、今ならさしずめ民芸家具を思わせる和風の小物入れで、普段は押し入れの中にしまってあった。
裁縫箱2.jpg 何といっても子供心をそそったのはズラリと並んだ小引き出しだ。引き出しを開けると、ボタンやスナップ、糸、ゴムひも、針、ピン、待針、指ぬき、丸刃ルレット、S目打、アイロン定規、三角チャコやチャコペン、糸切りはさみ、かけはり、絎け台、メジャー、ひも通し、糸通し、へら、リッパー、布切り鋏といった細かいアイテムが次々に顔を出す。針と糸以外は、何に使うのかも皆目見当のつかないものばかりだったけど、カラフルで様々な形状の道具は見ているだけで楽しかった。
裁縫箱4.jpg 特に箱の天辺は天板の半分が二つ折りに開いて、開かないほうの奥に隠れるように引き出しがついていたりして、とてもワクワクする部分だった。別に特別なものが入ってるわけじゃなかったけどね。
 一度、この「秘密の引き出し」点数が異様に悪かったテストの答案を丸めて隠したことがあったんだけど、その日の晩には見つかって大目玉をくらったことがある。当時は何で見つかっちゃったんだろうと不思議に思ったけど、バカもいいところだよね^^;
 おばあちゃん(母の母)の形見だからと大切にしていたはずだったんだけど、現在の隠居場に越した時には既に姿が見えなくなっていた。訊いたら、叔母に譲ったとのこと。そういえば、ぼんくら少年が中学生の頃には、裁縫箱は今風のバスケットになっていたっけ。いつ姿を消したのかも気が付かずにいたくせに、突然思い出して懐かしがるなんて、我ながら呆れたもんだ。


■裁縫箱に興味を持つネコ ぼんくら少年と変わらないことをしてます^^;■


■裁縫とネコ やっぱりぼんくら少年が母にしたのと同じちょっかいを出してます^^;■


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タグ:裁縫箱
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サトウのサトちゃん&サトコちゃん [その他]

サトちゃん1.jpg 商店街で、薬局の入り口ほどいろんな人形が置いてあるところもなかったよね。今回はその中のオレンジのゾウさんにスポットライトをあてるよ♪
 ご存知、サトウ製薬の『サトちゃん』だ。オレンジ色のサトちゃんは昭和34年(1959)生まれだから、ぼんくらオヤジと同い年だ。サトちゃんという名前は公募で決まったんだよ。
サトちゃん2.jpg 原型となるゾウのイラストは昭和30年(1955)に登場していたんだけど、会社のシンボルになったのはサトちゃんになってからだ。なんでいろんな動物の中からゾウが選ばれたのかというと、ゾウの平均寿命は70~80才、中には100才を超えるゾウもいて、とてもヒトに近く、しかも長生きの動物だからだそうだ。子供たちから大人まで好感度も高いしね。
サトちゃん4.jpg 東京オリンピックのあった昭和39年(1964)に、サトちゃんは『サトちゃんムーバー』という動く遊具に変身し、子供たちの注目を浴びることになる。わざわざデパートの屋上に行かなくても、近所の薬屋さんに行けばお小遣いで乗れるムーバーがあるんだもん。これは子供の世界にとっては革新的な出来事だった。
サトコちゃん.jpg さらに昭和57年(1982)には、サトちゃんにとって嬉しいイベントが発生する。ピンク色のゾウ、妹の『サトコちゃん』が生まれたのだ。歳の差23才の妹とは親も随分と頑張ったものだけど、まあいいか^^; ただしサトコちゃんが店頭デビューを果たしたのは平成7年(1995)年で、販促グッズのミニチュア人形に甘んじるという下積み期間が13年間もあったという苦労象でもあった。平成9年(1997)には『サトコちゃんムーバー』も誕生し、今やサトちゃんと並ぶ不動の地位を確立している。サトちゃんが健康のシンボルなら、サトコちゃんは長い下積み生活からにじみ出る優しさのシンボルなのだ。
 現在のサトちゃんとサトコちゃんは平成12年(2000)に登場したミレニアム人形で、とくにサトコちゃんは四季折々のコスチュームでお客さんをお出迎えしてくれているよ。時々、注意して見てみてね!


■サトウの薬の横で飛ぶサトちゃんだよ♪ 歌詞と楽譜はこちら



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父のアイテム - エヂソンバンド [その他]

エヂソンバンド1.jpg ぼんくら少年は、机に向かう父の奇妙な姿をしばしば目撃していた。キミョーとはいっても別にパンダの着ぐるみを着たり女装していたわけじゃないよ。頭に不思議なベルトを巻きつけて仕事をしていたんだ。
 ベルトは持ってみるとずっしりと重く、額に当たる部分には1.5センチ角ぐらいの白く光沢のあるタイルがワイヤでずらりと繋がれていた。何故こんな重たいものを付けているのかと尋ねると、
「蓄音機やテレビの真空管が熱くなり過ぎると調子が悪くなるだろう? 車やバイクだってエンジンが必要以上に熱を持つと動かなくなっちゃうのは知ってるよね。人の頭だって一緒なんだよ。頭をフル回転させてると頭がカッカとしてきてボーっとしてくる。だからこれで冷やしながら仕事をしてるんだよ」
 と言っていた。おねだりして付けさせてもらったこともあったけど、重たいわベルトはずり落ちるわでチィとも気分のいいものじゃなかった。
 このベルト、メーカーによって名前はバラバラだったようだけど、一般には『エヂソンバンド』と呼ばれていた。エジソンの発明になるものなのでエヂソンバンドなのだという説明も見受けられるけど、これはどうも怪しい。というのは、いわゆる頭寒足熱をうたった発明品はエジソンの特許には見当たらないからだ。強いて言うなら、形状がいちばん近いのは明治23年(1890)に特許を取っているマグネット・ベルト(pat.457,343)だ。
エヂソンバンド2.jpg 能率研究會なるメーカーが販売していた『科學的健康器 エヂソンバンド』の広告には、確かにエジソンと思しきお爺さんが父のしていたものと同じベルトを付けた写真が載っている。あ、言っとくけどこの写真の真偽のほどは現時点では未確認なので承知しておいてね。つまりエヂソンバンドが仮にエジソンの発明になるものなら、磁気で頭脳の働きを活性化する器具だということになるんだけど、少なくともエヂソンバンドで磁気をうたっているのを確認できたのは教育資料社という会社の『ノーベル磁気健脳器』ひとつだけだ。
 それ以外のエヂソンバンドの広告では全くメカニズムについての説明がないので推測のしようもない。例えば、先に紹介した能率研究會の広告は次のような文章になっている。
 
朝夕十分間の使用で頭脳明快 記憶力増大
頭脳を二倍三倍に使へる

世界の発明王エヂソン翁が生涯愛用された「エヂソンバンド」こそは現代人の必携すべき頭脳の糧、活動の源泉です。日常これを用ふれば頭が冷静になつて記憶力が二倍三倍も増進します。現代は徒らに頭脳を酷使して心身を過労さすのは愚の骨頂です。恐らく科學的に合理的に経済的に頭脳を用ふる者こそ最後の勝利者です。エヂソンバンドはその目的を果す新發明品であります。

成功の女神は健全なる頭脳に宿る

エヂソンバンド3.jpg エジソンが愛用したことにはなってるけど、発明したとは一言も書かれていないし、ましていちばんの売りとなるはずの磁気については全く触れていない。ひとつ面白いのは、類似品が少なからず出回っていたようで「ニセ物ご注意」の文字が躍っている。でもね、よしんばエジソンの発明だったとして、特許料はちゃんと払ってたんだろうね! 広告に特許についての記載は全くないけどさっ。
 何だかよく分からないエヂソンバンドは、昭和30年代に主に受験生の間でもてはやされたものの、昭和40年代には既にすっかり忘れ去られていたようだ。父のエヂソンバンドも、ぼんくら少年が小学校の高学年になった頃には押し入れの中で錆び付いていた。蛇足だけど、磁気で脳が活性化するかというと、少なくとも磁力で血球が向きを変えることは確かで、それによって血流が変化することはあり得るそうだ。ただしこうした現象を起こすには、ピップエレキバンなら100個は貼らないとダメなそうだよ。不謹慎かもしれないけど、仏様の頭はパンチじゃなく、これかも(笑)。


■エジソンの演説 1927年■



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