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フリスビー (フライングディスク) [その他]

ウォルター・モリソン.jpg 今月の9日、フリスビーの生みの親として知られていたウォルター・モリソンさんが90才で亡くなった。
 フリスビー(Frisbee)というのはワーム・オー社の商標で、一般名はフライングディスク。
 1940年代の後半にイエール大学の学生がフリスビー(Frisbie)・パイ・カンパニーのパイ皿を投げて遊んだのが起源とする説が方々で採用されている。日本語Wikiも然り。ワーム・オー社が綴りを一字変えて商標登録したのは、どう考えてもフリスビー・パイを念頭に置いての措置だし、第一、そこまでして「フリスビー」という名が欲しかったのは、この説が正しかったという証左であるような気もする。
フリスビー1.jpg 解せないのは、一般にフリスビーの発明者とされているモリソンさん自身がまったく違う主張をしていることだ。彼が言うには、昭和12年(1937)に、後に奥さんとなるルーさんと海辺で遊んでいた時に、ポップコーン缶のフタを投げると、一定の方向に安定して飛んで行くことに気付いたんだそうな。ただこのフタは強度が乏しく、遊んでいるとすぐに変形して飛ばなくなっちゃう。そこで思い付いたのが金属製のケーキの型で、これは強度も飛行の安定度も抜群だった。
 当時、建築物の検査官をしていたモリソンさんはルーさんと一緒にケーキの型を改良した遊具を商品化して "Flyin' Cake Pans" という名前で売り出したんだ。サイド・ビジネスだったし、その後の第二次大戦にモリソンさんが出征することになったりで、結局 "Flyin' Cake Pans" が日の目をみることはなかった。
 終戦後の昭和21年(1946)、モリソンさんは世界初のフライングディスクと公式に認められている "Whirlo-Way" のデザインを描き、これが昭和23年(1948)に "The Flyin-Saucer" という初のプラスチック製フライングディスクとして発売された。モリソンさんがフライングディスクの発明者とされるのはこのためだ。
フリスビー2.jpg モリソンさんとルーさんは更に改良を重ね、昭和30年(1955)には "Pluto Platter" と呼ばれるフライングディスクをデザインする。これが後に様々なベンダーによって現在まで供給されているフライングディスクの原型になったんだよ。昭和32年(1957)に2人は "Pluto Platter" の販売権をワーム・オー社に譲渡し、ワーム・オー社は昭和33年(1958)に「フリスビー」と改名して大々的に販売を開始。現在に至るまでに世界で売れたフリスビーは2億枚を越え、単なる流行ではないスポーツとしての地位を確立したのだった。
 フリスビーが日本に上陸したのは1960年代の末だったんだけど、この時はまったくブームにならなかった。業を煮やした輸入業者は、昭和50年(1975)に名古屋の広告代理店「新東通信」の谷喜久朗(現会長)さんに広告を依頼。谷さんは「フリスビー全国キャンペーン」なるものを開始する。
フリスビー4.jpg 谷さんの手法はユニークだった。昼休みになると社員を引き連れて栄の公園に出向き、フリスビーを投げ合って遊んだんだよね。口コミなんて概念もなかった頃の戦略なんだからスゴいや! もちろん遊ぶ時のファッションを考案して売り込んだり、「およげ!たいやきくん」で絶好調だった子門真人さんに『ガッツフリスビー』という曲を歌ってもらったりとPR活動にも力を入れたよ。
フリスビー5.jpg 直接的な火付け役になったのはNET(現テレ朝)で放送されていた『せんだみつおのジョイジョイスタジオ』に設けた『ガッツフリスビー』という10分枠のコーナーだった。視聴者参加型のコンペをやったり、当の谷さんが「フリスビー評論家」なる怪しげなスタイルで登場して遊び方や上達のコツを伝授した結果、フリスビーは瞬く間に知名度を上げ、社会現象と言えるまでになったのだった。
 その後、盛衰を繰り返しながらも、フリスビーは国内でも150万人もの愛好者を擁する立派なスポーツに成長した。なんと150を越える学校の授業にも採用されてるんだよ。あ、人だけじゃなく愛好犬もいるんだよね。その話はいずれまた^^;



■スポーツとしてのフリスビーです。結構、激しいなぁ!■

http://www.youtube.com/watch?v=8dqrMxsDCfQ



■ワンちゃんのフリスビー 技も見事だけどホントに楽しそうで感動♪■

http://www.youtube.com/watch?v=JnsOORuRB-M



■フリスビーのパフォーマンス 人も犬に負けてませんねぇ^^■

http://www.youtube.com/watch?v=dYVxGABODEE


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昭和の謎 - コップの水でスプーンを濡らす習慣 [その他]

ワンタッチカレー.jpg ホントはグリコの『ワンタッチカレー』を取り上げるつもりだったんだけど(笑)。まあ、ちょっと付き合ってね♪
 グリコのワンタッチカレーは昭和35年(1960)の発売だ。別に固形ルーのお初なワケでもないんだけど、それまでの固形ルーが包丁で削りながら溶かし込んでいたのに対して、ワンタッチカレーはその名の通り、板チョコのようにスリットを入れることで手でカンタンに割りながら鍋に放り込むことが出来るという「目からウロコ」の商品だった。子供向けの甘口と大人向けの辛口を分けた点も画期的だった。
 それで記事に載せようと思った昭和38年(1963)のCMを観ていたら、ぼんくらオヤジが忘れられない出来事を思い出しちゃったんだよね。ここからワンタッチカレーと話がズレちゃうんだけど許してね^^;
カレーとスプーン.jpg CMの中で、平成生まれの人達が見たらビックリするシーンが出てくる。子どもたちが天狗のお面を被って遊ぶ奇妙さは笑ってやり過ごすとして、注目したいのは中盤以降に登場する数秒のコマだ。カレーを頬張る子どもたちを背景に、大写しになったコップの水にスプーンが突っ込まれて引き上げられるシーンが登場するんだけど、動画を見て気付いたかな。分かりにくいシーンだから静止画も貼っておくね。
 これって、ぼんくら少年が幼稚園の年中さんの時に大好きだったCMでね。ある日、レストランでカレーを食べた時に、CMを思い出してコップにスプーンを突っ込んだんだ。そうしたら、普段はもの静かな父が、
「止めなさいっ」
 と、周囲のお客さんが驚いて振り向くぐらいの剣幕でぼんくら少年を叱りつけた。ぼんくら少年は父に一喝されたショックで、コップの水をひっくり返して大泣きしちゃった。たぶん、父にそんな形で叱られたのは、それが初めてだったと思う。父も困っちゃったんだろうね。泣きじゃくる息子を抱き寄せて頭を撫でながら、
「覚えておきなさい。これは下品なことなんだよ。そんなキミ(父は子どもたちをこう呼んでいた)じゃ、一緒にお外で食事も出来ないし、まして外国に連れて行くことなんか出来なくなっちゃう。そんなことになったら父(自分のことをこう呼んでいた)も悲しいじゃないか」
 と、いつもの静かな声で諭してくれた。40年以上も前のささやかな出来事。以来、ほとんど思い出すことのなかった記憶が、YouTubeの動画で鮮やかに甦ってきたのだった。
 スプーンをコップの水に突っ込む行為が下品か否かは意見の分かれるところだろうけど、以来、ぼんくらオヤジは父の教えの一つとしてこれを守っているよ♪ CMにこんなシーンを挿入したところをみると、当時は決して下品とはみなされていなかったんだろうね。それどころか新手のマナーと解釈していた可能性だってある。
 まあ、それ以前に「スープでもないものをスプーンで食べるのは如何なものか」なんてことにもなるからマナー論には深入りしないけど、少なくとも昭和の一コマだったことは確かだよね。
 今でもごく稀に年配の方がこれをしている風景に出くわすことがあるんだけど、どんな意味があってしてるんだろう? スプーンにご飯がへばり付かないため? うーん、そんなにニチャニチャしたご飯で食べるかなぁ^^; あなたはこれ、やってる? やってる人は何故やるのか教えて(笑)。



■グリコ『ワンタッチカレー』のCM 1963年■

http://www.youtube.com/watch?v=ZHXrzbUclqA



■グリコ『ワンタッチカレー』のCM 中村雅俊編 1975年■

http://www.youtube.com/watch?v=QnmAyQgpwr4



■グリコ『ワンタッチカレー』のCM 前川清編 1981年■

http://www.youtube.com/watch?v=T3PGnf6bLms


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40年前、何してた? [その他]

1970_1.jpg 今日は急用が入っちゃった。小ネタでゴメンね。
 今年は2010年。なんと3月で大阪万博から40年が経っちゃうんだよね。ぼんくらオヤジも老けたわけだ(笑)。
 万博ネタは3月に回すとして、40年前の昭和45年(1970)には何があったのかをちょっと思い出してみるね。

1月: 喜劇王のエノケンこと榎本健一さんが死去。第3次佐藤内閣発足。玉の海と北の富士が横綱に昇進。
2月: 初の国産人工衛星「おおすみ」が打ち上げに成功。
3月: 核拡散防止条約が発効。万博開幕。近鉄難波線開通。よど号ハイジャック事件発生。八幡製鉄と富士製鉄が合併して新日鉄が発足。
1970_2.jpg4月: 金田正一選手の引退試合開催。春の選抜は和歌山の箕島高校が初優勝。ビートルズ解散。アポロ13号打ち上げ。日立製作所がLSI(大規模集積回路)を開発。
5月: 植村直己がエベレスト登頂。
6月: 日米安保条約が自動延長され、各地でデモが頻発。プラハの春が終焉を迎える。トミーがトミカを発売する。
7月: 米ディズニーランドが開演15周年を迎える。
8月: 歩行者天国が銀座、新宿、池袋、浅草で実施。夏の選抜は神奈川の東海大相模高校が初優勝。札幌の市外局番が「0122」から「011」へ変更される。
9月: 整腸剤「キノホルム」の使用販売が禁止される。万博閉幕。アメリカで大気汚染防止法(マスキー法)が可決される。
10月: ロッテがパ・リーグ優勝、巨人がセ・リーグ優勝(V6)を決める。チリでアジェンデ政権発足。
1970_3.jpg11月: 巨人が日本シリーズ6連覇を達成する。三島事件発生、三島由紀夫が割腹自殺する。
12月: 広島ホームテレビ開局。鐘紡がファッション産業宣言。

映画:『ガメラ対大魔獣ジャイガー』『続・猿の惑星』『トラ・トラ・トラ!』『イージー・ライダー』『ひまわり』

音楽: 菅原洋一「今日でお別れ」、皆川おさむ「黒ネコのタンゴ」、藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」、ザ・ドリフターズ「ドリフのズントコ節」「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」「誰かさんと誰かさん」、ちあきなおみ「四つのお願い」、いしだあゆみ「あなたならどうする」、トワ・エ・モワ「空よ」、日吉ミミ「男と女のお話」、和田アキ子「笑って許して」、サイモン&ガーファンクル「コンドルは飛んで行く」「明日に架ける橋」、ジェリー・ウォレス「男の世界」、ザ・ビートルズ「Let it be」、ザ・ショッキング・ブルー「ヴィーナス」

テレビ番組:「ウルトラファイト」、大河ドラマ「樅ノ木は残った」、連続テレビ小説「虹」、「大岡越前」(加藤剛主演)、「巨人の星」、「柔道一直線」、「細うで繁盛記」、「おくさまは18歳」、「時間ですよ」

アニメ: 「あしたのジョー」「チキチキマシン猛レース」「昆虫物語 みなしごハッチ」「赤き血のイレブン」「男どアホウ甲子園」「いじわるばあさん」「いなかっぺ大将」「魔法のマコちゃん」

 ぼんくらは小学校の5年生。夏休みに万博にも行ったよ♪ 悪ガキ全開の時期でもあったけどね(笑)。ねえ、40年前って何をしてた?


■1970年に流れていたCM集■


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本年もよろしくお願いします^^ [その他]

 明けましておめでとうございます!
 お心のこもった年末年始のご挨拶、ありがとうございました。頂きましたコメント、しっかりとかみしめながら拝読致しました。感謝の気持ちはブログに伺ってコメント欄に残して参ります。改めまして、本年もどうかよろしくお願い申し上げます。
 今年は去年にも増して厳しい年になるやも知れず、不安は計り知れないものがあります。さあ、こんな時だからこそ、自分の内に生きるかつての「僕」や「私」に声をかけてみませんか。サン=テグジュペリの「みんな、大人もかつては子供だったのに、ほとんどの人は、そのことを覚えていない」という有名な言葉を思い出しましょう。おおかたの大人は子どもだった頃の自分を記憶の残骸と一緒に葬り去っています。忘却という闇と冷え切った心の中で、かつての「私」は震えながらうずくまっているのです。
少年サンデー正月増刊号昭和40年.jpg ひと声かけてあげるだけで彼・彼女は光り輝き、親しみを込めてあなたの手を引いてくれるでしょう。やがてあなたは自分が野山や空き地を駆け回っていることに気付くはずです。
 彼らは仕事も財産も名誉も与えてくれませんが、彼らとの交わりによって、希望という光があなたの心に射し込むことでしょう。そして最後には、あなた自身が周りを照らす灯火となるのです。
 昭和に生まれた者同士は、過去に立ち戻ることで誰もが幼馴染みや同級生になれる類い希な存在です。連帯しあって、奪うよりも与えあうことで豊かになろうとした昭和に少しでも立ち返り、荒み冷え切った平成の世の中を少しでも明るく照らして参りましょう♪


■日本レコード大賞メモリアル 昭和34~47年■


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ありがとうございました! [その他]

 さてさて、ぼんくら一家もお正月は東京の実家に戻るので、今年は今日で打ち止めです^^ 今年は弟一家と一緒に過ごす8年ぶりの年末年始になるし、明日は幼馴染みたちとのパーティもあったりで結構、慌ただしいものになるかも。
 ブログを始めて早、半年。毎回毎回、中途半端な記事をコメントやメールでフォローしてくださいましたこと、心より御礼を申し上げます。個人ではどうにもならない記憶の欠落や理解の浅さ、独りよがりになりがちな解釈等々にお一人お一人が手を加えたり修正してくださることで、干からびた記憶が豊かに復活する様を日々、驚きをもって見つめ、感じて参りました。
ありがとう♪.jpg  このブログでぼんくらが目指しているとりあえずの目標は、昭和の断片を1000片集めることです。半年かかってようやく目標の5分の1。まだ先は遠いなぁ(笑)。それまではぼんくらオヤジを見捨てないでくださいね。来年もどうかよろしくお願いします!


 貴方とご家族の幸せな年末年始を
心より祈念して

 ぼんくらオヤジ拝



■昭和58年(1983)年末から昭和59年(1984)の年始にかけて流れたCM集■
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タグ:年末 年始 昭和
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昭和のクリスマス [その他]

 今日はクリスマスのお休みを頂いてるよ^^ YouTubeで拾った昭和28年(1953)から昭和58年(1983)までの10年おきのクリスマスを楽しんでね♪ ケータイの皆さんはゴメンなさい^^; 明日からフツーに戻ります。


■江利チエミの「ジングルベル」 1953年■



■コカコーラのクリスマスCM 歌はフォーコインズ 1963年■



■TVドラマ「雑居時代」 懐かしいですね、石立鉄男♪ 1973年■

http://www.youtube.com/watch?v=8-_mZuqJARQ (YouTubeでご覧ください)



■中森明菜の「ジングルベル」 1983年■


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本当にあった戦場のメリー・クリスマス 『塹壕の聖母』 [その他]

 昭和17年(1942)、ヒトラーによって引き起こされた独ソ戦はスターリングラード(現ヴォルゴグラード)をめぐる攻防戦になっていた。お得意の電撃戦で広大なロシアの国土に深く切り込んだドイツ軍は、逆に補給路を断たれるという愚を犯して、23万人ものドイツ軍兵士(枢軸国軍を含む)がスターリングラードでソ連軍に包囲されてしまっていたんだ。
 ドイツ軍の軍医としてスターリングラードにいたクルト・ロイバー(当時36才)は、その壮絶な様子を次のように記している。

クルト・ロイバー.jpg 私はクリスマスを同僚の軍医や傷病兵たちとともに過ごした。将校はクリスマスカードに添えて最後の一本だったシャンパンを渡してくれた。私たちはマグカップを高く掲げ、愛する人たちのことを覚えて飲もうとしたんだ。でも酒を味わう前に塹壕の外で爆発音がしたので、カップを地面に放り投げなければならなかった。  医療器具の詰まったカバンを抱えて爆発地点出動すると、そこには数名の死傷者がいた。クリスマスで飾りつけられた塹壕は、たちまち戦場の処置室になった。  ある兵士は頭部に深い傷を負っていて、もはや手の施しようがなかった。それでも彼はクリスマス・パーティーをともに祝った。それが彼の最後の任務だったのだ。彼は死ぬ前に「やっと『いざ歌えいざ祝え("O du Frohliche!" 賛美歌108番)』を最後まで歌うことができたよ」と言い、それから程なくして亡くなった。  塹壕のクリスマスは厳しく悲しいことばかりだ。夜は更けてきたが、まだクリスマスの夜は続いている。そして其所此所で悲しみの光景が続いている。

 こんなエピソードもあるよ。

 兵士のひとりがアコーディオンを持っていたので、皆でその伴奏に合わせて『いざ歌えいざ祝え("O du Frohliche!")』を歌ったが、2番の歌詞を知っていたのはほんの数人だけだった。3番は誰も歌うことが出来ずに兵士達は暗い顔で押し黙ったまま、ただアコーディオンだけが鳴っていた。すると、突然離れた場所から違う言葉で3番を歌う声が聞こえてきた。振り返ると、歌声の主はボロボロの服を着たロシア軍の捕虜や街に取り残されたロシア市民達だった。

 軍医クルトはクリスマスの明けた昭和18年(1943)1月にソ連軍の捕虜となる。そして捕虜収容所で迎えた2度目の戦場のクリスマス。クルトは劣悪なキャンプで明日をも知れぬ運命の捕虜たちのたために、一枚の絵を粗末な収容所の壁に貼ったんだ。

塹壕の聖母.jpg


 ロシアの地図の裏に焚き火の炭で描かれた絵。それは幼いイエスを包み込むように抱く母マリアの絵で、次のような3つの言葉が添えられていた。

LICHT(光) LEBEN(命) LIEBE(愛)


 この絵はね、前年のクリスマスにクルトがスターリングラードの塹壕で描いたものだったんだよ。皆を慰めて日も浅い翌、昭和19年(1944)の年明け早々にクルトはチフスで帰天する。37才だった。彼自身は帰国できなかったけど、彼に励まされて生き残った捕虜の手で絵は祖国に戻り、厳しい戦後を生き抜いたドイツ人の心の灯火となった。クルトは文字通り「一粒の麦(注参照)」になったんだね。
 現在、『塹壕の聖母』や『スターリングラードの聖母』として知られているこの絵はベルリンのカイザー・ヴィウルヘルム記念教会で観ることができるよ。もしベルリンへ行く機会があったら、ぜひ観てみてね。


注: 一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる (ヨハネによる福音書12:24)。


お知らせ: 本日24日と翌25日は多忙でブログ訪問ができません^^; 26日には伺いますのでよろしくお願いします。 <(_"_)>



■賛美歌108番「いざ歌えいざ祝え」 ウィーン少年合唱団■



■クロアチアのザグレブの人々がテゼ共同体の歌を歌っています■


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廃屋での恐怖体験 [その他]

廃屋1.gif 子どもの頃の記憶で、どうしても説明のつかないものってない? ぼんくらオヤジにはひとつだけ、どう解釈していいものか見当のつかない記憶がひとつだけあるんだよね。
 ぼんくら少年の住んでいた昭和40年代の世田谷には、廃屋が点在していたんだよ。多くは主を失った農家で、敷地も家屋も結構大きかった。
 京王や小田急の沿線なんて、昭和30年代の後半あたりまでは新宿をちょっと出れば田畑と宅地群が混在する、今でいえば八王子の外れみたいな光景が広がる地帯だったのだ。ぼんくら少年が走り回っていた昭和40年代には、経済成長に伴う東京の急激な膨張に伴って、駅周辺は戸建て住宅とアパートがぎっしりと建ち並び、所々に空き地と土管のあるドラえもんの世界に変貌していたんだけど、それでも駅から10分も歩けば、先に書いたような風景が広がっていた。

廃屋3.jpg「出るんだよね、あそこ」
 ある日の下校時に始まったたわいも無い怪談話から事は始まった。「あそこ」とは、羽根木公園(世田谷にある大きな公園)近くにあった廃屋のことだった。周囲を打ち棄てられた畑と竹林に囲まれた大きな家で、敷地と道路の際に数カ所、「危険。立ち入り禁止」という看板が立っていて、子どもたちの間では有名な場所だった。
 なんでも友達の兄貴が侵入したところ、白装束の男と鉢合わせして追いかけられたというのだ。無事に脱出することが出来たけど、二度とあんな恐ろしい目には遭いたくないと言っていたそうな。
 バカなぼんくら少年はムラムラと好奇心が湧き上がってきて、
「仇を討ちに行こう!」
 なんぞとワケの分からない理屈を並べて友達を誘ったんだけど、話に乗ってくれたのは、ぼんくらに輪をかけたようなおバカさんのSがひとりだけ。ランドセルを背負ったままで「あそこ」に向かい、気付いた時はふたりで手を握りあったまま、廃屋の敷居をまたいでいた。
廃屋2.jpg 土足で家に上がり込む背徳の喜びに浸りながらも自分たちの重みでギィギィと軋む床に怯えるという相反する感情で頭はジンジンと痺れていた。フスマや障子は誰かが故意にやったんだろうね、ほとんどはビリビリに破かれて床に倒れている。古新聞や食器、ボロボロになった衣類が散らばっていて、どこからかホコリとカビの臭いの混じった湿り気のある風が建物の奥から入り込んでくる。
 玄関から真っ直ぐに伸びる広い廊下を曲がったところに階段があった。Sと顔を見合わせ無言のまま階段を上がる。
 徐々に見えてきた光景は階下とは全く違っていた。きちんとはめ込まれた建具。障子も真新しくひとつとして破れていない。だが、普通の家と違うことがひとつだけあった。障子という障子に赤と黒で不気味な絵が描かれていたのだ。眼球の飛び出した生首や切断された手足、血まみれのノコギリ等々、それはそれは凄惨な絵だった。
 これで逃げ出せばいいものを興奮してたんだろうね、2人は恐る恐る障子を開けたんだ。そこに広がっていた光景、それはだだっ広い畳の部屋にポツンと敷かれた布団。そしてそこには白装束の男が半身を起こしてこちらを睨みつけていたのだ。恐らくはドーランのようなもので顔を真っ白に染めていて、血走った目と唇が妙に赤く浮き出している。そしてヨロヨロと起き上がると、意味の分からない奇声を発して走り寄ってきたのだ。
 その後のことはあまり覚えていない。とにかく文字通り転げ落ちるように階段を駆け下り、後ろもふり向かずに夢中で逃げた。道に飛び出しても恐怖心が収まらず、とにかくいちばん近くにあった友達の家に逃げ込んだのだった。
 後で親にも他の友達にも話したんだけど、誰も取り合ってくれなかった。当たり前だよね(笑)。
廃屋4.jpg それから20年ほどして、同窓会で会ったSに、
「覚えてる?」
 って訊いたら、
「な、あれって勘違いじゃないよな」
 って言ったよ。ホントに何だったんだろう? まだ世田谷に魑魅魍魎の棲みつく余地のあった時代の、ささやかな思い出だ。



■鳥取某所の廃屋 写真集ですが、何気に美しいです♪■


■廃屋の住人 自己責任でご覧ください、ひひひ■


タグ:世田谷 廃屋
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30年前、何してた? [その他]

1979_1.jpg もうじき2010年だからだろうね、来年だっていうのに山口百恵の引退30周年の記念DVDがじきに出るんだってね! 今年はは近藤真彦のデビュー30周年なのに、こっちは静かなもんだけど(笑)。30年って数字はビミョーで、「もう?」って人もいれば「まだ?」って人もいるだろうね。ぼんくらは両方の気持ちがいっぺんにくる感じで何とも複雑だな。
1979_2.jpg 30年前の昭和54年(1979)は、アメリカと中国の国交が樹立されるという何ともハデな正月でスタートした年だった。お初で切ってみると、1月には初の共通一次試験が実施され、3月には『ズームイン!!朝!』が徳光和夫の司会で始まっている。4月には、平成17年(2005)まで続くことになる藤子・F・不二雄の『ドラえもん』第2シーズンが始まり、西武ライオンズ球場がオープンした。野球のお初ではもうひとつ、11月に広島が球団創設30年目にして初の日本一に輝いているね♪
1979_5.jpg 事件事故では、1月に大阪の三菱銀行北畠支店で人質事件が発生して、犯人の梅川昭美が射殺され、7月には東名高速の日本坂トンネルで追突事故による火災が発生して7人が亡くなった。国外では、3月にスリーマイル島の原発事故が起こり、10月には韓国の朴正煕大統領が暗殺されている。
 ローカルな話題では、2月に福岡市内から路面電車が姿を消し、名古屋では名鉄と市営地下鉄線の相互乗り入れが始まった。また長らく死火山だと思われていた木曽の御嶽山が水蒸気爆発を起こし、山麓に土石流災害を引き起こしたのもこの年だ。
 文化面も見てみようね。先ずベストセラーで特筆すべきはエズラ・F. ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』だ。
1979_4.jpg 流行歌では、ジュディ・オングの『魅せられて』や山口百恵の『しなやかに歌って』、サザンオールスターズ『いとしのエリー』、ゴダイゴ『ビューティフル・ネーム』、ツイスト『燃えろいい女』、桑名正博『セクシャルバイオレットNo.1』、アリス『チャンピオン』、千昌夫『北国の春』、オフコース『愛を止めないで』、竹内まりや『September』、久保田早紀『異邦人』等々。
 映画は、邦画だったら『戦国自衛隊』『ルパン三世カリオストロの城』、洋画は『地獄の黙示録』『ブリキの太鼓』かな。
 TVドラマでは、近藤真彦のデビュー年だってことで『3年B組金八先生』第1シリーズを始めとして、『西部警察』や『必殺仕事人』も放送を開始している。
1979_3.jpg この年に亡くなった有名人には、物理学者の朝永振一郎や作家の福永武彦、奇術師の初代引田天功、作曲家のニーノ・ロータ、俳優のジョン・ウェインらが、逆に生まれた有名人には、堂本光一や堂本剛、森田剛、魔裟斗、崔煕渉、ノラ・ジョーンズ、窪塚洋介、三宅健、奥菜恵、田村裕、蛯原友里、直井由文、ともさかりえ、仲間由紀恵、上村愛子、吉川ひなの、押切もえらがいる。
 さて、こんな30年前だったわけだけど、貴方にとってはどんな年だった? ぼんくらオヤジにとっては、大学を休学して1年以上に及ぶ初の長期海外放浪を体験した年だったよ。差し支えない程度でなくてもいいから(笑)、貴方にとっての30年前、教えてくれない?


■「しなやかに歌って」山口百恵 1979年■



■「3年B組金八先生」第1回 トシとマッチを探してごらん♪ 1979年■



■資生堂「ナツコの夏」 燃えろ、いい女~♪ 1979年■


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さようなら、学研の『科学』と『学習』 [その他]

学研の科学.jpg 学研の小学生向け学習雑誌『科学』と『学習』の休刊がついに決まった。『科学』(月刊)は来年2月発売の3月号で、『学習』(現在は季刊)は今月発売の冬号で休刊となる。休刊というと、廃刊とは違って一時的に発刊を停止するかのような響きがあるけど、実際は雑誌コードのみを温存するための無期限休刊で、実質的には廃刊と言っていい。
 昭和47年(1972)以前に小学生だった人なら、月に一度、昼休みや放課後の体育館なんかで、定期購読をしている児童に先生たちが雑誌と付録をせっせと手渡していた光景を思い出せるだろう。ぼんくら少年は『科学』を購読していたよ♪ 雑誌の読み物も面白かったけど、どっちかっていうと付録に惹かれてたな。たぶん大方の小学生もそうだったんじゃなかろうか。
学研の学習.jpg 雑誌と付録を受け取る時の、ある種高揚した気分は今でもはっきり覚えてる。いつもは友達とワァワァ騒いであちこちに寄り道しながら下校するのに、この日ばかりは自宅に直帰して自室に籠もり、弟妹の出入りも厳禁して付録の箱を開けていた。以前紹介した日光写真のような実験キットだったりすると、秘密基地(友達の家が経営していた酒屋の倉庫)で友達と一緒に遊ぶこともあった。だから秘密基地には『科学』や『学習』の付録の残骸がいつも転がっていた。
教材1.jpg 『学習』は戦後間もない昭和21年(1946)の創刊で、国語と社会が中心の雑誌だった。読み物の比重が『科学』に比べてダントツに高く、山中恒の児童文学作品や石ノ森章太郎やみなもと太郎、園山俊二のマンガが掲載されるなど充実した内容だった。
 『科学』は算数と理科が中心の雑誌で、昭和32年(1957)の創刊だ。先にも書いたように教材付録が充実していて、磁石キットやカブトエビの飼育セットなんてものから、顕微鏡やラジオ、レコードプレイヤーなんていう当時の子どもたちにとっては信じられないものが付いていた。もちろんそれなりのものだったけどね(笑)。掲載されたマンガからは『はじめ人間ゴン(園山俊二)』や『チクタク大冒険(石ノ森章太郎)』などなど、ヒット作も誕生したよ。
教材2.jpg 1970年代後半のピーク時には両誌併せて670万部を売り上げていたっていうんだから、当時の小学生の3人に2人は購読していた計算になるわけで、ある意味、これは異常な数字だといえる。
 この最盛期に先立つ昭和46年(1971)には、特定の雑誌を公立校が仲介販売と配布を行うことに対して日本消費者連盟からクレームがつき、翌47年(1972)には公正取引委員会の勧告を受けて、いわゆる『学研のおばちゃん』による訪問販売に転換している。ピークの山がその後にきているのは不思議かもしれないけど、これは学研のおばちゃんがしばらくの間、家庭だけじゃなく学校への訪問販売を続けていたためで、やがてこれも批判を浴びて継続が難しくなり、長期に及ぶ衰退期に移ることとなった。
教材3.jpg 結局、少子化や共働きの増加による主婦の在宅率の低下で訪問販売が難しくなったことや、訪問販売という非効率な形態がアダとなって、最近ではピーク時の10分の1を大きく下回る低迷振りだったそうだ。版元の学研は、前年度の連結決算が21億円もの営業赤字を計上する危機に陥っている。たとえ看板雑誌であっても打ち切らざるを得ない状況だったのだ。この度の休刊は「時代の流れ」の現れには違いないんだけど、業界の構造不況と、資金繰りを海外の投資ファンドに頼らざるを得ない出版社の厳しい経営環境が透けて見えるのは恐ろしいことだ。
教材4.jpg 活字文化は一国の文化の根幹を成す。それを担う業界が今や、海外ファンドの意向に沿わざるを得ない状況に追い込まれているのだ。特に学研の筆頭株主になっている投資ファンドはシンガポールの会社だが、設立したのはあの村上ファンドの元ファンドマネジャーなんだから話はもっときな臭い。昨年は株主総会を間近に控えた時期に、業績不振を理由に社長の解任を求める株主提案をちらつかせて赤字事業からの撤退を迫っている。一見、正論を振りかざして企業を強請り、利益を吸い取ってポイ捨てする手法は、かつての村上ファンドとまったく変わっていない。マスコミが注目しないのは村上ファンドの轍を踏まないように、地味な企業を狙い撃ちしているだけのことだ。
 昭和が消えること。これを単に安っぽいノスタルジーと片付けることがどんなに危険なことかを暗示しながら、『科学』と『学習』は歴史の闇に消えようとしている。
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