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ドブ板と板塀 [その他]

ドブ板と板塀1.jpg「ドブ板って何?」
 衆院選の報道番組を観ていたぼんくら息子達が「ドブ板選挙」という言葉を耳にして発した質問だった。ぼんくらオヤジは絶句したね。平成生まれは「ドブ」という言葉を知らないのだ。
「ドブは側溝。ほら、側溝にコンクリートのフタがしてあったり、鉄製のすのこが渡してあったりするだろう。お父さんが子供の頃は木の板でフタがしてあったんだよ。それがドブ板」
 そこでふと思いついて、
「じゃあ板塀って知ってる?」
「イタベイ? イタリアントマトがイタトマみたいな? イタカジの仲間?」
 やっぱり通じない。木の板で作られた塀だと説明したら大反論が。
「ノコギリで切れちゃうような塀じゃ防犯にならないじゃん! 放火されたりしなかったの?」
ドブ板と板塀2.jpg 昔は人様の塀をノコギリでちょん切ったり放火したりする悪い奴はいなかったんだと、苦し紛れの国会答弁状態で幕を引いてしまったけど、ドブ板と板塀の路地が地上から消え去ってしまったのだとイヤでも思い知らされた一時だった。
 ドブ板はたしかに危ないものだった。なにせ木製だから、小さな子供が乗っても踏み抜いてしまうほど傷んだドブ板があちこちにあったよね。幅寄せ駐車をしたクルマがドブ板を突き破って、往来の大人達が総出で引っ張り上げたりする光景もよく見かけたし(笑)。
 悪ガキだったぼんくら少年達はドブ板のロシアン・ルーレットをして遊んでたし。代わる代わるドブ板の上にジャンプするというたわいもない遊びだったけど、不幸にも板を踏み抜いた暁には、ネットリとしたドブ独特の泥にまみれたズックで帰宅して母親に叱られるという罰ゲームが待ち受けていたので、参加するほうは思いっきり真剣だった。バカだよねぇ、ハナっからやんなきゃいいのに^^;
ドブ板と板塀3.jpg 板塀も木製だったからドブ板並みに危ないものがあったよね。道路側にベラぁっと傾いちゃってる塀なんかがザラにあった。ぼんくら少年は一度、友達の家の庭に板塀を乗り越えて侵入しようとして、その家の板塀2面分を跡形もなく倒壊させちゃったことがある。幸運にも池に落ちたので大した怪我はしなかったけど、その家のお爺さんが丹精込めて育てていた盆栽のいくつかを台無しにしてしまって怒られたのなんの。今ならそんな危険な塀を放置していたほうの責任が問われるところなんだけど、当時は他人様の持ち物を壊したことが第一にいけないことだったので、ぼんくら少年は菓子折を持った両親に耳を引っ張られて被害を被った家にお詫びに行った。
 数ヶ月後に、ぼんくら少年が倒壊させた板塀はブロック塀となって再生した。その頃から急速にドブはU字溝となり、ドブ板はコンクリートのフタに取って代わっていった。空き地に土管が出現したのもこの頃だ。下水などのインフラ整備が急ピッチで進んだ万博の頃を境に、ドブ板と板塀の世界はボクらの前から姿を消していった。


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タグ:ドブ板 板塀
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昆虫採集セットが消えたワケ [その他]

昆虫採集セット.jpg 子供の頃はフツーにあったのに、今やまったく見ることのできないアイテムも存在する。その典型が子供用の『昆虫採集キット』だ。
 昭和の子供たちにとって、昆虫の標本は夏休みの自由研究の定番だった。そこで役にたったのが『昆虫採集キット』で、12色の絵の具セットぐらいのケースに注射器や虫眼鏡、ピンセット、虫ピン、そして緑か青に着色された防腐剤とと赤い殺虫剤が入っていた。何だか恐ろしいものが入っているようだけど、実は染料が違うだけで、この防腐剤と殺虫剤の正体はメタノールが3パーセント程度入ったただの水だった(笑)。たしかに本物の殺虫剤やホルマリンだったら、誤って人体に注射したり針を刺したりしたら危険だもんね。もっとも戦前の大人用セットには殺虫剤に青酸カリが使われてたっていうから、メタノールの水溶液なんて可愛いもんだけどね、ははは!
 じゃあ何で今、売られてないか分かる? 現在分かっているのは、昭和42年(1967)に昆虫採集セットの注射針が飛んで少女が失明するという事故が発生し、かねてから注射という行為自体を危険視していたPTAの抗議や学校での購入禁止の指導が相次いだ結果、徐々に製造業者が減っていったということだ。
 でも、完全に消えてしまったのには、現代ならではの理由があるのだ。何だろうか? 察しのいい人や身に覚えのある人なら直ぐに分かることだけど、覚せい剤の使用防止のためだ。昆虫採集のためだったものが40年で覚せい剤を打つ道具に変わっちゃったわけで、イヤハヤ、恐ろしい時代になっちゃったもんだよね^^;


■カブトムシの標本の作り方■



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台風18号に昭和生まれが思うこと [その他]

 これまでにない規模の台風が近付いている。近畿・東海は直撃を免れない状況にあるし、直撃されなかったとしても巻き込まれない地域はないといってよさそうだ。ぼんくらオヤジも今日の予定はすべてキャンセルして、朝から台風の備えでドタバタしている。ベランダの物干し竿やハンガー、植物などを部屋に移動させたり、買い物を早めに済ませたり、風呂場に水を張って生活用水を確保したり、ガムテープやローソク等応急対応品のチェックを行ったりと、およそ思いつくことはやっているけど、どうなるやら。
伊勢湾台風1.jpg 昭和も台風と闘った時代だった。古くは昭和9年(1934)年の室戸台風、昭和20年(1945)の枕崎台風、そして昭和34年(1959)の伊勢湾台風という『昭和の三大台風』が有名だが、死者・行方不明者171名を出した昭和51年(1976)年の台風17号や、中心が879ヘクトパスカルという観測史上世界で最も低い気圧を記録し、死者・行方不明者115名を出した台風20号を鮮明に記憶している人も多いだろう。
 ぼんくらオヤジの住む名古屋は先月、伊勢湾台風上陸50周年を迎えたばかり。この記事に貼ってある写真は、すべて伊勢湾台風時の名古屋の写真だ。930ヘクトパスカルの勢力を保ったままで紀伊半島に上陸した台風は、死者4,697人、行方不明者401人、負傷者38,921人という未曾有の被害を日本にもたらした。中でも東海地方は、愛知県で3,351人(名古屋市は1,909人)、三重県1,211人と被害が集中し、愛知県は県民の2割が被災するという信じられない惨状となった。
伊勢湾台風3.jpg「当時は防災技術が未熟だったからだろう。今ならそんなことにはならないよ」
 と思う人も少なくないだろう。だがそれは間違いだ。台風で発生した高潮は、現在の水準と大差ない海岸堤防をあっさりと決壊させ、結果的に最大の災害要因となったのだ。世界的な気候変動によって既存の防災基準はもはや意味をなさず、それを根拠に作られた防災設備は未知の規模の天災には対応できないのではないかという恐ろしい話もある。人は自然の猛威に対しては未だに無力なのだということを前提しなければ、真に実効のある災害対策はとることができない。
伊勢湾台風2.jpg 今回の台風は大量の降雨をもたらすことが予想されているので、最後に伊勢湾台風で被災した人々へのアンケートで判明したデータを紹介したい。増水時に避難可能だった水位は成人男性で70cm、成人女性が50cm、子供で30cmが限界だったそうだ。ただし水流が強い場合は、たとえ30cmでも危険だということはくれぐれも頭に叩き込んでおいて欲しい。ドアの開閉が可能なのは水位30cmまで。尚、長靴は厳禁! 中に水が入り込んで足もとをとられ、却って危険なので、スニーカーのような短靴で外出すること。濡れるからといって短パンで出るのも危ない。何が流れていていつ足に接触するとも限らないからだ。
 7日16時現在で台風はやや速度を上げている由。先刻までの予想到達時間よりも早まりそうだね。子供たちも学校から戻ってきたし、ぼんくら一家はこれから台風が過ぎるまで狭いマンションの部屋に巣籠もりするよ。末尾ながら皆さんとご家族のご無事を心からお祈りします。


■災害記録映画「伊勢湾台風」その1 1960年制作■



■災害記録映画「伊勢湾台風」その2 1960年制作■



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伝書鳩 [その他]

伝書鳩1.jpg ぼんくら少年はお隣の和ちゃんと遊ぶのが大好きだった。和ちゃんというと同級生みたいだけど、6才も年上のお兄さんだ。ぼんくら少年の部屋は和ちゃんの家の側にあったんだけど、夕方になると窓の外が急に騒々しくなるんだよね。木枠がガタガタする音に混じって、何かがカサコソとうごめくような気配とクゥクゥという鳴き声、そして和ちゃんが誰かに話しかける声が聞こえてくるんだ。
 ガラガラと窓を開けると、隣家の屋根に設えた奇妙な形の小屋で和ちゃんが甲斐甲斐しく鳩の世話をしているのが見える。
「お帰り!」
 と声をかけると、たいていは挨拶抜きで、
「手伝って!」
 という指令が返ってくる。飛んで行って立てかけたはしごを上り下りしながらバケツで水や餌を運び上げるのが任務だった。随分と危ない役目を仰せつかったものだけど、ぼんくら少年は嬉々として手伝った。それというのも、手伝うと後で鳩と遊ばせてもらうことができたからだ。
 粗製乱造の鳩小屋は糞の匂いが染み付き、床がしなって怖かったけど、数十羽の鳩がケージの中で立てる音とくぐもった声は何ともいえない心地よさを与えてくれた。そこで和ちゃんは、実際に鳩の掴み方を教えてくれたり、飼い方や訓練法を熱心に話してくれた。ほとんどは忘れちゃったけど^^; 不思議で仕方がなかったのは、和ちゃんが鳩の一羽一羽に名前をつけていて、ちゃんと区別ができたことだ。時折、訓練で飛び立たせた鳩が返ってこないことがあると、ポロポロと涙をこぼしながら、その鳩がどんなに可愛かったか、レースでどんな活躍をしたのかを延々と語り続ける心優しい少年だった。
伝書鳩3.jpg 1000キロ以上も離れたところから巣に戻ることができるといわれる能力を借りる伝書鳩は、古くは紀元前5000年にまで歴史を遡ることができるほど人との関わりが深い。日本では、特に昭和39年(1964)の東京オリンピックで、開会式に放鳩を行ったことから若者の間でブームになり、昭和44年(1969)には年間脚環登録羽数が400万羽弱に達してピークを迎える。その後は徐々に減少し、最近では鳩レースでの平均期間率が劇的に減少するという奇怪な現象が追い打ちをかけている。数千羽規模のレースに参加した鳩が全滅する事態が各地で頻発し、しかも原因が分からないというのだから恐ろしい。
 これは日本に特有の現象で、海外では発生していないというのだから謎は深まるばかりだ。猛禽類の大増殖説やケータイの電磁波影響説、スピード偏重の品種改良による悪影響説などが挙げられているけど、どれも推測の域を出ていない。一体、何が起きているんだろうね。
伝書鳩2.jpg 何にしても住宅地で鳩小屋を見かけるなんてことは終ぞ無くなってしまった。いい年のオジサンになっちゃった和ちゃんも、同じく伝書鳩マニアだったお父さんの死後、鳩の世界から手を引いてしまった。でも、ぼんくらオヤジは、包み込むように掴んだ時の鳩のぬくもりと、それを空に放ったときの突き抜けるような爽快感は未だに忘れられない。青空に吸い込まれるように消えていく鳩は、間違いなく平和の使者だった。


■伝書鳩の訓練 6才の子供たちがやってます。可愛いな♪■



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エレベーターガールの思い出 [その他]

エレベーターガール1.jpg ぼんくら少年は京王沿線に住んでいたので新宿は行動圏内だった。とくに京王や小田急などのデパートは格好の遊び場で、何をするでもなく各フロアをうろつき回っていた。おもちゃ売り場でディスプレイをいじったり、屋上の遊具で遊んだり、地下の食品売り場で味見用のお菓子や総菜を食べたり、また屋上に戻って売り物のペットを眺めたりと、さながらテーマパークのような存在だった。冬はポカポカ、夏はエアコンがギンギンに効いているのも有難かったしね。
 でも、ぼんくら少年には、5年生の春頃から新宿に出かける理由がもうひとつ増えていた。デパートのエレベーターガールにほのかな恋心を抱いたのだ。身長は160センチそこそこで、美人というよりはまだまだあどけない顔立ちの可愛いお姉さんだった。週に一度は顔を合わせていたし、ぼんくら少年が遠慮会釈もなくジロジロと見つめるものだから、いつしかお喋りをする間柄にもなっていた。
 前田さん、という苗字だった。名札にそう書いてあったから。前田さんは他のお客さんがいる時は、
「上に参りまぁ~す♪ ご利用階数をお知らせくださいませぇ~」
 と、天井に片手を上げながら、文字にできない独特のイントネーションで喋るくせに、客がぼんくら少年たちだけになると片手で敬礼しながら、
「おっす! 元気?」
エレベーターガール2.jpg なんてタメ口で相手になってくれた。時々、制服の胸ポケットからのど飴を引っ張り出してみんなに手渡してくれたし。貰って直ぐに頬張ると、飴玉が前田さんの体温でほんのり温まっているのが分かって胸がドキドキした記憶がある。
「美味しい?」
 そんな時にのぞき込まれる様に聞かれると、耳の先まで熱くなるのが分かって無言でこくりと頷くのが精一杯だった。
 そんな不思議な関係が半年ほど続いたろうか。ある時期から前田さんの姿が見えなくなった。職場が変わったんだろうか。気になって別のエレベーターガールさんに前田さんの消息を尋ねたところ、辞めて地元に帰ったとのこと。
 一部の施設を除いてほぼ完全に姿を消してしまったエレベーターガール。前田さんの名前は未だに知らない。


■エレベーターガール by 青木さやか 特徴をよく捉えています(笑)■



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緑のおばさん [その他]

緑のおばさん1.jpg ぼんくら少年には天敵がいた。緑のおばさんだ。緑色の制服を身に付け、緑色の帽子を被ったおばさんが通学路のあちこちで黄色い旗を振り回していたんだ。正式には学童擁護員という。小学生の登校の安全確保がお仕事で、東京都では立派な正職員だ。
 この緑のおばさん、通学路の交通安全にだけ気を配ってくれるだけなら「害はない(笑)」んだけど、この安全確保を拡大解釈して四の五のと教育的指導をおっ始めるオバンが中にはいたんだよね。当時、テストケースで始まっていた集団登校なんかの時はそれこそ、
「ハイハイ列は二列で乱れないっ! 無駄話はしないっ、気が散って事故になったらどーすんのっ!? 脇見はしないで、前を向いてっ」
 なんぞと自衛隊の教官よろしく、異常なテンションで罵声を浴びせてくる。挙げ句の果てには、服装がだらしないだの、名札がついてないだのとウザいのなんの。
 ついにぶち切れた秘密結社死ね死ね団のメンバーは行動を開始。問題のおばさんの指導にはアッカンベェとお尻ペンペンで徹底抗戦。数日後におばさんが学校への通報で報復するという全面戦争に突入した。当時の大人はこういうことがあった時に子供から事情を聴くなんて手続きは一切しなかったから、放課後に職員室での説教があった後、家では親から往復ビンタをくらうハメに。翌日、勝ち誇ったような表情で変わらぬ指導を続けるおばさんにガンを飛ばしたらこれも通報。困り果てた先生がクラスルームの議題にすると、他の子供たちからも不満が噴出してようやく風向きが変わってくる。どうやら件のおばさんと学校側で話し合いがあったようで、じきにこのおばさんは気の毒なぐらいおとなしくなってしまった。
 それでも卒業式の日、正装で登校する仇敵に、
「君たち、知らない間に大きくなってたのね。今日はおめでとう!」
 って涙目で声をかけてくれたおばさんだった。何も言えなくて、ぼんくら少年たちは最敬礼で返したよ。
緑のおばさん2.jpg 昭和34年(1959)に未亡人の雇用対策として東京都で始まった学童擁護員制度だけど、一時期は他の道府県でも臨時職員やボランティアとして広まったものの、自治体の歳入不足や学童の減少などで、現在ではPTAや地域のボランティア活動に移管させるケースが増えて、街中で緑のおばさんを見かける機会はほとんどなくなってしまった。
 ぼんくら次男が小学生なので、ぼんくらオヤジは3週に1度のペースで緑のおじさんを務めている。あくびをし、蚊の鳴くような声で挨拶をする子供たちを見送りながら、財政的には贅沢だけど、これだけ子供たちを取り巻く環境が危うくなっているのなら、あの口うるさい緑のおばさん制度を登校時だけではない日勤の仕事として復活させてもいいんじゃないかと思ったりもする。そうすりゃ、親も早起きして旗振りしなくてもいいもんな(たぶんこっちが本音です^^;)。


■口うるさい緑のおばさんのコント byニッチェ■



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『赤チン』は元気な子どもの印だった [その他]

赤チン1.jpg 擦りむいた膝小僧や肘を真っ赤に染めて走り回る少年少女たち。と言っても血まみれの姿じゃないよ。傷口に『赤チン』を塗った子供たちの様子だ。
 赤いヨードチンキの短縮形が赤チンなわけで、正式名称はマーキュロクロム液だ。マーキュロクロムは青緑色あるいは緑がかった赤褐色の物質で、水銀を含んだ劇薬だ。道理で塗ったところに日が当たるとキラキラ光ったわけだ。
「えー、水銀!? 劇薬!?」
 そう思うかも知れないけど、傷口に塗っても体内に入り込む量は極めて少ない。液自体の濃度が低いために毒性も少なく、ゴクゴク飲んだりしなければ安全だと言われている。
 赤チンは大正8年(1919)アメリカの医師ヒュー・ヤングによって開発さた。手軽さと確実な効き目が評価されて世界中の家庭の常備薬として愛用されていたんだけど、日本では、作る際に水銀が発生することから昭和48年(1973)年に製造が中止され、さらに平成2年(1990)にアメリカの食品医薬局(FDA)によって水銀中毒の危険性が指摘されたことから、今度は使用が控えられるようになった。それでも人気は根強く、『マキロン(第一三共ヘルスケア)』が主流となった現在でも、海外で製造した原料を輸入することで各社から販売されている。
赤チン2.jpg 水銀中毒の指摘については嫌疑が晴れつつあるものの、製造段階で水銀汚染の恐れがあるものを海外で製造させれば問題ないってのは何だかねぇ。水銀自体を扱うことが問題なら蛍光灯なんか使っちゃいけないわけだし、蛍光灯の生産・回収が問題なく機能しているのなら、しかも需要があるのなら、しっかりした体制の下で国内生産を再開すべきだとも思うんだけど。
 間違いなく言えるのは、元気に外で遊び、生傷の絶えなかった昭和の子供たちを細菌から守ってくれたのが赤チンだったということだ。環境保護に熱心な方にお叱りを受けるのを覚悟でぼんくらオヤジは言いたいと思う。赤チンよ、ありがとう!


■赤チンをモチーフにした東ハト・キャラメルコーンのCM 1984年■



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投票を終えて思うこと - ある父と娘へのオマージュ [その他]

エマオへ.jpg 先日、親しくしていただいているブロガーさんのお父様が急逝された。娘と父親というただですら難しい関係に苦悩し、ご本人でなければ分かり得ない厳しい内的葛藤を抱えながらも、誠心誠意仕えてきたお父様の死。これからも延々と続くと思われた報われぬ努力が突然に途切れた娘さんの心中は計り知れない。お父様のご冥福を祈り、娘さんの労苦に心からの敬意を表したい。

 親子といえども個性や世代による価値観の差は時として軋轢を生む。昭和と呼ばれる60余年は激変の時期であり、戦前と戦中戦後世代、高度経済成長期の世代、そしてその後の世代では、人生の基である少年時代の様相がまるで異国であるかの如くに違う。違った世代に生まれた者同士が親子であるためには、互いを認め合うというよりも、互いの間に乗り越えられない不一致のあることを容認せざるを得なかったのだ。
 だが、それだけに異質なものと同居する知恵と忍耐を、昭和生まれは身につけている。いかに乗り越えられぬ食い違いがあろうとも、決して排斥してはならないことを昭和生まれは知っている。価値観の多様化と国家の威信喪失の後には、揺り戻しとしてのナショナリズムが待ち受けている。だが、ことの是非を云々する前に、日本が既に既婚者の17人にひとりが国際結婚という多文化共棲国家になっている事実は受け入れなければならないのだ。
 経済事情に引きずられるように政治に地殻変動が生まれようとしている。平成にあって昭和生まれの真価が問われるのはこれからなのではないか。
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見せ物小屋とヘビ女 [その他]

ヘビ女1.jpg ぼんくら少年は両親の都合で、通算して2年余りを福島の温泉町で過ごした。率直に言って、あまり良い思い出はない。親元を離れなきゃならなかったし、今じゃ想像も出来ないほど当時は都会と田舎では言葉も生活様式も外国並みに違っていたし、違っていること自体が排斥の理由となる時代でもあった。
 先生もグルになっての集団のイジメに遭いながらも少しずつ友達が出来はじめた頃のこと、地域で長い伝統を誇る祭りがあった。町中を太鼓の鳴り響く屋台が行き来する勇壮な祭りは各地からから大勢の観光客を集め、祭りの中心となる神社の境内には、たくさんの露店に混じって幽霊屋敷や見せ物小屋が建ち上がった。
 裸電球やスポットライトの光が彩る華やかな夜の景色とは真逆に、昼間の境内は人もまばらで物憂げなムードが漂う。学校が休みになることもあって、スマートボールや射的の客も大半は子供たちだ。的屋のおじさんたちも遊び半分。当然のように見せ物小屋もガラガラで、内容も子供たちに合わせてくれたのか、昼間の演目に鶏やヘビの生き血を飲むような残酷な見せ物は外されていた。
お化け屋敷.jpg 好奇心の強いぼんくら少年にとって、見せ物小屋は、当時の愛読書だった『プリニウスの博物誌』そのもので、小遣いを使い果たしてでも観たい出し物が目白押しだった。人間火炎放射器や箱抜けなどの奇術やヘビ女、ドッグショー、奇形の動物たちが舞台に現れては消えていく。あれは、引田天功が大枚はたいて創り出すイリュージョンが安っぽく思えるほどに、いかがわしく、幻想的だった。
 6年生の秋のことだ。祭りを観たくて福島を訪れたぼんくら少年に、ちょっとしたサプライズが待っていた。見せ物小屋の裏手をブラブラしていたら、テントの楽屋口が半分めくれているのが目に飛び込んできた。好奇心に駆られて中を覗き込むと、そこには大きなニシキヘビを肩に載せたヘビ女がゴザの上にぺたりと座っていた。目が合うと、ヘビ女がおいでおいでをする。
「ちょうど遊んでやってたんだ。抱かせてあげるからおいで」
 重いから座ったほうがいいというので、靴を脱ぎゴザの上に座ると、ヘビ女はぼんくら少年の肩にヘビを載せてくれた。重い! 頭を撫でてやってと言われたけど、体を支えるのが精一杯でとても無理だ。
「坊やは力がないねぇ! アタシの膝の上に乗んな」
 言われるままにちょこんと膝に座ると、ヘビ女は自分の肩にヘビを載せたまま、ぼんくら少年を抱きかかえるようにしてヘビを触らせてくれた。ヘビは思いのほか可愛かった。頭を撫でてやると、舌をチロチロと出しながらじっとしている。そして止めると、おねだりをするように頭を左右に振るのだ。肌がヌルヌルしていなくて乾いていることや、体温が高いこともその時に知ったんだけど、ぼんくら少年の心中はヘビとの付き合いを楽しむどころではなかったのだ。何故かというに、ぼんくら少年が母親以外の女性から抱きしめられたのはこれが初めてだったし、その時ヘビ女は着物がはだけてトップレスの状態だったからだ。体にガッチリと巻き付いた白いふくよかな腕から立ちのぼるドーランと汗の入り交じる匂いと、薄いシャツを通して伝わってくる乳房の感触で半分、頭の中が白く飛んでいたわけで。
ヘビ女2.jpg 長い時間だったような気がするんだけど、実際は数分のことだったかもしれない。ヘビ女がぴたりとお喋りを止めたのでチラリと見上げると、彼女は無言で泣いていた。彼女が若いお姉さんであることにも気付いた。どうしていいか分からずにそのままでいたら、やがて彼女の腕の力が抜けた。
「もういいだろ。これ以上は金をもらうよ」
 ぼんくら少年はフラフラと立ち上がると、礼もそこそこにテントを立ち去った。見せ物小屋を観るために来たのに、どうしてか気が重くて、結局、一度も小屋に入ることもなく帰京してしまった。以来、今日のこの日まで見せ物小屋に入ったことはない。もしかすると、ヘビ女のお姉さんも幻想だったのだろうか。






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ナショナル坊やという変わったトモダチがいた [その他]

ナショナル坊や2.jpg ぼんくら少年が福島に住んでいた時は自宅から2軒目がナショナルの電気屋さんで、店頭にはお約束の『ナショナル坊や』が立ちん坊をしていた。
 別に関心のあるキャラではなかったんだけど、登下校時には必ず目に飛び込んでくるもんだから、いつの間にか坊やの頭をポンと軽く叩いて、
「おはよー」
 とか、
「ただいまぁ」
 なんて声をかけるようになっていた。不思議なもので、日によって坊やの顔は楽しげだったり、シュンとしているようにもみえたり、時には意地悪にみえることもあった。その時のこちらの気分を坊やに投影してたのかも知らん。
 ある冬の日、吹雪の中を下校した時のことだった。電気屋さんの軒先には、いつものようにナショナル坊やが立っていた。強い風のために粉雪が体の半分にこびりついて却って寒々としてみえたので、ぼんくら少年は毛糸の手袋をはめた手で雪を落としてあげた。
 その日の晩は激しい積雪だった。ぼんくら少年は、何を思ったのか押し入れから小さくて着れなくなったカーディガンを引っぱり出し、シャッターの閉まった電気屋さんに出掛けていった。そしてナショナル坊やに積もった10センチほどの雪を落とし、カーディガンを着せたのだった。
ナショナル坊や1.jpg 翌日、登校時にみてみると、ナショナル坊やは何も着ていなかった。
「イタズラだと思われちゃったんだ」
 ホントにガッカリ! なんだか面白くない一日になって憮然として下校すると、ナショナル坊やの首から伝言板がぶら下っていた。
「セーター、アリガトウ。ウレシカッタヨ。ボクワ サムクナイカラ シンパイシナイデ。セーターワ デンキヤサンニ アズケタカラ トリニキテネ」
 ぼんくら少年は嬉しくて仕方がなかった。でも気恥ずかしくって取りに行かずにいたら、数日後にカーディガンが家に戻っていた。
panabo[1].gif「お宅のお子さんだろうって電気屋の奥さんが持ってきてくれたわよ。もー何を考えてんだか!」
 ぼんくら母によると、電気屋さんは店の奥からずっとナショナル坊やとぼんくら少年の付き合いを見守ってきたらしく、カーディガンを一目見て合点がいったのだそうだ。いつもなら頭ごなしに叱りつけるぼんくら母も、汚れたことに文句を言った以外は、いつになく優しかった。ぼんくらオヤジにとって昭和とは、こんな時代だった。


■明るいナショナル ナショナル坊や編 1960年代■




■明るいナショナル ナショナル劇場編 1970年代■




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