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ねりアメ [食]

ねりアメ1.jpg 先日、小5のぼんくら次男と一緒に駄菓子屋に行ったら、お店のおばちゃんが、
「ぼんくらさん、これ好きでしょう」
 と、ニヤニヤしながら袋を手渡してくれた。中には淡いピンク色のチューブみたいなものと割り箸が入っている。袋には「当たりくじ付 ねっておいしい メリー ねりあめ」という文字が印刷されていたので、中身が『ねりアメ』だってことは分かったんだけど、記憶を呼び覚ましてくれたのは描かれていた得体の知れない3匹の動物(?)たちだった。40年も前の記憶なのに鮮やかに思い出せたので、
ねりアメ2.jpg「どうやって食べるの?」
 というぼんくら次男の問いにも、あっさりと実演して答えることが出来た。先ずアメをチューブからしぼり出して割り箸の先端に巻き付けるように付け、後は2本の端を広げたりくっ付けたりしながらアメを練っていく。こうすることで水飴に空気が混じって見た目には白濁し、垂れ落ちない程度に堅くなって、味もまろやかになるんだけど、そんな理屈は子どもたちには無意味で、とにかくこねくり回すことが楽しかったよね♪ そのせいなのかな、棒の先に初めっから団子状に付いたねりアメもあったのに、ぼんくら少年は自分で練るタイプのほうが好きだった。
ねりアメ3.jpg このねりアメを製造しているのは愛知県豊橋市のメリー鈴木製菓だ。豊橋近辺はアメの原料となる良質のサツマイモの産地で、メリー鈴木製菓も本来は『たんきりアメ』の製造元で、ねりアメは昭和25年(1950)に製造を始めている。よく駄菓子というと「質の悪いお菓子」だと思い込んでる人がいるけど、ことメリー鈴木製菓のねりアメに関しちゃそれは当てはまらない。
 ねりアメは、大人が有り難がって食べてる高級品のアメに匹敵する手間ひまをかけて作られているんだよ。焦げ付きやすいので大手メーカーでは敬遠されている直火釜を使って、煮詰まり方や味を職人さんの舌で確かめながら丁寧に作られているんだ。出荷の時期に合わせて、子どもたちがチューブからしぼり出しやすい固さになるように、寒い時期には水分を多めに、逆に暑い時期には柔らかくなり過ぎないように水分を控えて製造するというきめ細かな配慮がなされている。機械化されているのはアメをチューブに詰める工程だけ。チューブと割り箸を袋詰めする作業はすべて手作業だ。
ねりアメ4.jpg ところで、ぼんくらの記憶を甦らせてくれた3匹のキャラクターには、ちゃんと名前が付いているそうだ(笑)。写真の左から順に『メイメイ』『チャ太郎』『ペペリンコ』なんだって! ぼんくらオヤジにとっては40年目にして知った真実だったんだけど、みんなは知ってた?
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B級玩具傑作選 - 風船玉(『プラバルーン』『トラバルーン』) [遊び]

プラバルーン1.jpg 風船玉で遊んだことはある? 商品名でいうと『プラバルーン(オンダ)』や『トラバルーン(とらや)』が有名かな。あと『プチバルーン』とか『ポリバルーン』なんて商品もあるよ。
 臭いも形状もセメダインにそっくりな粘りけのある液体をミニサイズのアルミチューブから押し出し、付属のストローに付けて息を吹き込むと、シャボン玉のようにプーッと風船が膨らむ。適当な大きさに膨らませたらストローの根元をクリクリと回して吹き口を閉じ、ストローから外せば風船が出来上がる。
 この液体の正体は酢酸ビニール樹脂をエタノールで溶かしたものだ。ボクらが子どもの頃は酢酸エチルという有害物質が溶剤に使われていたこともある。シンナー類のトルエンを溶剤に使っていたものもあって、公園で遊んでる時に強いシンナー臭が辺りに漂って「あ、誰かが風船玉で遊んでるな」と分かることだってあった。だから友達によっては、
プラバルーン2.jpg「気持ち悪くなるからイヤだ」
 なんて嫌がる子もいたぐらいで、場合によっては危ない遊びだったのかもね。そういや、この遊びをやってた時はハイな気分になってたような気もするな(笑)。それでも、割れないシャボン玉が現実のものになったような気分になれて、やっぱり楽しかった。風船を透かして見える世界はとてつもなく面白かったしね♪
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電動鉛筆削り器 [文具]

電動鉛筆削り1.jpg 電動鉛筆削り器。これ、子どもの頃は欲しくてね、持ってる友達が近所にいて羨ましくて仕方がなかった。弟妹と一緒になって何回か購入を提案したんだけど、毎回あっさりと拒否されちゃった^^; こんな高価な道具を購入して鉛筆を削る意味がないという費用対効果を問われりゃ、そりゃあ返す刀がござんせん!
 なのでどうしていたかというと、わざわざ電動鉛筆削り器を持ってる友達の家まで出かけていって鉛筆を削ってたんだよね(笑)。友達がいてもいなくても、
電動鉛筆削り2.jpg「おばちゃぁ~ん、鉛筆削らせてぇ!」
 と玄関で一声かけて上がり込んじゃうんだから傍若無人もいいところだった^^; それもぼんくら家の子ども3人が入れ替わり立ち替わり出入りするんだからホントに迷惑だったと思うよ。優しい家族で文句ひとつ言わずにいてくれたけどね♪
 でも、この電動鉛筆削り器って、差し込んでる間はじゃんじゃん鉛筆を削り続けるんだよな^^; ボーッとしてたり、削る快感に負けると、新品がみるみるチビた鉛筆になっちゃう。言うなれば大量消費時代の申し子みたいなお化けアイテムでもあったのだ。昭和40年代に大流行したスチール製学習机の中には電動鉛筆削り器が装備されてるものあったけど、使ってた人はいる?
電動鉛筆削り3.jpg 昭和30年代の前半に登場したといわれる電動鉛筆削り器だけど、正確にいつ誰が発明したのかは今のところ分からない。昭和50年代にエコに対する関心が高まるにつれて著しい衰退をみせたものの、平成に入ってから削れ具合を自動認識して動作をストップさせる機能が標準装備されるようになって、再び人気を取り戻しているようだ。鉛筆自体が昭和の頃ほど使われていないからブームにはならないだろうけどね。


■蒸気機関による鉛筆削り器。次は原子力かいな^^;■


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ハウス『プリンミクス』(BlogPet)

ぼんくらオヤジの「ハウス『プリンミクス』」のまねしてかいてみるね

今でも定番商品のCM大場久美子編1977年(1964)年■

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

ハウス『プリンミクス』 [食]

プリンミクス.jpg 今でも定番商品のハウス『プリンミクス』。これってお湯だけでカンタンに作れたから、子どもたちだけでよく作って食べたなぁ。母親が作ってくれる本格的なプリンみたいな美味しさは望むべくもなかったけどね。
 プリンミクスはハウス食品が昭和39年(1964)年に発売した長寿商品で、業界では『ケミカルプリン』と呼ばれている種類に属している。ゼラチンなどのゲル化剤を固めて作るわけで、実体はプリントいうよりもババロアに近い。
 作り方もいたってカンタンで、70度程度のお湯でプリンミクスをよく溶かし、さらにミルクかお湯を規定量まで加えて冷蔵庫で冷やせば、1時間程度で出来上がる。弟妹や友達とワァワァ騒ぎながら作り、ひとしきり遊んだ頃には食べられたのでホントに重宝したし、楽しかった♪
 プリンミクスの他にも『フルーチェ』や『ゼリエース』『シャービック』にも随分とお世話になったよね。いずれも現行商品で頑張ってるよ。シャービックみたいに季節販売になったものもあるけどね♪


■プリンミクスのCM 大場久美子編 1977年■


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マブチの水中モーター『S-1』 [遊び]

S-1_1.jpg 風呂場は子どもたちにとってただ身体を洗う場じゃなく、やっぱり遊び場でもあるのだ。ぼんくら少年と弟妹たちもも例外じゃなく、周期的に母親がヒステリーを起こして片付けさせるほど大量のオモチャを風呂場に持ち込んでいた。
 その中で特にぼんくら少年のお気に入りだったのがマブチの『水中モーターS-1』だ。水中で動作する魚雷か潜水艦を思わせる形のモーターで、スクリューと舵を装備し、防水された内部にはモーターと電池ボックスが仕込まれていた。単体ではあっさり沈んじゃって風呂桶の底でグルグルのたうち回るだけなんだけど、備え付けの吸盤か専用のマウントで船などの模型の底に取り付けると、本来なら動力を持たない模型がスイスイと走ってスゴく楽しかった。
S-1_2.jpg ぼんくら少年のお気に入りは、洗面器や水遊び用のアヒルの底に水中モーターを付けて泳がせることだった。水の抵抗が強すぎて動きは緩慢だったけど、風呂場のサイズからするとちょうどいいスピードだったし、なんといっても弟妹が面白がってくれた(笑)。
 昭和42年(1967)に発売されたS-1だけど、平成10年(1998)に惜しまれながら30年の歴史に幕を閉じた。発売当初は青と白、昭和46年(1971)からは赤と白のツートンカラーになったんだけど、覚えてるのはどっち? 模型の付属品には全体が灰色のものもあったよ。
 S-1は無くなっちゃったけど、平成18年(2006)にはタミヤから復刻版が発売されているので、今でも水中モーター遊びは出来るよ♪ 小さいお子さんやお孫さんがいるんなら買ってあげると喜ぶかもね^^。

お知らせ: 本日はヤボ用でブログ訪問が出来ません^^; 明日は必ず伺いますのでお許しを~[あせあせ(飛び散る汗)]


■タミヤの水中モーターで遊んでます。S-1とまったく同じ遊び方♪■



■タミヤの水中モーターのデモ。遊び方が進化してますね!■


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アンディ・ウォーホルがCMになった時代 [テレビ]

アンディ・ウォーホル1.jpg 今日は小ネタで。明後日まではこんな感じになっちゃうかな^^;
 昭和58年(1983)から約1年間にわたって放送されたTDKビデオカセットテープのCMには度肝を抜かれた。ポップアートの大御所アンディ・ウォーホルがテストパターンの映ったテレビを肩に背負って、
「アカ・ミドォーリィ・アオ・グンジョーイロ・キレイ」
 と奇妙なアクセントで喋ってるんだもの。内容的にどうのこうのという前にインパクトが抜群だった。個人的にはあんまりピンとくるアーティストじゃなかったんだけど、4年後の昭和62年(1987)に何とも不可解な死を遂げたこともあってミョーに頭に残る存在になっちゃった。評価の分かれるところだろうけど、昭和のアートシーンに多大な影響を与えた人物だったことは間違いのないところだよね。
「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」
アンディ・ウォーホル2.jpg 芸術の内面性をある種の「逃げ」とみたんだろうか。まるで自身と作品との関連性を拒絶するかのような在り様は徹底したものだった。
 CMで音楽を担当したのは、コンポーザー、アレンジャー、プロデューサーで自身トランペット奏者でもある三宅純。デビューアルバム『JUNE NIGHT LOVE』の収録曲2曲がCMに起用されている。これがきっかけで三宅は業界で知らぬ人のいないアーティストとなり、担当したCMは現時点で2,500作を超えているっていうんだからスゴいよね。


■TDKビデオテープのCMバージョン2 アンディ・ウォーホル 1983年■


■CMのバージョン1、バージョン2のパロディ版(ひょうきん族だよ♪)■


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連想ゲーム [テレビ]

連想ゲーム1.jpg ぼんくら一家はあまりテレビを観る家じゃなかった。父が基本的に好きじゃなかったってことがいちばんの理由で、食事の時間にテレビを観るなんてことは決して許してもらえなかった。当時はそうじゃない家庭が羨ましかったけど、普段は書斎に籠もりっきりの父とお喋りが出来るのは食事の時間ぐらいだったし、仲のよい家族でいられたのはテレビ抜きの団欒のおかげだったかもしれないと今じゃ感謝してるけどね。
 その一家が水曜の夕食を早々に切り上げて、家族全員で観ていた番組がある。NHK総合テレビで昭和44年(1969)から平成3年(1991)まで22年間の長きにわたって放送された『連想ゲーム』だ。
連想ゲーム2.jpg 男女(紅白)チームの対抗戦で、チームのキャプテンが出したヒントから連想する単語を5人のメンバーで当てるというシンプルなゲームが基本で、それ以外にも『勝ち抜きゲーム』や『3ヒントコーナー』『ワンワンコーナー』『1分ゲーム』なんかがあった。キャプテンがヒントを3つ出し、チーム全員でことわざや四字熟語を当てる3ヒントゲームや「ワンワン」「ニャンニャン」などの反復語を当てるワンワンゲームは家族でも随分やって遊んだなぁ!
 司会は、初代の青木一雄からラストの徳田章まで9人のNHKアナウンサーが担当した。6代目は松平定知さんだったんだね。覚えてる?
 歴代のキャプテンも顔ぶれを見ると懐かしいよ。赤組は初代の中村メイコから始まって江利チエミ、天地総子、水沢アキ、中田喜子、藤田弓子、白組は加藤芳郎、小沢昭一、三橋達也、渡辺文雄と目まぐるしく交代した後に、昭和47年(1972)から加藤芳郎が再登板し、以降の20年間を番組の顔として活躍することになる。
連想ゲーム3.jpg レギュラー陣も分厚い布陣で、赤組はロミ山田や和田アキ子、坪内ミキ子、檀ふみ、市毛良枝、岡江久美子、マッハ文朱、中井貴恵、田中理佐、中村あずさらが、白組は坂本九、田崎潤、沖雅也、蟇目良、江守徹、大和田獏、水島裕、宍戸開、林家こぶ平(現林家正蔵)らが次々にレギュラー陣を務めた。大和田漠と岡江久美子はこの番組が縁で結ばれたそうな。
 当時はビデオテープが高価だったこともあって、番組終了後にマスターテープが使い回されちゃったこともあって、NHKアーカイブスで保存されているのは昭和59年(1984)5月23日放送分がいちばん古いんだって! 赤組のキャプテンが中村メイコから水沢アキまでの放送分は、もうボクらの記憶の中にしかないってことだね。


■連想ゲーム オープニングの音楽が懐かしいね♪ 1989年■



■連想ゲーム 勝ち抜きゲームの様子 1988年以前■


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波瀾万丈だった『味の素』 [食]

Green Coca-Cola Bottles.jpg 昭和58年(1983)に出版された南伸坊の著書『モンガイカンの美術館』に、『味の素』の瓶が何段にもわたってズラリと並んだイラストが載っていた。これはアンディ・ウォーホルの有名な作品『緑のコカ・コーラのボトル(1962)』のパロディだったわけなんだけど、その理屈が面白かった。伸坊さんに言わせれば、アメリカ人にとってコーラの瓶は生活に密着したありふれたアイテム。アメリカ人にこの作品がどう見えてるのかを擬似的に感じるには、コーラの瓶を日本人にとって身近でありふれた瓶に置き換えてみればよいのだった。
 平成生まれの人にはまったくピンとこない話だよね、これ。でも昭和生まれの人にとっては、あのずんぐりしたボディと赤いキャップ、そして筆書きで味の素と銘の入った瓶は、たしかに食卓の一部と化すほどに日常生活に密着したアイテムだった。
味の素1.jpg 味の素は世界に冠たるうま味調味料だ。うま味の元となるグルタミン酸にイノシン酸、グアニル酸などを加えて生成した結晶で、これを調理段階で投入したり、料理や食品に直接ふりかけたりして使う。ぼんくら少年が福島にお世話になっていた頃、友達の家に食事のお呼ばれをすると、漬け物なんかは食べる直前に味の素をどっさりとかけてた。ところで、
「うま味調味料って何よ?」
 という昭和生まれのためにちょっと解説。うま味調味料とは、ひところ広く使われていた化学調味料のことだ。そもそも化学調味料という言葉は、昭和30年代にNHKが商標としての味の素を指すために作り出された言葉だったんだけど、やがて人工的に作り出された調味料全体を指すようになったんだよね。
 ところが1980年代に巻き起こったグルメ&健康ブームの頃から、化学調味料は人の味覚を損ない、発がん性などの危険をはらむ製品もあるというマイナス・イメージが先行するようになって、飲食店なんかじゃ、
「当店は化学調味料をいっさい使用しておりません」
 なんて貼り紙をするところも出てくる事態になった。今みたいにネットがあるわけでもなければ風評被害なんて概念もなかった時代だったから、特に味の素にとっては、これは深刻な問題だった。
 おりしも昭和60年(1985)に「うま味=umami」が学術用語として認められるようになったのを機に、うま味の主成分であるグルタミン酸ナトリウムの生産に携わる業界では、化学調味料という用語を廃してうま味調味料と呼ぶようになったんだよ。
味の素2.jpg「味は甘・酸・塩・苦が基本じゃん。うま味なんて、この4つの味覚が組み合わさったものに過ぎないよ」
 なんて思うかもね。実際に東京帝大(現東京大学)の池田菊苗教授が明治41年(1908)にだし昆布から発見したグルタミン酸を、第五の味「うま味」として提唱した時に、欧米の学者達はそう考えて相手にもしなかったんだな。本当の意味で池田教授の主張が証明されたのは、平成12年(2000)に舌の感覚細胞にグルタミン酸受容体が発見された時だったわけで、認知されるまでに90年以上もかかった末の大金星だったんだよ。日本人が古来から感じていた「出汁がきいていない」っていう実に微妙な味覚が気のせいなんかじゃなかったことが世界的に認められた瞬間でもあったんだからね。
 まあ海外だけじゃなくって、国内でもうま味調味料が愛用されながらも、どこかで雲散臭がられていたのは事実で、明治42年(1909)に発売されて以来、味の素は様々な風評被害の餌食となってきた。
 1917年(1917)頃には原料にヘビを使っているというデマが流れ、これを宮武外骨が『滑稽新聞』に取り上げたために風評被害が拡大し、売り上げが激減する事態となった。この危機は、折しも発生した関東大震災のおかげで沈静化したものの、その後も人毛原料説などがまことしやかに語られていたようだ。
 1970年代前後には石油原料説が飛び交ったが、これは部分的に本当だった。グルタミン酸を石油由来のアクリロニトリルから生成していた時期があったのだ。現在ではサトウキビ由来のものが使われてるけどね。
 他にも、
「味の素は消費を増やすために、フタの穴を大きくしているらしい」
「あるドキュメンタリー制作会社のスタッフが人食い人種に味の素を舐めさせたら『人肉の味がする』と言ったそうだ」
 などなど、まあデマを挙げたらキリがない。
 消費圏の拡大によって、平成12年(2000)にはインドネシアで、味の素の生産過程でブタ由来の成分が使われているとして大騒ぎになったことも記憶に新しい。
味の素3.jpg こうした荒波を乗り越えて今年、味の素は晴れて100才の誕生日を迎えた。記念に瓶のデザインも変わったんだけど、気が付いた? 売れっ子プロダクト・デザイナーのマーク・ニューソンのデザインだよ。シンプルだけど飽きがこないって感じだね。筆書きも縦書きにしたところが憎い(笑)。散々なことを言われながらも100年間を乗り切ってきた日本独自の調味料なんだもん。これからも応援してあげようよ♪


■味の素ハイミー 声は高峯秀子と市原悦子 1980年■



■味の素 小栗旬編 味の素をホントに上手に説明してます♪ 2008年■



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さようなら、学研の『科学』と『学習』 [その他]

学研の科学.jpg 学研の小学生向け学習雑誌『科学』と『学習』の休刊がついに決まった。『科学』(月刊)は来年2月発売の3月号で、『学習』(現在は季刊)は今月発売の冬号で休刊となる。休刊というと、廃刊とは違って一時的に発刊を停止するかのような響きがあるけど、実際は雑誌コードのみを温存するための無期限休刊で、実質的には廃刊と言っていい。
 昭和47年(1972)以前に小学生だった人なら、月に一度、昼休みや放課後の体育館なんかで、定期購読をしている児童に先生たちが雑誌と付録をせっせと手渡していた光景を思い出せるだろう。ぼんくら少年は『科学』を購読していたよ♪ 雑誌の読み物も面白かったけど、どっちかっていうと付録に惹かれてたな。たぶん大方の小学生もそうだったんじゃなかろうか。
学研の学習.jpg 雑誌と付録を受け取る時の、ある種高揚した気分は今でもはっきり覚えてる。いつもは友達とワァワァ騒いであちこちに寄り道しながら下校するのに、この日ばかりは自宅に直帰して自室に籠もり、弟妹の出入りも厳禁して付録の箱を開けていた。以前紹介した日光写真のような実験キットだったりすると、秘密基地(友達の家が経営していた酒屋の倉庫)で友達と一緒に遊ぶこともあった。だから秘密基地には『科学』や『学習』の付録の残骸がいつも転がっていた。
教材1.jpg 『学習』は戦後間もない昭和21年(1946)の創刊で、国語と社会が中心の雑誌だった。読み物の比重が『科学』に比べてダントツに高く、山中恒の児童文学作品や石ノ森章太郎やみなもと太郎、園山俊二のマンガが掲載されるなど充実した内容だった。
 『科学』は算数と理科が中心の雑誌で、昭和32年(1957)の創刊だ。先にも書いたように教材付録が充実していて、磁石キットやカブトエビの飼育セットなんてものから、顕微鏡やラジオ、レコードプレイヤーなんていう当時の子どもたちにとっては信じられないものが付いていた。もちろんそれなりのものだったけどね(笑)。掲載されたマンガからは『はじめ人間ゴン(園山俊二)』や『チクタク大冒険(石ノ森章太郎)』などなど、ヒット作も誕生したよ。
教材2.jpg 1970年代後半のピーク時には両誌併せて670万部を売り上げていたっていうんだから、当時の小学生の3人に2人は購読していた計算になるわけで、ある意味、これは異常な数字だといえる。
 この最盛期に先立つ昭和46年(1971)には、特定の雑誌を公立校が仲介販売と配布を行うことに対して日本消費者連盟からクレームがつき、翌47年(1972)には公正取引委員会の勧告を受けて、いわゆる『学研のおばちゃん』による訪問販売に転換している。ピークの山がその後にきているのは不思議かもしれないけど、これは学研のおばちゃんがしばらくの間、家庭だけじゃなく学校への訪問販売を続けていたためで、やがてこれも批判を浴びて継続が難しくなり、長期に及ぶ衰退期に移ることとなった。
教材3.jpg 結局、少子化や共働きの増加による主婦の在宅率の低下で訪問販売が難しくなったことや、訪問販売という非効率な形態がアダとなって、最近ではピーク時の10分の1を大きく下回る低迷振りだったそうだ。版元の学研は、前年度の連結決算が21億円もの営業赤字を計上する危機に陥っている。たとえ看板雑誌であっても打ち切らざるを得ない状況だったのだ。この度の休刊は「時代の流れ」の現れには違いないんだけど、業界の構造不況と、資金繰りを海外の投資ファンドに頼らざるを得ない出版社の厳しい経営環境が透けて見えるのは恐ろしいことだ。
教材4.jpg 活字文化は一国の文化の根幹を成す。それを担う業界が今や、海外ファンドの意向に沿わざるを得ない状況に追い込まれているのだ。特に学研の筆頭株主になっている投資ファンドはシンガポールの会社だが、設立したのはあの村上ファンドの元ファンドマネジャーなんだから話はもっときな臭い。昨年は株主総会を間近に控えた時期に、業績不振を理由に社長の解任を求める株主提案をちらつかせて赤字事業からの撤退を迫っている。一見、正論を振りかざして企業を強請り、利益を吸い取ってポイ捨てする手法は、かつての村上ファンドとまったく変わっていない。マスコミが注目しないのは村上ファンドの轍を踏まないように、地味な企業を狙い撃ちしているだけのことだ。
 昭和が消えること。これを単に安っぽいノスタルジーと片付けることがどんなに危険なことかを暗示しながら、『科学』と『学習』は歴史の闇に消えようとしている。
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