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魔法瓶の不思議 [テクノロジー]

魔法瓶1.jpg 子どもの頃に不思議で仕方のなかった言葉が『魔法瓶』だ。魔法瓶を擦ると巨人が飛び出してくるからなのか。巨人は出てこなくても願いが叶うんだろうか。それとも昔、魔法使いが使ってたからそんな名前が付いたんだろうか。カエルやヤモリと毒草を鍋に放り込み、タイガーの魔法瓶でお湯を足す魔法使いの姿を想像しながらよく魔法瓶を磨いていた。何も起きなかったけどね。
魔法瓶2.jpg 原理を考えてみれば、たしかに魔法の瓶だ。容器に入れたお湯が冷めちゃうのは、お湯の熱が容器の内壁から外壁に移動し、外気に逃げてしまうからだ(熱伝導)。また熱が電磁波として容器に吸収されちゃったり外へ逃げちゃうのも大きな要因だ(熱放射)。これを容器を二重にして、更にその間を真空にすることで熱の移動を遮断しちゃうわけだ。さらに内壁を鏡面にすることで光の仲間である電磁波をお湯に戻す工夫も施し保温を実現してるんだ。それでも実際には、内壁と外壁の接点はあるわけだし、完全な真空状態を人工的に作り出すこともできないので、どうしても徐々に熱は逃げていっちゃうけどね。同様に完璧な鏡面を作り出すことも不可能なので、完全に電磁波を封じ込めることも不可能だし。だから夕飯時に魔法瓶に注いだ熱湯は、残っていたとしても翌朝にはぬるま湯になっちゃってたよね。
魔法瓶3.jpg 昭和30~40年代は電気ポットなんてハイカラなものは普及してなかったから、デュワー瓶(テルモス瓶)と呼ばれる内側に銀メッキを施した二重構造のガラス瓶が主流だった。だから手を滑らせて床に落とそうもんなら、ガチャンというくぐもった音がして、振るとカシャカシャ音がしたよね。早い話が、中のガラスが割れて使い物にならなくなっちゃったワケなんだけど、あれは切なかった。大正元年(1912 ※1911年説も有)に大阪の日本電球によって国産初の魔法瓶が製造されて以来、多くの日本の子どもたちが魔法瓶を壊して親に叱られてきたんだもんね(笑)。この悲しい思いから子どもたちが解放されたのは、昭和53年(1978)に日本酸素(現大陽日酸)によって中瓶がステンレス製の真空断熱魔法瓶が開発されてからだ。
魔法瓶4.jpg ガラス中瓶の魔法瓶の生産は昭和48年(1973)をピークに徐々に落ち込み、平成に入ってからはピーク時の5分の1にまで減少してしまった。
 でもね、今でも生産は続けられているんだよ。不思議でしょう? どうしてかっていうと、日本製のデュワー(テルモス)瓶は原料の高価な硼珪ガラスを使っていて滅多なことじゃ割れない強度を誇っているからなんだよね。この高い技術は日本の独壇場。ステンレス瓶じゃなくとも国産品なら心配ないし、保温性の高さでは定評があるのでぜひ、使ってみてね♪
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クリスマス・ケーキのお初はどこ? [食]

クリスマス・ケーキ1.jpg もうじきクリスマスイブだね♪ 予約していたクリスマスケーキ、受け取る日は確認してある? クリスマスイブには、スポンジベースに生クリーム&イチゴのクリスマスケーキを世界中の家庭で食べている。ケーキにともるキャンドルの灯り。メリー・クリスマス! って思いたいところなんだけど違うんだよね。
 何が違うかというと、先ずもって日本で思い浮かべる典型的なクリスマス・ケーキは日本独自のものだってことだ。後で代表的なクリスマス・ケーキを紹介するけど、国や地域によってクリスマス・ケーキは様々なのだ。
 次に違うのは、ケーキをイブに食べるというのも日本独特の習慣だってこと。これは一般的なキリスト教圏ではクリスマスが12月いっぱいと1月の第一週という長い時期を指すのに対して、日本では12月24、25日の2日間だけをクリスマスとみなす考え方が定着しているためだろう。もっとも商業的には11月辺りからクリスマスは始まってるけどね(笑)。
 もうひとつ違うのは、クリスマス・ケーキにはローソクが付きものと考えてるのも日本だけだって言うことだ。もちろん外国でもデコレーションに日本でよく見るようなローソクを使うことはあるんだけど、日本みたいにお約束にはなっていないよ。東欧圏でクリスマスや復活祭に食べるクリーチというケーキには割と一般的にローソクを立てるけど、細長いキャンドルを一本ズブッとケーキのど真ん中に刺して火を灯してるね。
 こんだけ独特のクリスマス・ケーキの習慣を日本に定着させたのは誰だと思う? 答えは不二家だ。創業年の明治43年(1910)に、プラムケーキをフォンダン(アメの衣)でコートしたものにアラザン(砂糖製の銀玉)をトッピングしたものが、日本のクリスマス・ケーキのお初といっていいだろう。これが現在の形に定着したのは大正11年(1922)。折しも不二家がヨーロッパ式のフルーツケーキから英米式のスポンジケーキに軸足を切り替え、ショートケーキの販売を大々的に始めた年に当たる。道理でケーキを切り分けちゃえばイチゴのショートケーキになっちゃうわけだ(笑)。もっともクリスマス・ケーキの習慣が国民的なものになったのは1970年代に入ってからで、これは高度経済成長期が一段落して大人が家庭に目を向けるようになったからではないかと言われてるけど、本当のところは分からない。
クリスマス・ケーキ2.jpg さて、他の国ではどんなクリスマス・ケーキを食べているかというと、日本で有名なのはイタリアの『パネトーネ(panettone)』かな。ドーム型のフルーツケーキで、輸入食料品店では今ぐらいの季節だと店頭に山積みになってるよね。ちょっと知りたいんだけど、ブロガーのMiluさん、ホントにパネトーネがイタリアで一般的なクリスマス・ケーキかどうか、コメントで教えてね♪ たぶん地域によっていろいろなんじゃないかと思うので。
クリスマス・ケーキ3.jpg あとは、やっぱりドイツの『シュトーレン(Stollen)』だろう。これは自分で焼いて食べる人が増えてきたケーキでもあって、ぼんくらがお世話になってるメタボでべそさんも最近、チャレンジして美味しそうなのを焼いてたよ(ご覧になりたい人はこちら)。ドイツ語圏に長いこといたぼんくらオヤジにとってもいちばん馴染み深いクリスマス・ケーキだ。
クリスマス・ケーキ4.jpg 他にも、フランスでは『ブッシュ・ド・ノエル(buche de noel)』という木の幹を模したロールケーキと形のよく似たものがある。見た目のデコレーションは、これがにほんのものにいちばん近いかもしれない。ぼんくらの叔父一家が住むリジューでも、12月になるとパン屋さんのショーウインドウにいろんなブッシュ・ド・ノエルが並んでもの凄く楽しいよ。
クリスマス・ケーキ5.jpg ドーバー海峡を渡った先のイギリスには『ミンス・パイ(mince pie)』もあるね。フルーツを仕込んで焼いた小型のパイ(デカイのを切り分ける場合も有)で、名前の通り、元々は挽肉を焼き込んだパイだった由。ただイギリスでは、伝統のフルーツケーキを砂糖でコーティングしたものや、もはやケーキとは無関係のクリスマス・プディングまでが乱立していて、「クリスマスといったらこれでしょう!」って言い切っていいものかどうかは、ちと怪しいかな。
 さて、今年のぼんくら一家はというと、どうやらお手製のアップルパイに生クリームとバニラアイスを添えて頂くことになりそうかな。アップルパイは誰が作るのかって? 家族全員で作るよ♪ あなたの温かい家庭に、病室でクリスマスを迎えるあなたに、共にクリスマスを祝う相手のいないあなたに、明日の生活費にも事欠くあなたに、仕事も家もなく街中を彷徨うあなたに、そして死の飢えに苦しむあなたに、等しく恵みが与えられますように。メリー・クリスマス!


■ジョン・レノンの"Happy Xmas (War Is Over)"■

http://www.youtube.com/watch?v=s8jw-ifqwkM


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廃屋での恐怖体験 [その他]

廃屋1.gif 子どもの頃の記憶で、どうしても説明のつかないものってない? ぼんくらオヤジにはひとつだけ、どう解釈していいものか見当のつかない記憶がひとつだけあるんだよね。
 ぼんくら少年の住んでいた昭和40年代の世田谷には、廃屋が点在していたんだよ。多くは主を失った農家で、敷地も家屋も結構大きかった。
 京王や小田急の沿線なんて、昭和30年代の後半あたりまでは新宿をちょっと出れば田畑と宅地群が混在する、今でいえば八王子の外れみたいな光景が広がる地帯だったのだ。ぼんくら少年が走り回っていた昭和40年代には、経済成長に伴う東京の急激な膨張に伴って、駅周辺は戸建て住宅とアパートがぎっしりと建ち並び、所々に空き地と土管のあるドラえもんの世界に変貌していたんだけど、それでも駅から10分も歩けば、先に書いたような風景が広がっていた。

廃屋3.jpg「出るんだよね、あそこ」
 ある日の下校時に始まったたわいも無い怪談話から事は始まった。「あそこ」とは、羽根木公園(世田谷にある大きな公園)近くにあった廃屋のことだった。周囲を打ち棄てられた畑と竹林に囲まれた大きな家で、敷地と道路の際に数カ所、「危険。立ち入り禁止」という看板が立っていて、子どもたちの間では有名な場所だった。
 なんでも友達の兄貴が侵入したところ、白装束の男と鉢合わせして追いかけられたというのだ。無事に脱出することが出来たけど、二度とあんな恐ろしい目には遭いたくないと言っていたそうな。
 バカなぼんくら少年はムラムラと好奇心が湧き上がってきて、
「仇を討ちに行こう!」
 なんぞとワケの分からない理屈を並べて友達を誘ったんだけど、話に乗ってくれたのは、ぼんくらに輪をかけたようなおバカさんのSがひとりだけ。ランドセルを背負ったままで「あそこ」に向かい、気付いた時はふたりで手を握りあったまま、廃屋の敷居をまたいでいた。
廃屋2.jpg 土足で家に上がり込む背徳の喜びに浸りながらも自分たちの重みでギィギィと軋む床に怯えるという相反する感情で頭はジンジンと痺れていた。フスマや障子は誰かが故意にやったんだろうね、ほとんどはビリビリに破かれて床に倒れている。古新聞や食器、ボロボロになった衣類が散らばっていて、どこからかホコリとカビの臭いの混じった湿り気のある風が建物の奥から入り込んでくる。
 玄関から真っ直ぐに伸びる広い廊下を曲がったところに階段があった。Sと顔を見合わせ無言のまま階段を上がる。
 徐々に見えてきた光景は階下とは全く違っていた。きちんとはめ込まれた建具。障子も真新しくひとつとして破れていない。だが、普通の家と違うことがひとつだけあった。障子という障子に赤と黒で不気味な絵が描かれていたのだ。眼球の飛び出した生首や切断された手足、血まみれのノコギリ等々、それはそれは凄惨な絵だった。
 これで逃げ出せばいいものを興奮してたんだろうね、2人は恐る恐る障子を開けたんだ。そこに広がっていた光景、それはだだっ広い畳の部屋にポツンと敷かれた布団。そしてそこには白装束の男が半身を起こしてこちらを睨みつけていたのだ。恐らくはドーランのようなもので顔を真っ白に染めていて、血走った目と唇が妙に赤く浮き出している。そしてヨロヨロと起き上がると、意味の分からない奇声を発して走り寄ってきたのだ。
 その後のことはあまり覚えていない。とにかく文字通り転げ落ちるように階段を駆け下り、後ろもふり向かずに夢中で逃げた。道に飛び出しても恐怖心が収まらず、とにかくいちばん近くにあった友達の家に逃げ込んだのだった。
 後で親にも他の友達にも話したんだけど、誰も取り合ってくれなかった。当たり前だよね(笑)。
廃屋4.jpg それから20年ほどして、同窓会で会ったSに、
「覚えてる?」
 って訊いたら、
「な、あれって勘違いじゃないよな」
 って言ったよ。ホントに何だったんだろう? まだ世田谷に魑魅魍魎の棲みつく余地のあった時代の、ささやかな思い出だ。



■鳥取某所の廃屋 写真集ですが、何気に美しいです♪■


■廃屋の住人 自己責任でご覧ください、ひひひ■


タグ:世田谷 廃屋
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ボンネットバス [テクノロジー]

ボンネットバス1.jpg ボンネットバス。ボンネットを持ってるからボンネットバス。団塊の世代の子ども時代には、バスト言えば即、ボンネットバスを指した。こんな呼び名はキャブオーバーやリアエンジン車が台頭しだしてから付けられたんだよね。ぼんくら少年が幼稚園児だった昭和30年代の終わり頃までは、まだ東京でもチラホラと甲州街道を走ってったよ。懐かしいねぇ♪
「型が古くなりゃ消えるのは当たり前。時代の流れだよ」
 こう思うかもしれないけど、何が古くてボンネットバスが消えちゃったと思う? 
ボンネットバス2.jpg 性能がよくなかったから? いえいえ、現行のタイプに比べてエンジンの保守管理はラクだし、エンジン部の放熱性にも優れ、客室スペースは広く取れる上に静かなんだよ。それに万が一、衝突事故が起きた時にもボンネット部が衝突事故のショックを吸収するため安全性にも優れている。前輪が運転席よりも前にあるため、道幅の狭い区間では運転もしやすい。その証拠に、国内でのボンネットバスの量産が終了した昭和46年(1971)以降も、山間部ではしばらくの間、ボンネットバスが走ってたんだよ。
 こんな利点があるために、例えばアメリカでは、現在でも新型車両の開発生産が続けれられていて、黄色いカラーリングで有名なスクールバスや軍、国家機関、州政府などの公的機関でもボンネットバスは採用されている。
 じゃあ、なんで日本では現行の箱形車両に切り替えられちゃったんだろうか? 答えはカンタンで、エンジン部を客室の下に据えられるリアエンジンバスなどの箱形バスに比べて、単にエンジンスペースが場所をとるボンネットバスは輸送効率が落ちるからだ。輸送コストの削減と大量輸送化を安全や居住性に優先させたワケで、高度経済成長期の日本の在り様が透けて見える。そうして切り捨てられたものまで「時代遅れ」の烙印を押し、忘却の彼方に押しやってしまった果てに日本人が得たものは何だったんだろう。
ボンネットバス3.jpg 昭和59年(1984)、呉市交通局の路線から外されたのを最後に、日本からボンネットバスの定期運行バスは姿を消す。その後は「レトロ」なイメージから主に観光地の話題作りに運行される程度で、本格的な復活の兆しはまったくみられない。その一方で、高い安全性と居住性が売りのはずのリムジンバスでは、その構造故に運転手が命の危険に曝されたままだ。


■札幌市内を走るボンネットバス いすゞの昭和31年製だそうです♪■



■ボンネットバスの運転席 腕木式の方向指示器が懐かしい!■


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B級玩具傑作選 - ブリキのセミ [遊び]

ブリキのセミ1.jpg 昭和を語る上で避けて通ることの出来ないブリキのオモチャ。複雑な動作をするものからただの人形までグレードはピンキリだ。
 ぼんくらオヤジが懐かしく思い出すのは、駄菓子屋で売っていたブリキのセミだ。昭和40年代前半でも1個10~20円で売られていたよね。ブリキの板を打ち抜いて凹凸を付けて着色したもので、裏に取り付けられた鋼の板を押すとペコンペコンと音がした。ただそれだけのオモチャだったので、すぐに飽きちゃ無くしちゃう。でも思い出しちゃまた買っちゃうんだよね^^; 結果、40年後の現在は一匹も手もとに残ってない。え、まだ持ってるって? そりゃスゴいや! ガッカリさせたくないから言っとくけど、骨董価値はないからね。今でも細々と流通してるから(笑)。
ブリキのセミ2.jpg お尻に"MADE IN JAPAN"とある他は、製造元に関する糸口がまったく掴めないブリキのセミ。あの音を思い出す度に、大切にしなかった罪悪感と愛おしさがない交ぜになった切ない気持ちが湧き上がってくる。かつて日本のどこかでブリキのセミを作っていた皆さん、ごめんなさい。そして、ありがとうございました!
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ぼんくら(BlogPet)

きょうぼんくらオヤジと、バージョンを説明した?

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

『シガレットチョコレート』と『ココアシガレット』 [食]

シガレット菓子1.jpg ここは大阪万博の熱気も冷めやらぬ東京某所の酒屋の倉庫。酒のケースで仕切った一角を秘密基地とする悪ガキ小学生どもがUNOで遊んでいる。ぼんくら少年はおもむろにジャンパーの胸ポケットから箱を取り出し、なんとタバコを口に咥えた。ワルなのは知っていたが、そこまで腐っていたとは! そして、あろうことか隣の子に、
「要る?」
 と、箱ごと投げ渡したのだった。
 この頃、秘密基地はおろか、公園でも咥えタバコの少年少女は後を絶たなかった。しかも当時の子どもたちがもの凄かったのは、ひとしきり咥えたタバコを食べちゃうことだった。タバコの種類によってはそのまんまガリガリとカジる場合もあれば、巻紙をひん剥いて食べる時もあった。平成の子どもたちがみたら思わずのけ反りそうな光景だよね。
 昭和に子ども業をやってた人なら懐かしい思い出だろう。ちょっとハイソな家庭の子なら、このタバコの正体は不二家の『シガレットチョコレート』、ぼんくら少年のような家庭の子ならオリオン製菓(現オリオン)の『ココアシガレット』だった。
シガレットチョコレート.jpg 不二家のシガレットチョコレートは昭和35年(1960)に発売された。滑らかな舌触りでミルクたっぷりの美味しいチョコだったんだけど、タバコに模した包装紙が子どもには実に剥きにくい代物で、面倒な時には紙ごとクチャクチャ食べたりしてた(ぼんくらだけかも^^;)。昭和を色濃く反映したチョコレートだったけど、子どもたちに喫煙を奨励しかねないという批判の矢面に立たされ、気付いた頃には姿を消していた。余談だけど、国産のお初は、大正11年(1922)から昭和の初期まで販売されていた森永製菓のシガレットチョコレートだからね。世界初は、恐らくは明治32年(1899)創業のオランダの製菓会社スティンランドがクサいんだけど、残念ながら現時点では未確認だ。
ココアシガレット.jpg オリオンのココアシガレットは現在も健在だよ♪ 先のシガレットチョコレートが70円もした頃に、こっちは10円で買えたから、ぼんくら少年にとってはこっちのほうが馴染み深いんだよね。昭和26年(1951)に大阪の製菓会社オリオン製菓が発売したもので、砂糖とココア、ハッカを原料にした砂糖菓子だ。ぼんくらが世話になっていた頃はココアを芯にしてそれを白いハッカで巻いたものだったけど、今は両方を混ぜたスティックになってる。味も箱も変わってないけどね。あ、違ってることがもうひとつあったよ。今は6本のスティックがちゃんと包装されて箱に収まってるけど、ぼんくらの頃は裸ん坊で箱に入ってたと思う。違ったっけ^^;?
 廃業や倒産が相次ぐ駄菓子屋メーカーだけど、オリオンは「子供が手の届く1個30円という価格」を軸に新製品の開発を続けている気骨溢れるメーカーだ。大阪に行く機会があったらぜひ、地下鉄御堂筋線梅田駅の北口に足を運んで欲しい。オリオンのショーウィンドウがあって、ボクらを楽しませてくれた駄菓子がズラリと並んでるよ♪ おおきに、オリオン! これからも頑張ってや!!


■ココアシガレット 開封して出してみます♪■


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B級玩具傑作選 - スライム

スライム1.jpg ゴミ箱型のポリバケツをひっくり返すと得体の知れない黄緑色の内容物がドロ~っと広がる。テーブルクロスに垂らしても汚れないこの半固形物質は、『スライム』という名前で昭和53年(1978)にツクダオリジナル(現メガハウス第四事業部)から発売され、瞬く間に全国の子どもたちの間に広まった。
 当時小6だったぼんくらオヤジの弟がこれにハマって、家族はホントにエラい目に遭った。椅子の上や靴の中にトラップを仕掛けるものだから気が休まらないのなんの。最終的には姉御の通学カバンに放り込み、彼女から鼻血が出るほどの平手打ちを食らって収束したんだけど、思いっきりこれの上に腰かけた時の何ともいえない感触は未だに忘れられない(笑)。
 スライムは日本での販売に先立つ2年前の昭和51年(1976)に、バービー人形やUNOで有名な米マテル社によって開発販売された。商品は豆科の植物グアルから作られるグアーガムという多糖類の増粘剤とホウ砂の混合物なんだけど、実験なんかではグアーガムの代わりにポリビニルアルコール(PVA)やデンプンを使うこともある。
 家で子どもたちやお孫さんと作ることもできるよ。材料はPVAと表示のある洗濯のりとホウ砂、それに水彩絵の具だけ。ホウ砂は薬局で買えるからね。道具は洗面器と使い捨てのコップが3個、大さじのスプーンが2つあればOK! 
 まずコップに一杯(約200ml)の洗濯のりをコップに注ぐ。次にもうひとつのコップにのりと同量の水を注ぎ、これに好みの絵の具を溶いて色水を作る。そして三つ目のコップには4分の1程度(約50ml)の水を入れて、大さじすりきり1杯程度のホウ砂を溶く。これで準備完了だ。
スライム2.jpg じゃあ作ろうね。まず洗濯のりを洗面器に景気よく入れよう。次に色水を入れてよくかき混ぜるよ。そして最後にホウ砂を溶かした水を少し入れて勢いよくかき混ぜるんだ。すると液体が少しずつドロドロになってくるから、様子を見ながらホウ砂水を入れてかき混ぜ、好みの固さに仕上げてね。これで出来上がりだよ、カンタンでしょう♪
 気を付けて欲しいのはホウ砂に毒性があること。まあ多量に飲み込んでも、吐き気や下痢がある程度で命にかかわるほどじゃないんだけど、子どもたちには決して口に入れないようによく注意してね。それから、残ったホウ砂も子どもたちの手に届かないところに保管して、作る時は必ず大人が立ち会ってあげてね。


■スライムを作ってみよう! 家庭でカンタンにできます♪■



■グミでドラクエのスライムを作ってます。試すと面白いかも♪■



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B級玩具傑作選 - スーパーボール [遊び]

スーパーボール1.jpg 平成17年(2005)に放送されたソニーの液晶テレビ『BRAVIA』のCMは鮮烈だった。25万個のスーパーボールがサンフランシスコの坂を転がり落ちる様が美しい映像となって収まっていたからだ。街の一角を閉鎖して23台のカメラで撮影したという力作はCMの域を超える出来だった。
 このCMを観て子どもの頃を鮮やかに思いだした人も多いだろう。スーパーボールが日本に上陸したのは昭和40年(1965)。同年にフラフープやフリスビーで有名なアメリカの玩具メーカーWham-O Manufacturing Co.が販売を始めたものがアッという間に上陸しちゃったワケで、当時の物流のスピードが現在とさして変わらなかったことが分かるよね。ちなみにスーパーボールは登録商標で、英語では"bouncing ball"と呼ばれてるよ。
 なんでスーパーボールってあんなに跳ねるのかね。力を加えられると変形して瞬時に元のかたちに戻ろうとする『弾性』という性質をゴムが持ってることは誰でも知ってる。この弾性は、曲がりくねったり螺旋状になったバネのようなゴム糸が複雑に絡み合っていることで発生する特性だ。ただ普通のゴムは単に絡み合っているだけなので、衝撃が加えられると繊維がズレることで力を吸収してしまい、弾む力になりにくい。これを薬品(一般的には硫黄)を加えて隣近所の糸同士をくっつけあいズレないようにしてやると、元の形に戻ろうとする力がフツーの状態の何百倍にもなるのだ。単純な原理だけど、これに気付いた人はやっぱり凄いよね。
スーパーボール2.jpg 駄菓子屋でも売ってたけど、金魚すくいのスーパーボール・バージョンが縁日によく出ていたから、あれでゲットした人も結構いるだろうね♪ ぼんくら少年も弟妹と競い合って、いろんな色のスーパーボールを集めて空き缶に貯め込んでたよ^^ 同居していたネコたちともこれでずいぶん遊んだし。ラメ入りのボールを灯りに透かしてみると、まるでプラネタリウムみたいだった。あれ、どうしちゃったんだっけ? もしかすると実家にそのまんまあるのかもしれない。


■ソニー「BRAVIA」CM 2005年■



■ニャンコ VS スーパーボール■


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30年前、何してた? [その他]

1979_1.jpg もうじき2010年だからだろうね、来年だっていうのに山口百恵の引退30周年の記念DVDがじきに出るんだってね! 今年はは近藤真彦のデビュー30周年なのに、こっちは静かなもんだけど(笑)。30年って数字はビミョーで、「もう?」って人もいれば「まだ?」って人もいるだろうね。ぼんくらは両方の気持ちがいっぺんにくる感じで何とも複雑だな。
1979_2.jpg 30年前の昭和54年(1979)は、アメリカと中国の国交が樹立されるという何ともハデな正月でスタートした年だった。お初で切ってみると、1月には初の共通一次試験が実施され、3月には『ズームイン!!朝!』が徳光和夫の司会で始まっている。4月には、平成17年(2005)まで続くことになる藤子・F・不二雄の『ドラえもん』第2シーズンが始まり、西武ライオンズ球場がオープンした。野球のお初ではもうひとつ、11月に広島が球団創設30年目にして初の日本一に輝いているね♪
1979_5.jpg 事件事故では、1月に大阪の三菱銀行北畠支店で人質事件が発生して、犯人の梅川昭美が射殺され、7月には東名高速の日本坂トンネルで追突事故による火災が発生して7人が亡くなった。国外では、3月にスリーマイル島の原発事故が起こり、10月には韓国の朴正煕大統領が暗殺されている。
 ローカルな話題では、2月に福岡市内から路面電車が姿を消し、名古屋では名鉄と市営地下鉄線の相互乗り入れが始まった。また長らく死火山だと思われていた木曽の御嶽山が水蒸気爆発を起こし、山麓に土石流災害を引き起こしたのもこの年だ。
 文化面も見てみようね。先ずベストセラーで特筆すべきはエズラ・F. ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』だ。
1979_4.jpg 流行歌では、ジュディ・オングの『魅せられて』や山口百恵の『しなやかに歌って』、サザンオールスターズ『いとしのエリー』、ゴダイゴ『ビューティフル・ネーム』、ツイスト『燃えろいい女』、桑名正博『セクシャルバイオレットNo.1』、アリス『チャンピオン』、千昌夫『北国の春』、オフコース『愛を止めないで』、竹内まりや『September』、久保田早紀『異邦人』等々。
 映画は、邦画だったら『戦国自衛隊』『ルパン三世カリオストロの城』、洋画は『地獄の黙示録』『ブリキの太鼓』かな。
 TVドラマでは、近藤真彦のデビュー年だってことで『3年B組金八先生』第1シリーズを始めとして、『西部警察』や『必殺仕事人』も放送を開始している。
1979_3.jpg この年に亡くなった有名人には、物理学者の朝永振一郎や作家の福永武彦、奇術師の初代引田天功、作曲家のニーノ・ロータ、俳優のジョン・ウェインらが、逆に生まれた有名人には、堂本光一や堂本剛、森田剛、魔裟斗、崔煕渉、ノラ・ジョーンズ、窪塚洋介、三宅健、奥菜恵、田村裕、蛯原友里、直井由文、ともさかりえ、仲間由紀恵、上村愛子、吉川ひなの、押切もえらがいる。
 さて、こんな30年前だったわけだけど、貴方にとってはどんな年だった? ぼんくらオヤジにとっては、大学を休学して1年以上に及ぶ初の長期海外放浪を体験した年だったよ。差し支えない程度でなくてもいいから(笑)、貴方にとっての30年前、教えてくれない?


■「しなやかに歌って」山口百恵 1979年■



■「3年B組金八先生」第1回 トシとマッチを探してごらん♪ 1979年■



■資生堂「ナツコの夏」 燃えろ、いい女~♪ 1979年■


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