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カップヌードル [食]

カップヌードル1.jpg 昨日に引き続いて今回は日清食品の創業者、故安藤百福さんの生誕100周年を記念して、3月1日にから100円(発売時の価格)で限定販売される『カップヌードル』の話だよ。
 カップヌードルが世に出たのは昭和46年(1971)のことだ。インスタントラーメンの国内市場がだぶつき成長が頭打ちになっていた60年代の後半に、百福さんはその活路を海外に求める意志を固める。これだけ聞くとワンマン社長にありがちな根拠のない思い付きのように感じるかもしれないけど、実はアメリカでチキンラーメンを既に試験出荷して成功の感触を掴んでいたのだ。百福さん本人も昭和41年(1966)にアメリカとヨーロッパを視察して回り、海外に受け入れられる製品のアウトラインを描いてるんだけど、その時の様子が東海道中膝栗毛みたいで面白いんだよね。
 先ず百福さんの目に焼き付いたのは、野外のカフェテリアでサンドイッチを食べたりジュースやコーヒーを飲む人々の姿だった。何に注目したか分かる? 答えは彼らが使い捨ての容器を使っていたこと。
「なんだ、そんなことかよ」
 と思うかもしれないけど、東京オリンピックが終わって間もない頃の日本では、使い捨てるのは割り箸やジュースの自販機の紙コップぐらいなもんだった。だから、紙の容器に満たされたスープをプラスチックのスプーンで食べ、ゴミ箱へポイ捨てする姿は衝撃的だったのだ。
 もうひとつ、百福さんの印象に残ったのは、商談の際の試食の光景だった。ほとんどの場合、商談相手は紙コップにチキンラーメンを砕いて入れ、それにポットの熱湯を注いで、フォークで食べ始めたんだ。
 チキンラーメンを使い捨ての容器で提供し、フォークで食べられるようにすればいいんじゃないか。こんなことを夢中で考えていた折も折、帰路の飛行機で百福さんは機内食として配られたマカダミアナッツの容器に出会って、
カップヌードル2.jpg「これだ!」
 って膝を叩くことになる。浅底の丸い紙容器にアルミ箔製のフタが糊付けされたマカダミアナッツ。百福さんはポケットに入れて会社に持ち帰ったんだけど、これこそが数年後にカップヌードルのひな形になるんだ。その時の容器は。今でも日清食品が大切に保管してるよ。
 容器を発泡スチロール製にした理由は何となく分かるよね。軽い上に断熱性が高く、お湯が冷めにくくて、手に持っても熱くないからだ。
 じゃあ、容器の形はどうしてああなったと思う? これは「片手でもおてて座りがよく、手から滑り落ちない形」という百福さんのコンセプトに基づいて40種類余りの容器を慎重に吟味した結果、紙コップを大きくしたような現在の形状がベストなことが分かったからなんだよ。
 もちろんこれで固まったのは基本コンセプトのみ。これを製品化するには、次々に押し寄せる難問をため息をつきながら乗り越える地道な努力が必要だった。これを丹念に書くと本が出来ちゃうぐらいだからここでは紹介できないけど(笑)、どうすれば厚さ6センチの麺の塊を均一に揚げることが出来るのか、輸送中のショックで麺が粉々にならないようにするにはどうしたらいいのか、具は何を入れ、どんな乾燥法を採用すればいいのか等々、ゼロからレールを敷く試行錯誤の末に製品化にこぎつけた何もかもが独創的な食品だったのだ。
 モノは出来た。でも最後の難関となったのが100円という売価だった。だって当時のインスタントラーメンは1袋25円っていうのが相場。その4倍もするラーメンに飛びつくはずがないだろうというのが一般的な見方で、事実、食品問屋さんからは総スカンを食ってしまって、営業的にはハナっから危機的な状況に陥っちゃった。
 でも百福さんは、ここでも意地をみせる。
「これからはいろんなものが100円の時代になる。しかも100円であってこそ多くの人が注目してくれるはずだ」
 そこで経営陣が始めた新規の営業に最初に応えてくれたところが面白い。なんとカップヌードルの価値に真っ先に気付いたのは自衛隊だったんだよね(笑)。これに力を得た経営陣が本格販売をスタートさせたのは、これまたビックリのデパ地下だった。そうなんだよね、百貨店の食品売り場だったら100円はそう高く感じないじゃん! 思惑通り、高値感が災いすることなく高評判が先行してカップヌードルは極めて順調なスタートを切ることが出来た。同時に問屋に頼らない営業も功を奏してレジャー施設やホテル、高速道路のサービスエリア、夜勤の多い警察や消防署、駅の売店、自販機、銭湯、パチンコ屋の景品等々、それまでにはなかった販路が次々に開拓されていったのだった。
カップヌードル3.jpg イメージ戦略も鋭かった。何をやったかというと、当時注目を浴びていた銀座の歩行者天国でデモンストレーション販売をやらかしたのだ。人の溢れる年末のホコ天で百福さんが陣頭指揮をとる特設売り場にはたちまち長蛇の列が出来、特に報道や口コミで評判の行き渡った3回目の販売ではわずか4時間で2万食を売り尽くすという驚異的な記録を叩き出した。
「お湯さえあれば、いつでもどこでも」
 カップヌードルはその後たちまち日本を席捲し、今では80ヶ国以上の国で消費される世界的な食品となっている。市場をみつめる確かな観察眼と、なにものにも囚われない柔軟な開発力と営業力。不況と閉塞感に喘ぐ現在の日本に安藤百福さんが遺してくれたものはチキンラーメンとカップヌードルだけではなさそうだね。


■カップヌードルのCM 発売当初の1971年■



■カップヌードルのCM トム・ソーヤー編 1986年■



■カップヌードルのCM Hungry?編 大貫卓也は凄いですねぇ! 1992年■



■カップヌードルのCM 20世紀 ゴルバチョフ(with 永瀬正敏)編 2000年■



■カップヌードルのCM NO BORDER 希望編 2004年■


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チキンラーメン [食]

チキンラーメン1.jpg 3月1日から日清食品の『チキンラーメン』と『カップヌードル』が発売当時と同じ価格で限定販売されるそうだ。チキンラーメンは35円で、カップヌードルは100円。ともに税込で、それぞれ1千万食の限定販売だよ。
 なんでこんなことをするのかというと、今年が日清食品の創業者で即席麺の発明者とされている故安藤百福(ももふく)さんの生誕100年になるからだ。カップヌードルは明日に回すとして、今日はチキンラーメンの話にするね。
 チキンラーメンが発売されたのは昭和33年(1958)のことだ。それに先立つ3年前の昭和30年(1955)、事業に失敗して失意のどん底にあった百福さんは、
安藤百福氏.jpg「失ったのは財産だけじゃないか」
 と一念発起して自宅の裏庭に掘っ立て小屋を建て、家で手軽に食べられるラーメンの開発を始める。一杯のラーメンを求め、戦後の焼け野原で屋台に長蛇の列を作る人々の姿と、そのラーメンで明日への希望が湧き上がったことを忘れることができなかったのだ。
 掘っ立て小屋に籠もった百福さんが実現しようとしたのは、次の5つの原則を満たすラーメンだった。
1.美味しいこと: 「また食べてみたい」という味であること。
2.調理がカンタンなこと: 家事の手間と時間を節約し余暇を作り出せること。
3.長期保存ができること: 冷蔵庫要らずでないと(当時の)家庭に普及しない。
4.適正価格であること: 一定の品質を維持し、尚かつお手頃価格なこと。
5.衛生的で安全なこと: 原料選定から流通まで厳しいチェックを行うこと。
 こんな高いハードルをカンタンにクリアできるはずもなく、当初は失敗の連続。とくにお湯を注いだだけで乾燥麺を食べられる状態にする手立てがどうしても見つからない。目立った成果があがらず資金的にも追い詰められつつあったある日、百福さんは奥さんの揚げる天ぷらに目を奪われた。
「油で揚げると水分が蒸発してコロモにたくさんの穴が開くのか…。待てよ、同じ材料なら麺もおなじなんじゃないか!?」
 油で揚げることで麺にたくさんの穴が開いてくれれば、その穴から注いだお湯が浸透して麺が食べられる状態になるんじゃないだろうか。この着眼こそが最難関を突破する「瞬間油熱乾燥法(麺を油で揚げ乾燥させる方法)」を後に生み出すことになる。
 チキンラーメンはベビースターラーメンのように初めから麺に味が付いてるよね。どんなふうに作ってるかというと、先ずこねた小麦粉を線状に切り出して蒸し、それにチキンエキスで味付けしてから油で揚げてるんだよ。
 なんでチキン味かというと、
「どこの料理先進国でもスープの基本はチキン。あっさりしてクセのない万人に愛されるチキン味でいこう」
 ってハナっから百福さんが決めていたそうな。今やアメリカ、ブラジル、ハンガリー、インド、インドネシア、中国の6ヶ国で現地法人が製造を行っている「世界の味」になっちゃったわけで、百福さんの視点の正しさがよく分かるよね。
チキンラーメン2.jpg 昭和世代には「ちびっこ(昭和40年生まれ)」、平成世代には「ひよこちゃん(平成3年生まれ)」のキャラクターで親しまれているチキンラーメンは、その手軽さとは裏腹に、戦後の焼け跡の記憶と不屈の男が生み出した昭和の奇跡だったのだ。


■チキンラーメンのCM 1963年■



■チキンラーメンのCM 1968年■



■チキンラーメンのCM 南伸坊バージョン 1985年■



■チキンラーメンのCM 吉川ひなのバージョン 1998年■



■チキンラーメンのCM 50周年記念バージョン 2008年■



お詫びと訂正: 記事本文とはまったく無関係なのですが、S&B食品の『ホンコンやきそば』について頂きましたコメントに対して、「北海道と九州の一部で販売されているだけ」と返信をいたしましたが「仙台の一部でも販売されている」というご指摘を頂きました。この点につきましては、S&B食品に直接、電話取材をした上での返答でしたが、再度確認をとりましたところ「営業販路としての話としては北海道全域と大分だが、食品卸から先の流通先までは把握していない」ということでした。いわゆるメーカーが卸に対して縛りをかける『地域限定商品』のお話とメーカーが全国展開していない商品の話が混同されているのではないかということでした。ぼんくらは返信中、地域限定商品であるという発言は致しませんでしたが、自身がその辺の違いを認識せずにいたため、地域限定商品と読んだ方が解しても無理からぬ文面になっておりました。ご迷惑をおかけしましたことを衷心よりお詫び申し上げます。当該コメントにつきましては、本来、過ちを残した上で訂正を掲載するのが本筋ですが、コメント中の文章で加工が出来ないこと、この記事に直接のリンクがかけられてしまっている由。甚だ不本意ではありますが、誤情報を放置しておくわけには参りませんので、当該コメント(当日と翌日のご質問と返信を含む)を削除させて頂きました。以上、お詫びと修正の経緯を記録として書き留めさせて頂きます。

今後のお願い: 誠に恐れ入りますが、ぼんくらとしましては、記事に対しての文責には責任を持つのが当然と考えますが、さすがにコメントへの返信、まして当該記事以外のコメントについての責任までは負えません。誠に恐れ入りますが、ぼんくらの返信を何らかの資料としてお使いの場合は自己責任で行って頂きたく存じます。尚、これまでは直リンを許容して参りましたが、今回、掲載内容の修正に際して様々な不都合を被りました。今後は、内容を問わず、当ブログの記事にリンクをかける場合は、通常のネチケットに照らし合わせて、ぼんくらの承諾を得てからにしてください。
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かいわれ大根 [食]

かいわれ大根.jpg 先だって財務大臣に就任したイラ菅こと菅直人さんの報道を見ていて突然、かいわれ大根のことを思い出しちゃった(笑)。平成8年(1996)に発生したO157騒動の際に、村山内閣の厚生大臣を務めていた菅さんが、あたかもかいわれ大根がO157の原因となったかのような発言をして甚大な風評被害を引き起こしたことを思い出したからだ(官僚にハメられたという説も有)。
前田瀧郎.jpg かいわれ大根が全国の家庭に普及したのは1970年代の後半と言われている。1960年代の初頭に、福岡県能古島で農業を営んでいた前田瀧郎さんが商業的な水耕栽培に成功したのがお初とされているようだ。出典が明らかじゃないのが残念だけど、日本語Wikiには平安貴族の食卓に供されていたという話も紹介されていて、日本人が古来からスプラウト(発芽野菜)を食していた可能性は十分にありそうだね。
 なぜ「かいわれ」なのかについては諸説あるようだけど、漢字で「貝割れ(穎割れ)」と書くように、かいわれ大根の双葉が二枚貝を広げたような形であるところから名が付いたとするのが一般的だ。
 いつの記憶かな、たしかに食卓にかいわれ大根が初めて登場した時に「へぇ~、こんな食いもんがあったのかぁ!」って思ったことだけは覚えてるんだよね。天皇が神様じゃなくなったのも昭和なら、貴族の食材だったかいわれ大根が庶民の口に入るようになったのも昭和。カロチンやマグネシウム、カルシウム、ビタミンCに富んだ名脇役は、間違いなく昭和の野菜なのだ。


■かいわれ大根の成長の様子 生命って不思議ですねぇ!■


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ニッキ水 [食]

ニッキ水.jpg コテコテの甘さと舌と喉を刺すような刺激、そして強烈なシナモンの香り。え、まだ分かんない? じゃね、黄色、赤、緑、そしてひょうたん型の容器。がははは、もう分かったよね、『ニッキ水』だよ♪
 アメとムチを地でいく飲み物というべきか、勘弁してもらいたいような極端な甘味とピリピリした刺激が同時に舌を遅う超過激なドリンクではあった。鼻を突き抜けるようなシナモンの香りは、飲んだ本人ばかりか半径5メートル以内の人を悶絶させるだけの威力をもっているのだ。嗚呼、恐ろしい。
 ハッキリ言っとくけど、これは超弩級に危険な駄菓子なんでR。先日、ぼんくら次男にニッキ水を渡したら注意する前にグビッて飲んじゃって、直後に咳き込んで床を転げ回ったぞ。ニッキ水恐るべし! べしっ
 そう、怖い物好きが多いってことなんだろうけど、これって今でも売ってるんだよね。以前はいろんなメーカーが作ってたみたいだけど、今では大阪の大川食品工業や四国の四国明治飲料(有)ぐらいだろうか、ニッキ水を作ってるのは^^; 他に知ってるところがあったら教えてね。全国ニッキ水マップを作るから(笑)。
 ところでこのニッキ水、家庭で作ることもできるんだよ。シナモンの好きな家庭だったら試してみる価値アリだよ♪
 300mlのシナモン水を作るには、シナモンスティック(7cmぐらい)1本、砂糖20g、レモン1/4、水300mhがあればOK。
 先ず、鍋にシナモンと砂糖、水を入れて10~15分ほど煮込む。そして火を止めたら、これにカスをこし取ったレモン汁を加えて好みの味に仕上げる。これを冷やせば美味しいニッキ水の出来上がりだ。カンタンでしょ? 売ってるニッキ水みたいな刺激はないけどね。
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デパートの大食堂とお子様ランチ [食]

大食堂1.jpg 昭和の子どもたちにとって、家族と出かけるデパートのお目当てといえば最上階の大食堂だったし、そこで食べられるお子様ランチだったよね。眼下に広がる街の景色を眺めながら、新幹線やクルマをかたどったランチ・プレートと、それに盛りつけられた何種類もの料理が楽しめるなんて本当に最高の気分だった。食事の後で行くはずの屋上遊技場のことも頭にあったしね(笑)。
 日本で初めてデパートに食堂を設けたのは日本橋の白木屋で、なんと明治40年(1907年)のことだ。同年に、若干遅れて三越でも食堂が開業。三越呉服店として日本初の「デパートメントストア」宣言をおこなってから3年目のことだった。
お子様ランチ.jpg 開業が早かったせいかどうかは分からないけど、お子様ランチのお初を世に送ったのも三越で、昭和5年(1930)に日本橋三越の食堂部主任だった安藤太郎氏(アンタローさんの名でも有名)によって考案された。当時は「御子様洋食(定食)」という名前だったよ。お一人様30銭也ぃ。当時のお子様用ハヤシライスが15銭だったことを思うと、相当に贅沢なメニューだったことが分かるよね。ご飯を山型に盛って旗を立て、おかずにハンバーグやエビフライ、唐揚げ、ナポリタン・スパゲティ、プリンなどを添えてひとつのプレートに盛って出すというお約束は、既に御子様洋食の頃には出来上がっていた。
 なんでライスに旗を立てたのかについてはハッキリしたことが分かっていない。
「山のてっぺんには旗を立てるもんでしょう!」
 と、登山愛好家だったアンタローさんが言ったとか言わなかったとか。今となっては確かめようもなさそうだけど。
 ボクらに馴染みの深い「お子様ランチ」の名を生み出したのは上野松坂屋で、三越に遅れること1年後の昭和6年(1931)のことだった。
 デパートの大食堂が全盛期を迎えたのは、百貨店が庶民のものとなった戦後で、高度経済成長期たけなわの昭和30年代も後半になってからだ。飽食と少子化のダブルパンチで何でも屋の座を専門店に明け渡す昭和50年代まで、デパートの大食堂は、最上階まで客を引き寄せ、結果、全階を回らせるという役目を担い続けたのだった。
大食堂3.jpg 現在、最上階に大食堂があるのは岩手県花巻市のマルカン百貨店を残すのみだけど、お子様ランチは意気軒昂で、ほとんどのファミレスではお子様ランチがメニューとして残っているよ。「キッズ・プレート」なんて名前になってるところもあるけどね♪


■ベニヤ(山形)「ちからみそ」CM 昭和30年代の大食堂が舞台です♪■



■1960年代の東京の様子 ぼんくらの幼児期かな。断片的に覚えてます■



■1970年代の新宿の様子 ぼんくらが10代の頃なので鮮明に覚えてます■


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クリスマス・ケーキのお初はどこ? [食]

クリスマス・ケーキ1.jpg もうじきクリスマスイブだね♪ 予約していたクリスマスケーキ、受け取る日は確認してある? クリスマスイブには、スポンジベースに生クリーム&イチゴのクリスマスケーキを世界中の家庭で食べている。ケーキにともるキャンドルの灯り。メリー・クリスマス! って思いたいところなんだけど違うんだよね。
 何が違うかというと、先ずもって日本で思い浮かべる典型的なクリスマス・ケーキは日本独自のものだってことだ。後で代表的なクリスマス・ケーキを紹介するけど、国や地域によってクリスマス・ケーキは様々なのだ。
 次に違うのは、ケーキをイブに食べるというのも日本独特の習慣だってこと。これは一般的なキリスト教圏ではクリスマスが12月いっぱいと1月の第一週という長い時期を指すのに対して、日本では12月24、25日の2日間だけをクリスマスとみなす考え方が定着しているためだろう。もっとも商業的には11月辺りからクリスマスは始まってるけどね(笑)。
 もうひとつ違うのは、クリスマス・ケーキにはローソクが付きものと考えてるのも日本だけだって言うことだ。もちろん外国でもデコレーションに日本でよく見るようなローソクを使うことはあるんだけど、日本みたいにお約束にはなっていないよ。東欧圏でクリスマスや復活祭に食べるクリーチというケーキには割と一般的にローソクを立てるけど、細長いキャンドルを一本ズブッとケーキのど真ん中に刺して火を灯してるね。
 こんだけ独特のクリスマス・ケーキの習慣を日本に定着させたのは誰だと思う? 答えは不二家だ。創業年の明治43年(1910)に、プラムケーキをフォンダン(アメの衣)でコートしたものにアラザン(砂糖製の銀玉)をトッピングしたものが、日本のクリスマス・ケーキのお初といっていいだろう。これが現在の形に定着したのは大正11年(1922)。折しも不二家がヨーロッパ式のフルーツケーキから英米式のスポンジケーキに軸足を切り替え、ショートケーキの販売を大々的に始めた年に当たる。道理でケーキを切り分けちゃえばイチゴのショートケーキになっちゃうわけだ(笑)。もっともクリスマス・ケーキの習慣が国民的なものになったのは1970年代に入ってからで、これは高度経済成長期が一段落して大人が家庭に目を向けるようになったからではないかと言われてるけど、本当のところは分からない。
クリスマス・ケーキ2.jpg さて、他の国ではどんなクリスマス・ケーキを食べているかというと、日本で有名なのはイタリアの『パネトーネ(panettone)』かな。ドーム型のフルーツケーキで、輸入食料品店では今ぐらいの季節だと店頭に山積みになってるよね。ちょっと知りたいんだけど、ブロガーのMiluさん、ホントにパネトーネがイタリアで一般的なクリスマス・ケーキかどうか、コメントで教えてね♪ たぶん地域によっていろいろなんじゃないかと思うので。
クリスマス・ケーキ3.jpg あとは、やっぱりドイツの『シュトーレン(Stollen)』だろう。これは自分で焼いて食べる人が増えてきたケーキでもあって、ぼんくらがお世話になってるメタボでべそさんも最近、チャレンジして美味しそうなのを焼いてたよ(ご覧になりたい人はこちら)。ドイツ語圏に長いこといたぼんくらオヤジにとってもいちばん馴染み深いクリスマス・ケーキだ。
クリスマス・ケーキ4.jpg 他にも、フランスでは『ブッシュ・ド・ノエル(buche de noel)』という木の幹を模したロールケーキと形のよく似たものがある。見た目のデコレーションは、これがにほんのものにいちばん近いかもしれない。ぼんくらの叔父一家が住むリジューでも、12月になるとパン屋さんのショーウインドウにいろんなブッシュ・ド・ノエルが並んでもの凄く楽しいよ。
クリスマス・ケーキ5.jpg ドーバー海峡を渡った先のイギリスには『ミンス・パイ(mince pie)』もあるね。フルーツを仕込んで焼いた小型のパイ(デカイのを切り分ける場合も有)で、名前の通り、元々は挽肉を焼き込んだパイだった由。ただイギリスでは、伝統のフルーツケーキを砂糖でコーティングしたものや、もはやケーキとは無関係のクリスマス・プディングまでが乱立していて、「クリスマスといったらこれでしょう!」って言い切っていいものかどうかは、ちと怪しいかな。
 さて、今年のぼんくら一家はというと、どうやらお手製のアップルパイに生クリームとバニラアイスを添えて頂くことになりそうかな。アップルパイは誰が作るのかって? 家族全員で作るよ♪ あなたの温かい家庭に、病室でクリスマスを迎えるあなたに、共にクリスマスを祝う相手のいないあなたに、明日の生活費にも事欠くあなたに、仕事も家もなく街中を彷徨うあなたに、そして死の飢えに苦しむあなたに、等しく恵みが与えられますように。メリー・クリスマス!


■ジョン・レノンの"Happy Xmas (War Is Over)"■

http://www.youtube.com/watch?v=s8jw-ifqwkM


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『シガレットチョコレート』と『ココアシガレット』 [食]

シガレット菓子1.jpg ここは大阪万博の熱気も冷めやらぬ東京某所の酒屋の倉庫。酒のケースで仕切った一角を秘密基地とする悪ガキ小学生どもがUNOで遊んでいる。ぼんくら少年はおもむろにジャンパーの胸ポケットから箱を取り出し、なんとタバコを口に咥えた。ワルなのは知っていたが、そこまで腐っていたとは! そして、あろうことか隣の子に、
「要る?」
 と、箱ごと投げ渡したのだった。
 この頃、秘密基地はおろか、公園でも咥えタバコの少年少女は後を絶たなかった。しかも当時の子どもたちがもの凄かったのは、ひとしきり咥えたタバコを食べちゃうことだった。タバコの種類によってはそのまんまガリガリとカジる場合もあれば、巻紙をひん剥いて食べる時もあった。平成の子どもたちがみたら思わずのけ反りそうな光景だよね。
 昭和に子ども業をやってた人なら懐かしい思い出だろう。ちょっとハイソな家庭の子なら、このタバコの正体は不二家の『シガレットチョコレート』、ぼんくら少年のような家庭の子ならオリオン製菓(現オリオン)の『ココアシガレット』だった。
シガレットチョコレート.jpg 不二家のシガレットチョコレートは昭和35年(1960)に発売された。滑らかな舌触りでミルクたっぷりの美味しいチョコだったんだけど、タバコに模した包装紙が子どもには実に剥きにくい代物で、面倒な時には紙ごとクチャクチャ食べたりしてた(ぼんくらだけかも^^;)。昭和を色濃く反映したチョコレートだったけど、子どもたちに喫煙を奨励しかねないという批判の矢面に立たされ、気付いた頃には姿を消していた。余談だけど、国産のお初は、大正11年(1922)から昭和の初期まで販売されていた森永製菓のシガレットチョコレートだからね。世界初は、恐らくは明治32年(1899)創業のオランダの製菓会社スティンランドがクサいんだけど、残念ながら現時点では未確認だ。
ココアシガレット.jpg オリオンのココアシガレットは現在も健在だよ♪ 先のシガレットチョコレートが70円もした頃に、こっちは10円で買えたから、ぼんくら少年にとってはこっちのほうが馴染み深いんだよね。昭和26年(1951)に大阪の製菓会社オリオン製菓が発売したもので、砂糖とココア、ハッカを原料にした砂糖菓子だ。ぼんくらが世話になっていた頃はココアを芯にしてそれを白いハッカで巻いたものだったけど、今は両方を混ぜたスティックになってる。味も箱も変わってないけどね。あ、違ってることがもうひとつあったよ。今は6本のスティックがちゃんと包装されて箱に収まってるけど、ぼんくらの頃は裸ん坊で箱に入ってたと思う。違ったっけ^^;?
 廃業や倒産が相次ぐ駄菓子屋メーカーだけど、オリオンは「子供が手の届く1個30円という価格」を軸に新製品の開発を続けている気骨溢れるメーカーだ。大阪に行く機会があったらぜひ、地下鉄御堂筋線梅田駅の北口に足を運んで欲しい。オリオンのショーウィンドウがあって、ボクらを楽しませてくれた駄菓子がズラリと並んでるよ♪ おおきに、オリオン! これからも頑張ってや!!


■ココアシガレット 開封して出してみます♪■


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ねりアメ [食]

ねりアメ1.jpg 先日、小5のぼんくら次男と一緒に駄菓子屋に行ったら、お店のおばちゃんが、
「ぼんくらさん、これ好きでしょう」
 と、ニヤニヤしながら袋を手渡してくれた。中には淡いピンク色のチューブみたいなものと割り箸が入っている。袋には「当たりくじ付 ねっておいしい メリー ねりあめ」という文字が印刷されていたので、中身が『ねりアメ』だってことは分かったんだけど、記憶を呼び覚ましてくれたのは描かれていた得体の知れない3匹の動物(?)たちだった。40年も前の記憶なのに鮮やかに思い出せたので、
ねりアメ2.jpg「どうやって食べるの?」
 というぼんくら次男の問いにも、あっさりと実演して答えることが出来た。先ずアメをチューブからしぼり出して割り箸の先端に巻き付けるように付け、後は2本の端を広げたりくっ付けたりしながらアメを練っていく。こうすることで水飴に空気が混じって見た目には白濁し、垂れ落ちない程度に堅くなって、味もまろやかになるんだけど、そんな理屈は子どもたちには無意味で、とにかくこねくり回すことが楽しかったよね♪ そのせいなのかな、棒の先に初めっから団子状に付いたねりアメもあったのに、ぼんくら少年は自分で練るタイプのほうが好きだった。
ねりアメ3.jpg このねりアメを製造しているのは愛知県豊橋市のメリー鈴木製菓だ。豊橋近辺はアメの原料となる良質のサツマイモの産地で、メリー鈴木製菓も本来は『たんきりアメ』の製造元で、ねりアメは昭和25年(1950)に製造を始めている。よく駄菓子というと「質の悪いお菓子」だと思い込んでる人がいるけど、ことメリー鈴木製菓のねりアメに関しちゃそれは当てはまらない。
 ねりアメは、大人が有り難がって食べてる高級品のアメに匹敵する手間ひまをかけて作られているんだよ。焦げ付きやすいので大手メーカーでは敬遠されている直火釜を使って、煮詰まり方や味を職人さんの舌で確かめながら丁寧に作られているんだ。出荷の時期に合わせて、子どもたちがチューブからしぼり出しやすい固さになるように、寒い時期には水分を多めに、逆に暑い時期には柔らかくなり過ぎないように水分を控えて製造するというきめ細かな配慮がなされている。機械化されているのはアメをチューブに詰める工程だけ。チューブと割り箸を袋詰めする作業はすべて手作業だ。
ねりアメ4.jpg ところで、ぼんくらの記憶を甦らせてくれた3匹のキャラクターには、ちゃんと名前が付いているそうだ(笑)。写真の左から順に『メイメイ』『チャ太郎』『ペペリンコ』なんだって! ぼんくらオヤジにとっては40年目にして知った真実だったんだけど、みんなは知ってた?
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ハウス『プリンミクス』 [食]

プリンミクス.jpg 今でも定番商品のハウス『プリンミクス』。これってお湯だけでカンタンに作れたから、子どもたちだけでよく作って食べたなぁ。母親が作ってくれる本格的なプリンみたいな美味しさは望むべくもなかったけどね。
 プリンミクスはハウス食品が昭和39年(1964)年に発売した長寿商品で、業界では『ケミカルプリン』と呼ばれている種類に属している。ゼラチンなどのゲル化剤を固めて作るわけで、実体はプリントいうよりもババロアに近い。
 作り方もいたってカンタンで、70度程度のお湯でプリンミクスをよく溶かし、さらにミルクかお湯を規定量まで加えて冷蔵庫で冷やせば、1時間程度で出来上がる。弟妹や友達とワァワァ騒ぎながら作り、ひとしきり遊んだ頃には食べられたのでホントに重宝したし、楽しかった♪
 プリンミクスの他にも『フルーチェ』や『ゼリエース』『シャービック』にも随分とお世話になったよね。いずれも現行商品で頑張ってるよ。シャービックみたいに季節販売になったものもあるけどね♪


■プリンミクスのCM 大場久美子編 1977年■


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波瀾万丈だった『味の素』 [食]

Green Coca-Cola Bottles.jpg 昭和58年(1983)に出版された南伸坊の著書『モンガイカンの美術館』に、『味の素』の瓶が何段にもわたってズラリと並んだイラストが載っていた。これはアンディ・ウォーホルの有名な作品『緑のコカ・コーラのボトル(1962)』のパロディだったわけなんだけど、その理屈が面白かった。伸坊さんに言わせれば、アメリカ人にとってコーラの瓶は生活に密着したありふれたアイテム。アメリカ人にこの作品がどう見えてるのかを擬似的に感じるには、コーラの瓶を日本人にとって身近でありふれた瓶に置き換えてみればよいのだった。
 平成生まれの人にはまったくピンとこない話だよね、これ。でも昭和生まれの人にとっては、あのずんぐりしたボディと赤いキャップ、そして筆書きで味の素と銘の入った瓶は、たしかに食卓の一部と化すほどに日常生活に密着したアイテムだった。
味の素1.jpg 味の素は世界に冠たるうま味調味料だ。うま味の元となるグルタミン酸にイノシン酸、グアニル酸などを加えて生成した結晶で、これを調理段階で投入したり、料理や食品に直接ふりかけたりして使う。ぼんくら少年が福島にお世話になっていた頃、友達の家に食事のお呼ばれをすると、漬け物なんかは食べる直前に味の素をどっさりとかけてた。ところで、
「うま味調味料って何よ?」
 という昭和生まれのためにちょっと解説。うま味調味料とは、ひところ広く使われていた化学調味料のことだ。そもそも化学調味料という言葉は、昭和30年代にNHKが商標としての味の素を指すために作り出された言葉だったんだけど、やがて人工的に作り出された調味料全体を指すようになったんだよね。
 ところが1980年代に巻き起こったグルメ&健康ブームの頃から、化学調味料は人の味覚を損ない、発がん性などの危険をはらむ製品もあるというマイナス・イメージが先行するようになって、飲食店なんかじゃ、
「当店は化学調味料をいっさい使用しておりません」
 なんて貼り紙をするところも出てくる事態になった。今みたいにネットがあるわけでもなければ風評被害なんて概念もなかった時代だったから、特に味の素にとっては、これは深刻な問題だった。
 おりしも昭和60年(1985)に「うま味=umami」が学術用語として認められるようになったのを機に、うま味の主成分であるグルタミン酸ナトリウムの生産に携わる業界では、化学調味料という用語を廃してうま味調味料と呼ぶようになったんだよ。
味の素2.jpg「味は甘・酸・塩・苦が基本じゃん。うま味なんて、この4つの味覚が組み合わさったものに過ぎないよ」
 なんて思うかもね。実際に東京帝大(現東京大学)の池田菊苗教授が明治41年(1908)にだし昆布から発見したグルタミン酸を、第五の味「うま味」として提唱した時に、欧米の学者達はそう考えて相手にもしなかったんだな。本当の意味で池田教授の主張が証明されたのは、平成12年(2000)に舌の感覚細胞にグルタミン酸受容体が発見された時だったわけで、認知されるまでに90年以上もかかった末の大金星だったんだよ。日本人が古来から感じていた「出汁がきいていない」っていう実に微妙な味覚が気のせいなんかじゃなかったことが世界的に認められた瞬間でもあったんだからね。
 まあ海外だけじゃなくって、国内でもうま味調味料が愛用されながらも、どこかで雲散臭がられていたのは事実で、明治42年(1909)に発売されて以来、味の素は様々な風評被害の餌食となってきた。
 1917年(1917)頃には原料にヘビを使っているというデマが流れ、これを宮武外骨が『滑稽新聞』に取り上げたために風評被害が拡大し、売り上げが激減する事態となった。この危機は、折しも発生した関東大震災のおかげで沈静化したものの、その後も人毛原料説などがまことしやかに語られていたようだ。
 1970年代前後には石油原料説が飛び交ったが、これは部分的に本当だった。グルタミン酸を石油由来のアクリロニトリルから生成していた時期があったのだ。現在ではサトウキビ由来のものが使われてるけどね。
 他にも、
「味の素は消費を増やすために、フタの穴を大きくしているらしい」
「あるドキュメンタリー制作会社のスタッフが人食い人種に味の素を舐めさせたら『人肉の味がする』と言ったそうだ」
 などなど、まあデマを挙げたらキリがない。
 消費圏の拡大によって、平成12年(2000)にはインドネシアで、味の素の生産過程でブタ由来の成分が使われているとして大騒ぎになったことも記憶に新しい。
味の素3.jpg こうした荒波を乗り越えて今年、味の素は晴れて100才の誕生日を迎えた。記念に瓶のデザインも変わったんだけど、気が付いた? 売れっ子プロダクト・デザイナーのマーク・ニューソンのデザインだよ。シンプルだけど飽きがこないって感じだね。筆書きも縦書きにしたところが憎い(笑)。散々なことを言われながらも100年間を乗り切ってきた日本独自の調味料なんだもん。これからも応援してあげようよ♪


■味の素ハイミー 声は高峯秀子と市原悦子 1980年■



■味の素 小栗旬編 味の素をホントに上手に説明してます♪ 2008年■



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