イシイのミートボール [食]
これには世話になったよねぇ、『イシイのミートボール』♪ 昭和49年(1974)に発売されてから30年以上もチルド食品の定番の座を守り続けている石井食品の看板商品だ。
鶏肉と玉ねぎをパン粉でつないだミートボールに甘いタレを絡めた家庭的な味と、食材に一切の添加物を使用していない質の高さが、食と健康に目を向け始めていた70年代の消費者の心をガッチリと捉え、発売早々に大ヒット商品となった。
お弁当の食材というピンポイントの販売戦略も的を射たものだった。食べ盛りのお子さんを抱えるお母さんや弁当男子の面々は特に痛切に感じていると思うけど、弁当のおかずに肉類は欠かせない。でも焼いたり炒めたりという手間は、後片付けも含めてタダでさえ忙しい朝には結構な負担だ。石井食品はミートボールに先立つ4年前の昭和45年(1970)に業界初の調理済みハンバーグ『チキンハンバーグ』を発売していて、袋ごと温めればおかずになる食材についてのノウハウは既に得ていたから、この辺に目をつけさえすれば後の話は早かったんだ。大切なヒントは身近にあるんだってことだね。
石井食品という会社は、インターネットが一般には身近ではなかった平成13年(2001)に自社製品の原材料やアレルゲンなどの情報を消費者が調べられる情報開示サービス「OPEN ISHII」を開始したり、平成18年(2006)にはハンバーグやミートボールをリニューアルして卵や乳製品を使用しない製品に切り替えるなど、時代の要請に敏感に対応してきた優良企業だ。
平成20年(2008)からは工場見学も出来るようになったよ。千葉県八千代市の八千代工場と京都府船井郡丹波町の関西工場、佐賀県唐津市の九州工場の近所に住んでる人はお子さんやお孫さんと一緒に遊びに行くと面白いかも♪
※工場見学の詳細はこちらへ飛んで確認してね!
鶏肉と玉ねぎをパン粉でつないだミートボールに甘いタレを絡めた家庭的な味と、食材に一切の添加物を使用していない質の高さが、食と健康に目を向け始めていた70年代の消費者の心をガッチリと捉え、発売早々に大ヒット商品となった。
お弁当の食材というピンポイントの販売戦略も的を射たものだった。食べ盛りのお子さんを抱えるお母さんや弁当男子の面々は特に痛切に感じていると思うけど、弁当のおかずに肉類は欠かせない。でも焼いたり炒めたりという手間は、後片付けも含めてタダでさえ忙しい朝には結構な負担だ。石井食品はミートボールに先立つ4年前の昭和45年(1970)に業界初の調理済みハンバーグ『チキンハンバーグ』を発売していて、袋ごと温めればおかずになる食材についてのノウハウは既に得ていたから、この辺に目をつけさえすれば後の話は早かったんだ。大切なヒントは身近にあるんだってことだね。
石井食品という会社は、インターネットが一般には身近ではなかった平成13年(2001)に自社製品の原材料やアレルゲンなどの情報を消費者が調べられる情報開示サービス「OPEN ISHII」を開始したり、平成18年(2006)にはハンバーグやミートボールをリニューアルして卵や乳製品を使用しない製品に切り替えるなど、時代の要請に敏感に対応してきた優良企業だ。
平成20年(2008)からは工場見学も出来るようになったよ。千葉県八千代市の八千代工場と京都府船井郡丹波町の関西工場、佐賀県唐津市の九州工場の近所に住んでる人はお子さんやお孫さんと一緒に遊びに行くと面白いかも♪
※工場見学の詳細はこちらへ飛んで確認してね!
■イシイのおべんとくんミートボールCM 1985年■
http://www.youtube.com/watch?v=C4w5d_qznO0
うまい棒と弟のお話 [食]
ぼんくらオヤジが大学生の頃の話だ。
7つ歳の離れた弟は、兄貴が心配になるぐらいおっとりした心優しい少年で、駄菓子屋に行くと、自分の小遣いで必ず家族分のお菓子を買ってきてくれるような子だった。
彼が小5の時だったんだけど、母に、
「最近、Y樹(弟)がね、ちょっと変なのよ。お小遣いを渡しても次の日には全部使っちゃってるみたいなの。本人には聞いたんだけど、全然答えてくれないのよ。心配だから、様子を見てやってくれない?」
と頼まれたことがある。あんな気立ての子だから、悪い友達に巻き上げられてるんじゃないだろうか? でも家では普段と変わらず楽しげにしているし。
ある真夏の昼下がりのこと、新宿をぶらついていたぼんくらオヤジは愕然とした。地下道で弟がホームレスのおじさんと親しげに言葉を交わしている姿を目撃したのだ。気が付かれないようにそっと様子を見ていたら、弟は何人もの浮浪者に声をかけてはデイパックから何かを取り出して手渡ししている。
「Y樹」
異様な光景に我慢ができなくなって声をかけたら、弟は身を固くしてうつむいてしまった。何をしていたのかを尋ねても答えようとしない。デイパックに何が入っているのかを問いただしても答えない。力尽くでパックを取り上げて中を覗き込むと、クシャクシャのハンカチやロザリオと一緒に『うまい棒』が5、6個、無造作に放り込まれていた。弟が何をしていたのかを諒解した途端、涙が込み上げてきちゃった。照れ隠しで弟の頭を力一杯抱きしめて振り回しながら、
「バカだなぁ、お前は!」
って言うのが精一杯だった。本当は跪いて十字を切りたいぐらいだったけど。その代わりに明大前に連れ帰り、駅前のパーラーでフルーツパフェをご馳走したよ♪
後で両親に話したところによると、弟は遡ること半年ほど前に天に召された飼い猫の死にどうしてか責任を感じて、その“償い”をしていた由。身近に起きた初めての死に余程のショックを受けたんだろうね。父に諄諄と諭されて安心したのか、その後そういうことはしなくなったんだけど、新宿の暗い地下道を行き来していた弟は、間違いなく「天使」だった。
弟の配っていた『うまい棒』は、株式会社やおきんが昭和54年(1979)に発売した棒状のスナック菓子だ。お菓子の長さは原材料費の価格変動で変わるものの、値段は1本10円のまま、現在も健在だ。パッケージに描かれているキャラはドラえもんじゃないよ。昭和53年(1978)9月13日生まれで乙女座のA型、遠い宇宙のどっかからやってきた異星人で、趣味はコスプレ(笑)。名前は特に決まってないけど、巷では「うまえもん」「ドヤエモン」「うまいBOY」などと呼ばれている。味の種類は現時点で、とんかつソースやサラミ味など15種類。出たての頃は明治のアイス『うまか棒』と名前が酷似していることからいろいろと揶揄もされたけど、30年以上が経った今でも子どもたちに愛され続けている。
■フォーレ「ラシーヌの雅歌」 弟よ、小さい頃からよく聴いていたね。付け足しになっちゃって悪いけど、記事に事後承諾を与えてくれた御礼に捧げます■
http://www.youtube.com/watch?v=tzhBr1T-LHc
7つ歳の離れた弟は、兄貴が心配になるぐらいおっとりした心優しい少年で、駄菓子屋に行くと、自分の小遣いで必ず家族分のお菓子を買ってきてくれるような子だった。
彼が小5の時だったんだけど、母に、
「最近、Y樹(弟)がね、ちょっと変なのよ。お小遣いを渡しても次の日には全部使っちゃってるみたいなの。本人には聞いたんだけど、全然答えてくれないのよ。心配だから、様子を見てやってくれない?」
と頼まれたことがある。あんな気立ての子だから、悪い友達に巻き上げられてるんじゃないだろうか? でも家では普段と変わらず楽しげにしているし。
ある真夏の昼下がりのこと、新宿をぶらついていたぼんくらオヤジは愕然とした。地下道で弟がホームレスのおじさんと親しげに言葉を交わしている姿を目撃したのだ。気が付かれないようにそっと様子を見ていたら、弟は何人もの浮浪者に声をかけてはデイパックから何かを取り出して手渡ししている。
「Y樹」
異様な光景に我慢ができなくなって声をかけたら、弟は身を固くしてうつむいてしまった。何をしていたのかを尋ねても答えようとしない。デイパックに何が入っているのかを問いただしても答えない。力尽くでパックを取り上げて中を覗き込むと、クシャクシャのハンカチやロザリオと一緒に『うまい棒』が5、6個、無造作に放り込まれていた。弟が何をしていたのかを諒解した途端、涙が込み上げてきちゃった。照れ隠しで弟の頭を力一杯抱きしめて振り回しながら、
「バカだなぁ、お前は!」
って言うのが精一杯だった。本当は跪いて十字を切りたいぐらいだったけど。その代わりに明大前に連れ帰り、駅前のパーラーでフルーツパフェをご馳走したよ♪
後で両親に話したところによると、弟は遡ること半年ほど前に天に召された飼い猫の死にどうしてか責任を感じて、その“償い”をしていた由。身近に起きた初めての死に余程のショックを受けたんだろうね。父に諄諄と諭されて安心したのか、その後そういうことはしなくなったんだけど、新宿の暗い地下道を行き来していた弟は、間違いなく「天使」だった。
弟の配っていた『うまい棒』は、株式会社やおきんが昭和54年(1979)に発売した棒状のスナック菓子だ。お菓子の長さは原材料費の価格変動で変わるものの、値段は1本10円のまま、現在も健在だ。パッケージに描かれているキャラはドラえもんじゃないよ。昭和53年(1978)9月13日生まれで乙女座のA型、遠い宇宙のどっかからやってきた異星人で、趣味はコスプレ(笑)。名前は特に決まってないけど、巷では「うまえもん」「ドヤエモン」「うまいBOY」などと呼ばれている。味の種類は現時点で、とんかつソースやサラミ味など15種類。出たての頃は明治のアイス『うまか棒』と名前が酷似していることからいろいろと揶揄もされたけど、30年以上が経った今でも子どもたちに愛され続けている。
■フォーレ「ラシーヌの雅歌」 弟よ、小さい頃からよく聴いていたね。付け足しになっちゃって悪いけど、記事に事後承諾を与えてくれた御礼に捧げます■
http://www.youtube.com/watch?v=tzhBr1T-LHc
フランスキャラメル [食]
ブロ友のマナサビイさんからリクエストを頂いたので、今日もノースキャロライナの先輩格に当たる不二家の『フランスキャラメル』を取り上げるね。
フランスキャラメルが発売されたのは、なんと昭和9年(1934)のことだ。トリコロール(3色)をベースに金髪で巻き毛の女の子の顔がデンと印刷されたインパクトのある箱だった。
味もひとつの箱にバニラとチョコ、コーヒーの3種類が入っていたんだけど、ぼんくら家では妹と弟がバニラとチョコしか食べなかったので、兄貴としては不本意ながらコーヒー味を取るしかなかった。その反動なんだろうね、ぼんくらオヤジは、未だにアイスはバニラのシングルだよ。
ところでこの顔だけの女の子だけど、どうやらシャーリー・テンプルをモデルにしているらしい。「らしい」というのは、方々で断定的な記事がある一方で、肝心の不二家はまったくこれに言及していないからだ。
シャーリーは昭和3年(1928)の生まれだ。フランスキャラメルの発売年には6才になっていたし、その頃には名子役の地位を確立していて日本でも大人気だったから不二家がキャラのモデルにしても不思議はないんだけど、ぼんくらオヤジの印象では、あくまで参考にしただけなんじゃなかろうかという気がする。写真のシャーリーと箱の女の子がどうしても同一人物にはみえないんだよなぁ。まあ根拠のないお話なんだけど、こういう想像も楽しみのうちだよね♪
シャーリーは82才の今も名士として元気に暮らしてるけど、フランスキャラメルは、いつ製造が中止されたのかいくら調べても分からないぐらい静かに歴史の闇に消えていった。
そういやフランスキャラメルに限らず、欧米文化に対する憧れが強かったのか、商品のキャラクターや雑誌は金髪で青い眼のモデルさんばっかりだったよね(笑)。昭和は間違いなく『舶来品』という言葉が高級感を伴って燦然と輝いていた「欧米か!」の時代だった。
フランスキャラメルが発売されたのは、なんと昭和9年(1934)のことだ。トリコロール(3色)をベースに金髪で巻き毛の女の子の顔がデンと印刷されたインパクトのある箱だった。
味もひとつの箱にバニラとチョコ、コーヒーの3種類が入っていたんだけど、ぼんくら家では妹と弟がバニラとチョコしか食べなかったので、兄貴としては不本意ながらコーヒー味を取るしかなかった。その反動なんだろうね、ぼんくらオヤジは、未だにアイスはバニラのシングルだよ。
ところでこの顔だけの女の子だけど、どうやらシャーリー・テンプルをモデルにしているらしい。「らしい」というのは、方々で断定的な記事がある一方で、肝心の不二家はまったくこれに言及していないからだ。
シャーリーは昭和3年(1928)の生まれだ。フランスキャラメルの発売年には6才になっていたし、その頃には名子役の地位を確立していて日本でも大人気だったから不二家がキャラのモデルにしても不思議はないんだけど、ぼんくらオヤジの印象では、あくまで参考にしただけなんじゃなかろうかという気がする。写真のシャーリーと箱の女の子がどうしても同一人物にはみえないんだよなぁ。まあ根拠のないお話なんだけど、こういう想像も楽しみのうちだよね♪
シャーリーは82才の今も名士として元気に暮らしてるけど、フランスキャラメルは、いつ製造が中止されたのかいくら調べても分からないぐらい静かに歴史の闇に消えていった。
そういやフランスキャラメルに限らず、欧米文化に対する憧れが強かったのか、商品のキャラクターや雑誌は金髪で青い眼のモデルさんばっかりだったよね(笑)。昭和は間違いなく『舶来品』という言葉が高級感を伴って燦然と輝いていた「欧米か!」の時代だった。
■"On the Good Ship Lollipop" by シャーリー・テンプル 1934年■
http://www.youtube.com/watch?v=5yR7ONpWlIE
ノースキャロライナ [食]
ぼんくらオヤジは少年時代から甘党だったので、生まれて半世紀も経つというのに、スーパーや輸入食料品店なんかに出かけるとお菓子売り場の前で動かなくなっちゃう。
「今日は買わないよっ。もー、あればある分みぃーんな食べちゃうんだから駄目! ほれほれ、行った行った」
と、ぼんくらオバンに追っ払われるだけで、実際に買うことはあんまりないんだけどね。少年時代だったら床に寝っ転がって、
「買って買って買ってぇ~~~」
とジタバタするところなんだけど、今こんなことをしようもんなら絶対、ぼんくらオバンに買い物カートで轢き殺されるし^^;
ところで、そんな甘い物好きのぼんくらオヤジが最近、フッと思い出して探したキャンディがあるんだ。昭和43年(1968)に発売された不二家の『ノースキャロライナ』だ。
ノースキャロライナはイチゴ味にメロン味、そしてチョコ味のするソフトキャンディだ。特色は何といっても木の年輪のような渦巻き。不二家のお客様相談室によると、2代目社長の藤井誠司氏がノースキャロライナ州のアパラチア山脈を旅した時に、古木の切り株いっぱいに広がる年輪に感銘を受け、これがキャンディの名前と形状のモチーフになったんだそうだ。
甘くて濃厚なミルク味がベースになっていて、甘党の子どもにとっては頬張っただけで幸せが込み上げてくるようなキャンディだったなぁ。当時のお菓子にはイチゴ、メロン、チョコなんて色分けがしてあっても味は同じ、なんてインチキなものが結構あったんだけど、ノースキャロライナは別格で、ちゃんと味が違ってたしね。
ソフトキャンディという目新しさもあったよね。ちょっと暑いとドロドロ、寒いとフツーのアメと大差なくなっちゃったり、逆に適度な柔らかさの時に噛みつくとビックリするぐらい歯に食い込んじゃって、治療した歯の詰め物が取れちゃったりすることがあった。虫歯の原因にもなれば、せっかく怖い思いをして治療した歯を台無しにするという悪魔的キャンディでもあったのだった。
ノースキャロライナは平成6年(1994)、とくに話題になることもなく静かに製造・販売を終了した。秘密基地に備蓄していたらネズミの餌食になっちゃったことがあったなぁ。弟が大病をして死線を彷徨っていた時、何かしてやれることはないかと必死に考えた挙げ句に、弟の手に握らせたのもノースキャロライナだった。思い出深いお菓子は甘くて、しょっぱい。
「今日は買わないよっ。もー、あればある分みぃーんな食べちゃうんだから駄目! ほれほれ、行った行った」
と、ぼんくらオバンに追っ払われるだけで、実際に買うことはあんまりないんだけどね。少年時代だったら床に寝っ転がって、
「買って買って買ってぇ~~~」
とジタバタするところなんだけど、今こんなことをしようもんなら絶対、ぼんくらオバンに買い物カートで轢き殺されるし^^;
ところで、そんな甘い物好きのぼんくらオヤジが最近、フッと思い出して探したキャンディがあるんだ。昭和43年(1968)に発売された不二家の『ノースキャロライナ』だ。
ノースキャロライナはイチゴ味にメロン味、そしてチョコ味のするソフトキャンディだ。特色は何といっても木の年輪のような渦巻き。不二家のお客様相談室によると、2代目社長の藤井誠司氏がノースキャロライナ州のアパラチア山脈を旅した時に、古木の切り株いっぱいに広がる年輪に感銘を受け、これがキャンディの名前と形状のモチーフになったんだそうだ。
甘くて濃厚なミルク味がベースになっていて、甘党の子どもにとっては頬張っただけで幸せが込み上げてくるようなキャンディだったなぁ。当時のお菓子にはイチゴ、メロン、チョコなんて色分けがしてあっても味は同じ、なんてインチキなものが結構あったんだけど、ノースキャロライナは別格で、ちゃんと味が違ってたしね。
ソフトキャンディという目新しさもあったよね。ちょっと暑いとドロドロ、寒いとフツーのアメと大差なくなっちゃったり、逆に適度な柔らかさの時に噛みつくとビックリするぐらい歯に食い込んじゃって、治療した歯の詰め物が取れちゃったりすることがあった。虫歯の原因にもなれば、せっかく怖い思いをして治療した歯を台無しにするという悪魔的キャンディでもあったのだった。
ノースキャロライナは平成6年(1994)、とくに話題になることもなく静かに製造・販売を終了した。秘密基地に備蓄していたらネズミの餌食になっちゃったことがあったなぁ。弟が大病をして死線を彷徨っていた時、何かしてやれることはないかと必死に考えた挙げ句に、弟の手に握らせたのもノースキャロライナだった。思い出深いお菓子は甘くて、しょっぱい。
■ノースキャロライナが発売された1968年はこんな年でした♪■
http://www.youtube.com/watch?v=SbBMweCXMiM
サクラ印の給食用ハチミツ [食]
今日も引き続きゴタゴタが続いてるので小ネタ中の小ネタ。
マーガリンやジャム、ミルメーク、ミルクの三角パック等々、いろんな給食アイテムが出る中で見過ごしてきたものがひとつある。チューブ入りのハチミツだ。
15グラム入りの半透明のチューブで、てっぺんの丸く柔らかい突起を噛み取って押すと、琥珀色のハチミツが溢れ出てくる。
パンに塗って食べる子が多かったけど、ぼんくら少年は三角パックの上部をカッターで切り取って穴を開け、そこからハチミツを注入し、ストローでかき回して甘いミルクを作るのが大好きだった。ねえ、どんなふうにして食べてた?
この給食用ハチミツ・チューブは、大半が『サクラ印ハチミツ』で知られる(株)加藤美蜂園本舗から供給されている。
神奈川県横須賀市に本社を置く加藤美蜂園本舗は昭和22年(1947)の創業。養蜂業というと何となく自然を相手にした野良仕事みたいに思う人がいるかもしれないけど、実体はとんでもなくダイナミックな仕事だ。加藤美蜂園本舗も、昭和38年(1963)には急激な需要の伸びに国産ハチミツの供給が追いつかないと判断すると、いち早くハチミツの輸入自由化を国に働きかけ、同年にはニュージーランドからの輸入に成功するなど、的確でスピーディな判断と対応には大商社に引けを取らないビジネスセンスを持っていたんだ。
現在、加藤美蜂園本舗は中国、アルゼンチン、カナダ、アメリカ、ソ連などなど世界各国から輸入を行う一方で、養蜂やハチミツ・プラントの指導などで新たな産地を開拓したり、年間契約による需給関係を業界の礎とする努力を行うなどして、ハチミツの供給と価格の安定化に大きく貢献している。
横浜に住んでる人は、金沢区福浦にサクラ印ハチミツの名をデカデカと冠した工場があるのを見たことがあるかもしれないね。そこはサクラ印ハチミツの横浜工場で、世界に先駆けて国際品質保証規格(ISO9001)の認証を得た超優良にして日本最大のハチミツ工場だよ。もちろんハチミツ・チューブもここで作ってるのさっ♪
マーガリンやジャム、ミルメーク、ミルクの三角パック等々、いろんな給食アイテムが出る中で見過ごしてきたものがひとつある。チューブ入りのハチミツだ。
15グラム入りの半透明のチューブで、てっぺんの丸く柔らかい突起を噛み取って押すと、琥珀色のハチミツが溢れ出てくる。
パンに塗って食べる子が多かったけど、ぼんくら少年は三角パックの上部をカッターで切り取って穴を開け、そこからハチミツを注入し、ストローでかき回して甘いミルクを作るのが大好きだった。ねえ、どんなふうにして食べてた?
この給食用ハチミツ・チューブは、大半が『サクラ印ハチミツ』で知られる(株)加藤美蜂園本舗から供給されている。
神奈川県横須賀市に本社を置く加藤美蜂園本舗は昭和22年(1947)の創業。養蜂業というと何となく自然を相手にした野良仕事みたいに思う人がいるかもしれないけど、実体はとんでもなくダイナミックな仕事だ。加藤美蜂園本舗も、昭和38年(1963)には急激な需要の伸びに国産ハチミツの供給が追いつかないと判断すると、いち早くハチミツの輸入自由化を国に働きかけ、同年にはニュージーランドからの輸入に成功するなど、的確でスピーディな判断と対応には大商社に引けを取らないビジネスセンスを持っていたんだ。
現在、加藤美蜂園本舗は中国、アルゼンチン、カナダ、アメリカ、ソ連などなど世界各国から輸入を行う一方で、養蜂やハチミツ・プラントの指導などで新たな産地を開拓したり、年間契約による需給関係を業界の礎とする努力を行うなどして、ハチミツの供給と価格の安定化に大きく貢献している。
横浜に住んでる人は、金沢区福浦にサクラ印ハチミツの名をデカデカと冠した工場があるのを見たことがあるかもしれないね。そこはサクラ印ハチミツの横浜工場で、世界に先駆けて国際品質保証規格(ISO9001)の認証を得た超優良にして日本最大のハチミツ工場だよ。もちろんハチミツ・チューブもここで作ってるのさっ♪
■サクラ印ハチミツのCM 岩下志麻がお母さん役(怖っ) 年代不明■
http://www.youtube.com/watch?v=9g2PGELhVT8
チーかま [食]
学校給食で味を覚えた『チーかま』。スティック状のかまぼこに散らばって埋もれる黄色いチーズ片が懐かしい。かじってみると、普通のかまぼこの味に混じって甘味の強いチーズの風味がトロッとした食感を伴って口いっぱいに広がる。ぼんくら少年は、これをコッペパンに挟んで食べるのが大好きだった。
チーかまが発売されたのは昭和45年(1970)。『ホモソーセージ』で有名な丸善が生みの親だ。チーズを仕込んだソーセージがドイツにあることに開発研究を担当していた村上清さん(現取締役生産本部長)が注目したことから開発が始まった。村上さんは、
「ソーセージじゃなく、日本の伝統食であるかまぼことチーズを組み合わせて新しい味を作ることはできないだろうか」
と考え、様々な試行錯誤を重ねながらも昭和43年(1968)、『おらが幸』という商品名でデビューさせることに成功した。
おらが幸は、魚肉とチーズという良質のタンパク源が一度に得られる食品だったので、丸善は学校給食の現場に精力的な売り込みを開始。現場では、
「チーズ嫌いの子どもたちが喜んで食べる」
と評判も上々で、翌年の昭和44年(1969)には全国の給食現場に次々に導入されていく。
こうして自信を深めた丸善は、おらが幸を『チーかま』と改名し、一般市場に投入することになる。給食、おやつ、酒のつまみにと、今や日本人の食生活に深く根を下ろしているチーかまは、こうして誕生したのだった。
ぼんくらオヤジには、開封用の赤いビニールテープが途中で切れちゃったり、端の金属環を歯で噛み千切ろうとすると何ともイヤな味がしたりと、口に入るまでが厄介な食品だったけどね(笑)。
チーかまが発売されたのは昭和45年(1970)。『ホモソーセージ』で有名な丸善が生みの親だ。チーズを仕込んだソーセージがドイツにあることに開発研究を担当していた村上清さん(現取締役生産本部長)が注目したことから開発が始まった。村上さんは、
「ソーセージじゃなく、日本の伝統食であるかまぼことチーズを組み合わせて新しい味を作ることはできないだろうか」
と考え、様々な試行錯誤を重ねながらも昭和43年(1968)、『おらが幸』という商品名でデビューさせることに成功した。
おらが幸は、魚肉とチーズという良質のタンパク源が一度に得られる食品だったので、丸善は学校給食の現場に精力的な売り込みを開始。現場では、
「チーズ嫌いの子どもたちが喜んで食べる」
と評判も上々で、翌年の昭和44年(1969)には全国の給食現場に次々に導入されていく。
こうして自信を深めた丸善は、おらが幸を『チーかま』と改名し、一般市場に投入することになる。給食、おやつ、酒のつまみにと、今や日本人の食生活に深く根を下ろしているチーかまは、こうして誕生したのだった。
ぼんくらオヤジには、開封用の赤いビニールテープが途中で切れちゃったり、端の金属環を歯で噛み千切ろうとすると何ともイヤな味がしたりと、口に入るまでが厄介な食品だったけどね(笑)。
給食用ジャム - タカベビー [食]
先だって給食用マーガリンを記事にした時に、「ジャムも懐かしい」というコメントをいくつか寄せてもらったんだけど、たしかにそうだよね♪
地味な脇役なのに何でそんなに覚えていたかだけど、それなりに理由はあったんだよ。いちご、りんご、ママレード、ピーナッツバター、チョコなど種類はそれなりにあったんだけど、給食用ジャムを手がけるメーカーが限られていて、地域や年代に関係なく毎日同じ包装のジャムを見てたんだ。
寡占状態で小分けの給食用ジャムを製造していたのは、福岡県瀬高町のタカ食品工業だ。『タカベビー』ジャムという名で、昭和29年(1954)から生産を開始。それまで給食のおばさんか先生、あるいはクラスの給食当番がひとつのビンから注ぎ分けていたジャムが、衛生的で均一に、しかも手間いらずで配ることができるということで、たちまち全国に普及した。
「でも寡占ってのは問題じゃない?」
と思う人がいるかもね。実はこれにも理由があるんだよ。この小分けの袋詰めをする自動箱詰め機(オートパッカー)が、なんと21世紀になった現在でも、昭和46年(1971)にタカ食品工業が開発した『白鷹号』しかないんだ。ビックリだよね。よく弁当に入ってるしょう油やソース、マヨネーズ、タルタルソースの類は、メーカーが違っても白鷹号がせっせと生産しているってことだね。
オートパッカーの登場以前は製造工程の大半が手作業だったものが、昭和50年(1975)には、50台の白鷹号が日産200万個という驚異的な生産を行うまでになり、タカ食品工業は他の追随を許さない給食用ジャムのメーカーになったのだった。
米飯給食の普及でピーク時のような出荷量はないけど、タカベビー・ジャムは、相変わらず子どもたちの給食には欠かせない名脇役のままだ。
地味な脇役なのに何でそんなに覚えていたかだけど、それなりに理由はあったんだよ。いちご、りんご、ママレード、ピーナッツバター、チョコなど種類はそれなりにあったんだけど、給食用ジャムを手がけるメーカーが限られていて、地域や年代に関係なく毎日同じ包装のジャムを見てたんだ。
寡占状態で小分けの給食用ジャムを製造していたのは、福岡県瀬高町のタカ食品工業だ。『タカベビー』ジャムという名で、昭和29年(1954)から生産を開始。それまで給食のおばさんか先生、あるいはクラスの給食当番がひとつのビンから注ぎ分けていたジャムが、衛生的で均一に、しかも手間いらずで配ることができるということで、たちまち全国に普及した。
「でも寡占ってのは問題じゃない?」
と思う人がいるかもね。実はこれにも理由があるんだよ。この小分けの袋詰めをする自動箱詰め機(オートパッカー)が、なんと21世紀になった現在でも、昭和46年(1971)にタカ食品工業が開発した『白鷹号』しかないんだ。ビックリだよね。よく弁当に入ってるしょう油やソース、マヨネーズ、タルタルソースの類は、メーカーが違っても白鷹号がせっせと生産しているってことだね。
オートパッカーの登場以前は製造工程の大半が手作業だったものが、昭和50年(1975)には、50台の白鷹号が日産200万個という驚異的な生産を行うまでになり、タカ食品工業は他の追随を許さない給食用ジャムのメーカーになったのだった。
米飯給食の普及でピーク時のような出荷量はないけど、タカベビー・ジャムは、相変わらず子どもたちの給食には欠かせない名脇役のままだ。
粉末ジュース [食]
「新しい飲み物を見つけたよ! お父さんとお母さんのも買ってきた♪」
小5の次男が得意満面で差し出してくれたものをみて、ぼんくらオヤジはちょっと困ってしまった。昔懐かしい粉末ジュースだったんだ。
現在では、法律で果汁100パーセントでない限りは「ジュース」と呼んじゃいけないことになってるので「粉(末)ジュース」と言っちゃいけないんだけど、「粉末タイプの清涼飲料水」って言うのも何だかねぇ^^; ぼんくらオヤジは販売元じゃないので、今回は「粉ジュース」と親しみを込めて使わせてもらうね♪
お初がどこかは現時点で把握できなかったんだけど、1950年代には既に流通していたようだ。安い人工甘味料のおかげで製造コストを抑えられたこともあって広く普及し、ハイカラな飲み物とは縁遠かった子どもたちばかりじゃなく、大人の愛飲者も多かった。当時はどの家庭でも徳用袋に入った粉ジュースを常備していたよね。
でも1970年代に入って人工甘味料が使用禁止となると、価格維持が不可能とみた多くのメーカーが製造から撤退してしまい、冷蔵庫やビン・缶入り飲料の普及も追い打ちをかけた結果、現在のように駄菓子屋さんやごく一部のスーパーに置いてある程度の存在に成り下がってしまった。
それでも北米や南米、東南アジア、中国では現在でもフツーに飲まれているそうで、こんだけ粉ジュースが虐げられてるのは、もしかすると日本ぐらいなもんかも(笑)。現在、国内で昔ながらの粉ジュースを製造しているのは名古屋の松山製菓と日邦製菓ぐらいなものだ。ある意味、流行り廃りが極端だった昭和の名残といえるかもしれないね。
ところで、初めて粉ジュースを飲んだぼんくら次男の感想はというと、
「ま、不味い~」
炭酸キツいし、袋の色と全然違うし等々、文句タラタラ^^; そこで、
「粉を、まんま口に放り込んでみな」
とアドバイスしたら、
「こっちのほうが美味い♪」
と一定の評価。なんだ、平成っ子も舌の感覚は一緒じゃん!
小5の次男が得意満面で差し出してくれたものをみて、ぼんくらオヤジはちょっと困ってしまった。昔懐かしい粉末ジュースだったんだ。
現在では、法律で果汁100パーセントでない限りは「ジュース」と呼んじゃいけないことになってるので「粉(末)ジュース」と言っちゃいけないんだけど、「粉末タイプの清涼飲料水」って言うのも何だかねぇ^^; ぼんくらオヤジは販売元じゃないので、今回は「粉ジュース」と親しみを込めて使わせてもらうね♪
お初がどこかは現時点で把握できなかったんだけど、1950年代には既に流通していたようだ。安い人工甘味料のおかげで製造コストを抑えられたこともあって広く普及し、ハイカラな飲み物とは縁遠かった子どもたちばかりじゃなく、大人の愛飲者も多かった。当時はどの家庭でも徳用袋に入った粉ジュースを常備していたよね。
でも1970年代に入って人工甘味料が使用禁止となると、価格維持が不可能とみた多くのメーカーが製造から撤退してしまい、冷蔵庫やビン・缶入り飲料の普及も追い打ちをかけた結果、現在のように駄菓子屋さんやごく一部のスーパーに置いてある程度の存在に成り下がってしまった。
それでも北米や南米、東南アジア、中国では現在でもフツーに飲まれているそうで、こんだけ粉ジュースが虐げられてるのは、もしかすると日本ぐらいなもんかも(笑)。現在、国内で昔ながらの粉ジュースを製造しているのは名古屋の松山製菓と日邦製菓ぐらいなものだ。ある意味、流行り廃りが極端だった昭和の名残といえるかもしれないね。
ところで、初めて粉ジュースを飲んだぼんくら次男の感想はというと、
「ま、不味い~」
炭酸キツいし、袋の色と全然違うし等々、文句タラタラ^^; そこで、
「粉を、まんま口に放り込んでみな」
とアドバイスしたら、
「こっちのほうが美味い♪」
と一定の評価。なんだ、平成っ子も舌の感覚は一緒じゃん!
■「ワタナベのジュースの素」CM by エノケン 1960年■
学校給食とマーガリン [食]
ぼんくらオヤジがずーっと気になっていた給食のアイテムがある。給食には付きものの銀紙に包まれたマーガリンだ。森永のスクールマーガリンや雪印のミネマリンマーガリン等々、いろんな会社のものがあったよね。
中でも、ぼんくらオヤジの記憶にしっかりと残っていたのがリスのマークのマーガリンだ。銀紙に印刷されたリスの絵柄を覚えていただけだったので追跡は諦めてたんだけど、先日、業務用の食材を扱うお店でこのマークを発見! 40年目にしてメーカーが判明した(笑)。
旭電化工業株式会社(現ADEKA)。とても食品を製造している会社とは思えないよね^^; 大正6年(1917)創業の老舗で、たしかに7割は化学工業製品を製造してるんだけど、残りの3割を占めているのは業務用食品だ。それも副業なんて片手間なものではなく、食品業界では斬新な製品で広く知られる存在だったようだ。
その好例が昭和4年(1929)に発売された『リス印マーガリン』で、これはおそらく国産品のお初だ。戦後の学校給食にいつからマーガリンが付くようになったのかは分からないけど、既に1950年代にはコッペパンとマーガリンの組み合わせがお約束になっていたので、その頃には子どもたちもリス印マーガリンをコッペパンに塗っていたはずだ。
給食にマーガリンが採用されたのは、バターの動物性脂肪が問題視されたんじゃなく、単純に安かったからだ。トランス脂肪酸の弊害が指摘されながらもマーガリンが給食から駆逐されなかったのと同じ道理だ。巷で言われてきたほどヘルシーじゃないようだけど、昭和の子どもたちの成長に欠かせない栄養源の一つだったマーガリンは、日々、平成の子どもたちをも養っている。
中でも、ぼんくらオヤジの記憶にしっかりと残っていたのがリスのマークのマーガリンだ。銀紙に印刷されたリスの絵柄を覚えていただけだったので追跡は諦めてたんだけど、先日、業務用の食材を扱うお店でこのマークを発見! 40年目にしてメーカーが判明した(笑)。
旭電化工業株式会社(現ADEKA)。とても食品を製造している会社とは思えないよね^^; 大正6年(1917)創業の老舗で、たしかに7割は化学工業製品を製造してるんだけど、残りの3割を占めているのは業務用食品だ。それも副業なんて片手間なものではなく、食品業界では斬新な製品で広く知られる存在だったようだ。
その好例が昭和4年(1929)に発売された『リス印マーガリン』で、これはおそらく国産品のお初だ。戦後の学校給食にいつからマーガリンが付くようになったのかは分からないけど、既に1950年代にはコッペパンとマーガリンの組み合わせがお約束になっていたので、その頃には子どもたちもリス印マーガリンをコッペパンに塗っていたはずだ。
給食にマーガリンが採用されたのは、バターの動物性脂肪が問題視されたんじゃなく、単純に安かったからだ。トランス脂肪酸の弊害が指摘されながらもマーガリンが給食から駆逐されなかったのと同じ道理だ。巷で言われてきたほどヘルシーじゃないようだけど、昭和の子どもたちの成長に欠かせない栄養源の一つだったマーガリンは、日々、平成の子どもたちをも養っている。
ポン菓子 [食]
ブロ友のれお君のお母さんから『ポン菓子のニンジン』をお友達から頂いたというメッセージを頂いた。キレイに忘れてたけど、ニンジンをかたどった袋に詰めて売ってるポン菓子が駄菓子屋にあったよね♪
ポン(ドン)菓子は、米などの穀物に圧力をかけ、それを一気に解放することで膨らませた駄菓子だ。地方によって呼び名は様々で、ポンポン菓子やバンバン菓子、ばくだん(あられ)、こめばせ、ポンはぜ、ぱっかん、パン豆、たん豆等々、挙げたらキリがない。
ポン菓子の作り方は面白いよ! 先ず、穀類膨張機の圧力釜に生の米などを入れて密閉し、釜を回転させながら加熱する。そして釜の内圧が10気圧程度まで加圧されたらフタをハンマーで叩いて開け、一気に減圧する。こうすると、原料内部の水分が急激に膨張して、もの凄い音を立てながら釜の外に飛び出してくる。米粒なんかは、これで10倍程度の大きさにまで膨らむんだから不思議だよね。フツーはこれに水アメを絡めたり、砂糖をまぶしたりして甘味をつけるんだけど、中にはあっさり塩味なんてのもあったりするよ。
行商のいわゆる『ポン菓子職人』さん達が各地を廻りながら露店販売を行う姿は、どうやら大正時代にまで遡ることが出来そうだ。生前に父が話してくれたのを思い出したんだけど、戦前のポン菓子職人さんは、子どもたちの集まる場所に穀類膨張機を乗せたリヤカーを引いてきて、子どもたちが持参したお米をポン菓子に加工してくれたんだそうだ。
いやぁ、日本の古き良き時代を彷彿とさせる光景だよね! でもね、聞いて驚くなかれ。ポン菓子が誕生したのは日本じゃなく、なんとアメリカだったんだよ。明治34年(1901)、アレクサンダー・ピアース・アンダーソンが偶然、実験中の事故で米が膨らむことを発見して特許を取得し、『パフライス(Puffed rice)』として売り出したのがお初なんだ。元祖シリアルと言ってもいい存在だたんだね。
戦後、過密になった住宅地でドカンドカンとポン菓子を製造するのはさすがに難しくなってきたことや、道交法の整備によって路上販売がしにくくなってきたこと、巡回で生活が不安定な上に高収入が望めず後継者が激減したことなどで、ポン菓子職人さんは、昭和30年代を境に急速に姿を消していった。ぼんくらオヤジも「ポン菓子は駄菓子屋で買うもの」だったから、昭和40年代の世田谷では、ポン菓子の路上販売は既に過去のものだったんだよね。今ではお祭りなんかのイベントとして行われる程度だけど、お菓子自体は未だに根強い人気を誇っていて、袋詰めのポン菓子がコンビニに置いてあったりするよ♪
ポン(ドン)菓子は、米などの穀物に圧力をかけ、それを一気に解放することで膨らませた駄菓子だ。地方によって呼び名は様々で、ポンポン菓子やバンバン菓子、ばくだん(あられ)、こめばせ、ポンはぜ、ぱっかん、パン豆、たん豆等々、挙げたらキリがない。
ポン菓子の作り方は面白いよ! 先ず、穀類膨張機の圧力釜に生の米などを入れて密閉し、釜を回転させながら加熱する。そして釜の内圧が10気圧程度まで加圧されたらフタをハンマーで叩いて開け、一気に減圧する。こうすると、原料内部の水分が急激に膨張して、もの凄い音を立てながら釜の外に飛び出してくる。米粒なんかは、これで10倍程度の大きさにまで膨らむんだから不思議だよね。フツーはこれに水アメを絡めたり、砂糖をまぶしたりして甘味をつけるんだけど、中にはあっさり塩味なんてのもあったりするよ。
行商のいわゆる『ポン菓子職人』さん達が各地を廻りながら露店販売を行う姿は、どうやら大正時代にまで遡ることが出来そうだ。生前に父が話してくれたのを思い出したんだけど、戦前のポン菓子職人さんは、子どもたちの集まる場所に穀類膨張機を乗せたリヤカーを引いてきて、子どもたちが持参したお米をポン菓子に加工してくれたんだそうだ。
いやぁ、日本の古き良き時代を彷彿とさせる光景だよね! でもね、聞いて驚くなかれ。ポン菓子が誕生したのは日本じゃなく、なんとアメリカだったんだよ。明治34年(1901)、アレクサンダー・ピアース・アンダーソンが偶然、実験中の事故で米が膨らむことを発見して特許を取得し、『パフライス(Puffed rice)』として売り出したのがお初なんだ。元祖シリアルと言ってもいい存在だたんだね。
戦後、過密になった住宅地でドカンドカンとポン菓子を製造するのはさすがに難しくなってきたことや、道交法の整備によって路上販売がしにくくなってきたこと、巡回で生活が不安定な上に高収入が望めず後継者が激減したことなどで、ポン菓子職人さんは、昭和30年代を境に急速に姿を消していった。ぼんくらオヤジも「ポン菓子は駄菓子屋で買うもの」だったから、昭和40年代の世田谷では、ポン菓子の路上販売は既に過去のものだったんだよね。今ではお祭りなんかのイベントとして行われる程度だけど、お菓子自体は未だに根強い人気を誇っていて、袋詰めのポン菓子がコンビニに置いてあったりするよ♪
■「ドカン!」の瞬間 これを今の街中でやられたら大騒ぎだろうな^^;■
■韓国のポン菓子職人さん ソウル近辺のイベントにて 2008年■