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アンディ・ウォーホルがCMになった時代 [テレビ]

アンディ・ウォーホル1.jpg 今日は小ネタで。明後日まではこんな感じになっちゃうかな^^;
 昭和58年(1983)から約1年間にわたって放送されたTDKビデオカセットテープのCMには度肝を抜かれた。ポップアートの大御所アンディ・ウォーホルがテストパターンの映ったテレビを肩に背負って、
「アカ・ミドォーリィ・アオ・グンジョーイロ・キレイ」
 と奇妙なアクセントで喋ってるんだもの。内容的にどうのこうのという前にインパクトが抜群だった。個人的にはあんまりピンとくるアーティストじゃなかったんだけど、4年後の昭和62年(1987)に何とも不可解な死を遂げたこともあってミョーに頭に残る存在になっちゃった。評価の分かれるところだろうけど、昭和のアートシーンに多大な影響を与えた人物だったことは間違いのないところだよね。
「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」
アンディ・ウォーホル2.jpg 芸術の内面性をある種の「逃げ」とみたんだろうか。まるで自身と作品との関連性を拒絶するかのような在り様は徹底したものだった。
 CMで音楽を担当したのは、コンポーザー、アレンジャー、プロデューサーで自身トランペット奏者でもある三宅純。デビューアルバム『JUNE NIGHT LOVE』の収録曲2曲がCMに起用されている。これがきっかけで三宅は業界で知らぬ人のいないアーティストとなり、担当したCMは現時点で2,500作を超えているっていうんだからスゴいよね。


■TDKビデオテープのCMバージョン2 アンディ・ウォーホル 1983年■


■CMのバージョン1、バージョン2のパロディ版(ひょうきん族だよ♪)■


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連想ゲーム [テレビ]

連想ゲーム1.jpg ぼんくら一家はあまりテレビを観る家じゃなかった。父が基本的に好きじゃなかったってことがいちばんの理由で、食事の時間にテレビを観るなんてことは決して許してもらえなかった。当時はそうじゃない家庭が羨ましかったけど、普段は書斎に籠もりっきりの父とお喋りが出来るのは食事の時間ぐらいだったし、仲のよい家族でいられたのはテレビ抜きの団欒のおかげだったかもしれないと今じゃ感謝してるけどね。
 その一家が水曜の夕食を早々に切り上げて、家族全員で観ていた番組がある。NHK総合テレビで昭和44年(1969)から平成3年(1991)まで22年間の長きにわたって放送された『連想ゲーム』だ。
連想ゲーム2.jpg 男女(紅白)チームの対抗戦で、チームのキャプテンが出したヒントから連想する単語を5人のメンバーで当てるというシンプルなゲームが基本で、それ以外にも『勝ち抜きゲーム』や『3ヒントコーナー』『ワンワンコーナー』『1分ゲーム』なんかがあった。キャプテンがヒントを3つ出し、チーム全員でことわざや四字熟語を当てる3ヒントゲームや「ワンワン」「ニャンニャン」などの反復語を当てるワンワンゲームは家族でも随分やって遊んだなぁ!
 司会は、初代の青木一雄からラストの徳田章まで9人のNHKアナウンサーが担当した。6代目は松平定知さんだったんだね。覚えてる?
 歴代のキャプテンも顔ぶれを見ると懐かしいよ。赤組は初代の中村メイコから始まって江利チエミ、天地総子、水沢アキ、中田喜子、藤田弓子、白組は加藤芳郎、小沢昭一、三橋達也、渡辺文雄と目まぐるしく交代した後に、昭和47年(1972)から加藤芳郎が再登板し、以降の20年間を番組の顔として活躍することになる。
連想ゲーム3.jpg レギュラー陣も分厚い布陣で、赤組はロミ山田や和田アキ子、坪内ミキ子、檀ふみ、市毛良枝、岡江久美子、マッハ文朱、中井貴恵、田中理佐、中村あずさらが、白組は坂本九、田崎潤、沖雅也、蟇目良、江守徹、大和田獏、水島裕、宍戸開、林家こぶ平(現林家正蔵)らが次々にレギュラー陣を務めた。大和田漠と岡江久美子はこの番組が縁で結ばれたそうな。
 当時はビデオテープが高価だったこともあって、番組終了後にマスターテープが使い回されちゃったこともあって、NHKアーカイブスで保存されているのは昭和59年(1984)5月23日放送分がいちばん古いんだって! 赤組のキャプテンが中村メイコから水沢アキまでの放送分は、もうボクらの記憶の中にしかないってことだね。


■連想ゲーム オープニングの音楽が懐かしいね♪ 1989年■



■連想ゲーム 勝ち抜きゲームの様子 1988年以前■


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「ふりむいてください」 エメロン・クリームリンス [テレビ]

エメロンクリームリンス2.jpg 斬新なものは記憶に残るよね。CMは特にそうなんだけど、ライオン油脂(現ライオン)が昭和45年(1970)から投入した『エメロン・クリームリンス』のCMは、手法の目新しさが際立つ作品だった。
 日本全国の街角でフツーの女性に背後から近寄り、インタビュアーが、
「ふりむいてください」
 と声をかけてふりむかせるという「日本縦断ふりむき娘」がコンセプトだった。反応は十人十色だし、CMが有名になると声をかけられただけでそれと気付く人が多くて、キャーキャー逃げ回る姿が面白かったりもした。もちろん悪趣味だという批判もあったけど、こうしたヤラセなしのゲリラ性が許される世相でもあったのだ。時を同じくしてスタートした『どっきりカメラ(関連記事参照)』と考え合わせると、万博の熱気もさめやらぬ当時の祝祭的なムードが溢れていて感慨深いものがある。
エメロンクリームリンス1.jpg イメージ・ソングが重要な役目を担ったのはこのCMも一緒で、ベテランのコーラス・グループ、ハニー・ナイツが歌う『ふりむかないで』は、当時のオリコンで最高3位の大ヒットとなった。ハニー・ナイツは、以前に紹介した『ゴジラ対ヘドラ(関連記事参照)』で So-net にブログを持ってる麻里圭子さんとご一緒に主題歌を歌ってるよ♪
 このCMね、今、観てみると当時のファッションや街並みがつぶさに写り込んでいてものすごく面白いよ! ここに写ってる人達、今はどうしてるんだろう?


■エメロン・クリームリンス 1970年 いや~美しいお方っ♪■



■エメロン・クリームリンス 1971年 各地を回ってます■



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快獣ブースカ [テレビ]

ブースカ2.jpg 怪獣映画というと、地球の平和を守ると称して陰惨な殺し合いがメインイベントになるもんだけど、『快獣ブースカ』は全然違って楽しいTVドラマだった(思い出させてくださったtateichiさんに感謝!)。だから『快獣』なんだろうけどね♪
 昭和41年(1966)11月から約1年、毎週水曜日の夜7時から日テレ系列で放送されたんだけど、人気があったので何度も再放送されたから覚えてる人も多いんじゃないかな。制作は円谷特技プロで、ストーリーは『ウルトラQ』の「カネゴンの繭」というエピソードがコアになっている。マンガで読んだ記憶のある人もいるだろうけど、ブースカはマンガが後追いするメディアミックスの先駆け的存在で、いわゆる原作は存在しない。
 もうひとつの特徴は、全話がモノクロで制作されていることだ。スティール撮りでカラーフィルムが用いられたので、何となくカラーで観たような気になりそうなんだけどね。
 話のあらすじは覚えてる? 発明少年の屯田大作が、ペットにしていたイグアナのブースカを怪獣にしようと強力栄養剤「クロパラ」を与えるところから話が始まる。クロパラのおかげで、ブースカは人間並みの大きさと知能、そしてオマケの超能力を持つ「快獣」となり、周囲を巻き込む珍騒動を巻き起こしていく、っていうお話だよ。
 ブースカを担当した高橋和枝さんのユーモラスな声と、大作のお父さんを演じた江戸家猫八の見事な脇役振りが番組に華を添えて、快獣ブースカは実に上質のコメディに仕上がっていた。怪獣映画の全盛期に育った子供たちが、
「僕ん家にも怪獣がいたらいいのに」
 って思うのは自然な成り行きだったわけで、そんな夢や想像を子供の目線で映像化した円谷プロならではの作品だったといえる。
 今回はYouTubeで第1話の「ブースカ誕生」をまるまる観れるので、ぜひ時間を作って観てみてね♪ そうそう、忘れるところだった。ブースカ独特の言葉である「ブースカ語」の意味を忘れちゃった人のために、最後に基本語を載せておくね。

ブースカ1.jpg「バラサ バラサ」: 歓声「わぁーい わぁ~い」
「シオシオのパー」: ガッカリしてシュンとした時の声
「ナイナイのパ!」: 姿を消す時の呪文
「メロメロのトロロンチ」: 恋をした時に発する声
「ミフチ ミフチ」: 美味しい、美味いの意
「ブリブリのキリリンコ、カッカッカッ!」: 怒声


■快獣ブースカ 第1話「ブースカ誕生」 フルバージョンです♪■



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半年限定のヒーローだった『怪獣王子』 [テレビ]

怪獣王子1.jpg 昭和42年(1967)からの半年あまり、月曜の夜7時半からフジテレビで放送された『怪獣王子』を覚えてる人はいる? 短い放送期間だったから知らない人のほうが多いかもね。
 特撮もののストーリーは無茶苦茶なものが多いけど、怪獣王子のは国宝級だ。
 先ず太平洋上に出現した火山島の噴煙で飛行機が墜落する。ハナっから危なっかしい設定なんだけど、その飛行機に乗っていた理学研究者の息吹博士と彼の双子の息子たち、タケルとミツルがなんと助かっちゃうのだ。どういう墜落の仕方をしたのか見当もつかないけど、とにかく凄いぞ、息吹ファミリー! ただ、ここでタケルだけは波にさらわれて行方不明にちゃうよ。
怪獣王子2.jpg 数年後に調査で件の火山島を訪れた息吹博士は、ブロントザウルスに乗って「オ~ラァ」と叫ぶ少年と出会う。この少年こそが恐竜によって救われ、育てられたタケルなのだった(涙)。なんで数年前に出現したばっかの島に恐竜がいたりジャングルがあるのかはともかく感動したぞ、息吹親子! だが喜びの再開もつかの間、親子は火山島のウラニウム鉱脈を狙う異星人の遊星鳥人やガンマー星から侵略にやってきた昆虫人間から地球を守るために闘う運命にあったのだ。親友だか育ての親だか設定不明のブロントザウルスとともに! 何の脈絡もなく登場した国防省(日本です)のレンジャー遊撃隊とともに! 
 てな話だったんだけど、ぼんくら少年と弟妹は無我夢中で観ましたぜ! とくに妹はタケル少年に恋しちゃったようで、父にせがんで撮ってもらったテレビ画面の写真や自分で描いたガイコツのようなタケル少年の絵を壁にベタベタと貼っていた。ぼんくら少年と弟は、タケルが使っていたブーメランに夢中になったよ。駄菓子屋で安いビニール製のブーメランが買えたからね。
怪獣王子3.jpg 出演者だけど、主人公のタケルは野村光徳、もうひとりの双子ミツルを野村好徳が演じている。お分かりだと思うけど、光徳と好徳は本当の双子だ。ふたりはお父さんが台湾人なので、台湾では方光徳・好徳として名を知られている由。道理で怪獣王子の映画版が日台合作で作られてるわけだよね。タケル役は野村光徳のままで昭和44年(1969)に『龍王子』というタイトルで公開された。どうしてか日本では上映されなかったけど、1980年代までは東南アジア各国の映画館で上映されていたようだ。蛇足ながら、昭和41年(1966)に放送された実写版のテレビドラマ『忍者ハットリくん』はこの兄弟が演じているよ。
 スゴく面白いドラマだったのブチッと終わっちゃったから子供心に「何でぇ~?」って思ってたんだけど、本当は1年の放送予定だったのに制作会社の日本特撮が倒産しそうだったので慌てて半年で終わらせちゃったっていうのが真相らしい。可哀想な番組だよね。


■怪獣王子 オープニング、テロップ集、そして予告編■



■怪獣王子 VS 昆虫人間 ブロントザウルスがなんと火を吐きます!■




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鈴木ヒロミツと「の~んびり行こうよ♪俺たちは」 [テレビ]

鈴木ヒロミツ.jpg 今は亡き鈴木ヒロミツのCMといったら、やっぱり昭和46年(1971)に流れた『モービルガソリン』のCMだよね。
 昭和の大らかさというか、今こんなCMを流したら、設定はゲイのカップルみたいだわ、途中で立ちションはするわで、きっと数日で打ち切りだろうな(笑)。お相手のHG風のオジサンは誰だろう? データにも出てないんだけど知ってる?
 鈴木ヒロミツも当時はまだザ・モップスのボーカリストだったのに、3年後の解散が見えていたのか何なのか、既に俳優業が板に付いてるところがスゴい。昭和49年(1974)からTBS系列で放送された『夜明けの刑事』『新・夜明けの刑事』『明日の刑事』の役どころをみても、このCMが後の彼の芸能活動に決定的なイメージを与えたのは確かなような気がする。62才という早過ぎる死は残念だったけど、彼は俳優として、グルメリポーターとして、中日ドラゴンズの熱烈なファンとしてボクらを楽しませてくれたよね。
 CMの挿入歌『気楽に行こう』を歌っていたのはマイク真木。作詞作曲も彼だ。高度経済成長期に翻弄され疲れ果てた日本人にぴったりの歌だったんだけど、今のボクらにも嬉しい曲かもね。

マイク真木.jpg気楽に行こうよ俺たちは
『焦ってみたって同じこと』
のんびり行こうよ俺達は
なんとかなるぜ世の中は
気楽に行こう のんびり行こう
気楽に行こう のんびり行こう

注:『』には『仕事がなければ金もない』『金がなくてもやる気はあるぜ』『バカとよばれてもクヨクヨするな』が入れ替わって2~4番の歌詞になるよ♪


■モービル石油「モービルガソリン」のCM 1971年■


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NHK『新日本紀行』の思い出 [テレビ]

新日本紀行1.jpg ぼんくらオヤジは20才代のほとんどを海外放浪で費やした。旅先で不法労働をしては滞在期限ギリギリに他国へ出国することを繰り返すという文字通りのボヘミアンだったのだ。別に目的があったわけでもない。当時はバッグパッカーと呼ばれるバッグパックを背負って超低空予算で旅をする若者が多くいて、ぼんくらもそれに倣ってフラついているに過ぎなかった。
 そんな生活が身について何年目かの冬のことだ。ぼんくらは久しぶりにのんびりしたクリスマスを迎えたくなってフランスの伯父の家に転がり込んだ。伯父はすでに他界していたので、伯母と従兄弟たちが歓待してくれた。
新日本紀行2.jpg 滞在中、日本語の読めない家族に代わって伯父の遺品の整理を任されたぼんくらは、書類に挟んであるドーナツ盤のレコードを見つけた。NHK『新日本紀行』のテーマ曲。古びた茶封筒に無造作に放り込んであって、表には万年筆で「我が後悔」と記されていた。どういうことだろうといぶかりながら、部屋のプレイヤーにレコードを載せて針を落とした。
 何度も聴いていたんだろう。レコードは傷んでいてノイズは多かったけど、あの朗々とした音楽が部屋に流れ始めた。側の窓からはリジューの美しい街並みが広がってみえる。
「伯父さん…」
 突然、込み上げるものがあってぼんくらは嗚咽した。伯父が茶封筒に書かざるを得なかった言葉の意味が了解できたのだ。何の不思議もなかった。伯父もこの場所で窓の外を眺めながら日本を"聴いていた"のだ。
 音を聞きつけて部屋に入ってきた従弟が、取り乱したぼんくらを介抱しながら訊ねた。
「これ、なんて書いてあるの?」
 手に持った茶封筒を見ながら一瞬、狼狽えたんだけど、心の中で十字を切りながらこう答えた。
「私の大切な思い、だって」

新日本紀行3.jpg 『新日本紀行』は昭和38年(1963)から昭和57年(1982)まで放送されたNHK総合テレビの番組だ。日本初の本格的な紀行番組で、日本各地の原風景やそこに生きる人々を丹念に収録していて、映像資料としても極めて価値が高い。テーマ曲は富田勲が担当している。現在では『新日本紀行ふたたび』が放送されている。


■新日本紀行のテーマ 富田勲&千葉県少年少女オーケストラの素晴らしい演奏です■



■新日本紀行 「SLふるさとに帰る 国鉄山口線」1/2 1979年■



■新日本紀行 「SLふるさとに帰る 国鉄山口線」2/2 1979年■



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サントリーホワイトとサミー・デイビス・Jr. [テレビ]

サントリーホワイト1.jpg ぼんくら少年が中学生の時にウケた一芸がある。『サントリー・ホワイト』のCMに出演していたサミー・デイビス・Jr.の物真似だ。別に自分で上手いと思っていたワケじゃないんだけど、何故だか周囲にバカ受けしちゃったのだ。学校ではみんなが貸してくれた消しゴムを給食の牛乳に放り込んで飲むという不衛生極まりないパフォーマンスだったし、準備の余裕がある時は麦茶に角砂糖をしこたま入れて、最後に「ウ~ん、サトゥイリ~」なんてオヤジギャグを飛ばす他愛もないものだったのに^^;。
 学校の休み時間ならまだしも、商工会のお祭りの時に友達の家がやってた酒屋の前でやる悪乗り振りで、その時は1日5回の出演で5,000円のギャラを稼ぐことができた(笑)。怖くなるぐらいの人だかりができたし、それなりに笑ってもらえたし、何よりも用意してあった特製タンブラー付きのサントリーホワイト120セットを3回目の出演時に完売したのが嬉しかったなぁ!
サントリーホワイト.jpg 昭和48年(1973)に流されたサミー・デイビス・Jr.のCM("Get with It"って名前があるんだよ)はカンヌ国際広告祭でグランプリを受賞した日本のCM史上でも金字塔的な作品だ。サントリーホワイトは、昭和4年(1929)に国産ウイスキー第1号として発売された押しも押されぬサントリーの定番商品なだけに、CM制作への力の入れようも尋常ではなかった。どんだけ資金と労力を投入していたかはサミーに続くキャスティングを見れば分かる。ロン・カーターとハービー・ハンコック、エルス・マルサリスとブランフォード・マルサリス親子、クラーク・テリーとジョン・ファディス、スティーヴ・ガッド、リチャード・ティー、コーネル・デュプリー、エディ・ゴメスらによるザ・ガッド・ギャング、レイ・チャールズなどなど、信じられないような一流ジャズメンがリレーで出演していたのだ。昭和生まれがウイスキーと聞くと即、ジャズを連想するようになったのは、サントリーホワイトの影響かもしれない(笑)。


■サントリーホワイト サミー・デイビス・Jr. 1973年■



■サントリーホワイト レイ・チャールズ 1989年■


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川口浩探検隊!! [テレビ]

「恐怖の人食いザメ!! 南オーストラリア嵐の海に人間が食われる瞬間を見た! 」 
「これが地球の底だ!! 人類未踏! オーストラリア世界最大の地底大洞穴探検!!」
「謎の原始猿人バーゴンは実在した! パワワン島奥地絶壁洞穴に黒い野人を追え!」
川口浩1.jpg この感嘆符だらけのタイトルで何の番組か分かるかな? そうだ! あの『川口浩探検隊』をキミは思い出したか!! 昭和52年(1977)から昭和61年(1986)までの何と9年間!、この日本に究極のヤラセ番組は実在した!!!
 脳の血管が切れるとイヤだからこの辺にしておくけど、川口浩探検隊ほどタイトルがすべてを物語る番組もなかったよね。まるで我が子に、
「さっき、UFOが飛んできて宇宙人に今日のテストの答案持ってかれちゃった! だから見せらんない!!」
 と言われて
「へっへぇ~、そーなんだぁ! 早く答案持ってこいヤァ(怒)!!!」
 てな感じ?(それって何か違うかも^^;)
 川口隊長が癌で亡くなって早、22年が過ぎようとしているのに、この番組はオーゲサな演出とあからさまなヤラセの故に、未だに話題に事欠かない。話題の一部を紹介しよう! 番組を信じるか、巷のウワサを信じるかはあなた次第なのだ!!

●昭和53年(1978)6月28日放送「驚異の人食いワニ・ブラックポロサスを追え!! 恐怖の毒蛇タイパン狩り!2億年の恐竜は存在した!」

巷のウワサ: 毒蛇タイパンは、店で買った蛇を美術班が塗料で塗って作ったのだった!

●昭和55年(1980)5月28日放送「爬虫類王国オーストラリア! 猛毒蛇の大洞窟征服の果てに幻の白いカンガルーを見た!!」

巷のウワサ: 「カンガルーは真っ白にすればいいだけだから楽だった(撮影スタッフ談)」

川口浩2.jpg●昭和58年(1983)6月22日放送「ブラジル秘境! 熱帯の大湿原パンタナル奥地に飢えた人喰いピラニアは実在した! 」

巷のウワサ: 生きた牛がアッという間に食われて骨になるシーンを撮影しようとピラニアの群れに牛を入れてみたが、なんとピラニアは見向きもしない! 困り果てたスタッフは急遽、牛の骨を手配し、いかにもその場で食べられたように見せかけて撮影したのだった!!

●昭和55年(1980)10月22日放送「恐怖の首狩り族! ルソン島未踏の奥地にウロン族は実在した!!」

巷のウワサ: ウロン族は、なんとルソン島の土産店の従業員達を雇って原住民の格好させたものだった!!

●昭和60年(1985)7月24日放送「原始恐竜魚ガーギラスをメキシコ南部ユカタン半島奥地に追え!!」
●昭和60年(1985)7月31日放送「原始恐竜魚ガーギラスをメキシコ南部血塗られた伝説の湖に追え!! -完結編-」

巷のウワサ: ガーギラスの正体は北米産のガーフィッシュで、なんと当時の日本でも鑑賞魚を扱う店で購入出来たのだった!!

川口浩3.jpg 川口隊長自身は、夫人の故野添ひとみさんの著書『浩さん、がんばったね』(講談社 1988)の中で、番組についてこう語っている。
「ぼくたちは、ニュースやドキュメンタリーを作っているのではない。あくまで娯楽番組を提供しているんです」
 川口隊長は『川口浩探検隊』をドキュメンタリーだと言ったことはなかったし、冒険活劇だとも言わなかった。そしてボクらも確かに、なんだかんだと冷やかしながらも水曜の晩にはテレビに群がり、エンド・ロールまで番組を観てしまうのだった。



■川口浩探検隊メモリアル 1■



■川口浩探検隊メモリアル 2■



■ゆけ! ゆけ! 川口浩!! by 嘉門達夫 1984年■


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名犬ラッシー [テレビ]

ラッシー1.jpg アマチュア写真の世界では「子供か動物を写せば、たいがいの写真はウケる」というお約束がある。だからクラブの写真展なんかでこうした被写体を出した暁には、袋叩きに遭うのを覚悟しなきゃならない。
 この禁じ手をダブルで使っちゃって、案の定というべきか大ヒットTVドラマになったのが『名犬ラッシー』だ。本家アメリカでは昭和29年(1954)から昭和49年(1974)までの20年に渡って放送が続いた長寿ドラマだけど、日本でも昭和32年(1957)から昭和41年(1966)までの9年間と、昭和50年(1975)から昭和51年(1976)までの1年間の都合10年間、家族で楽しめる良質の番組として親しまれた。これは海外のTVドラマとしては史上最長記録だ。
ラッシー3.jpg ぼんくら少年にとっても『名犬ラッシー』は必見の番組で、土曜の夜7時半からの30分は絶対にチャンネル権を誰にも譲らなかった。ぼんくら父がうっかりナイターに切り替えようもんなら、大泣きするわジタバタ暴れるわの大騒ぎで、団らんの一時はたちまちにして修羅場と化した。そのぐらい好きだったんだよね。いたいけなジェフ少年(後にティミー少年にバトンタッチ)とその信頼に必死で応えようとする忠犬ラッシー。感動してよく泣きました、私。なのに…
 なのにだ。具体的なストーリーが全然思い出せない。なんでぇ~? 記事を書くのに行き詰まって、ぼんくらオバンに訊いたら、
「あん? そりゃーあれだな。仲のいい犬と坊やがだよ、いろいろあっても一緒に乗り越えてメデタし目出度しだよね。まぁその繰り返しっちゅーワケよ」
ラッシー2.jpg たしかにそうなんだけどねぇ、これじゃぼんくらオヤジと大差ないし。ねえ、具体的なストーリーで覚えてるのって何かある? 調べて分かったのは、先ずラッシーはジェフの叔父さんが飼ってたってことと、その叔父さんが亡くなってジェフのもとに来たということだ。最初は主人を失った悲しみで誰にもなつかずにいたんだけど、ジェフと一緒に悪漢どもと闘ううちに絆が深まっていくっていうのが出だしのストーリーだ。ありゃあ、エリック・ナイトの原作とはハナっから全然違ってるし。TVドラマを思い出すのに原作を読んでもムダかぁ(泣)。
 というわけで、とにかく感動的な作品ではあった(笑)。はっきり覚えてるのは、当時、ええとこの家の庭には芝生が植えてあって、その上ではコリーがふんぞり返ってるか寝っ転がってたってことだ。庭にはコリー、家ン中にはスピッツっていうのが当時の流行だったよね。今じゃほとんどみかけないけど。

※ 文中に「いたいけなジェフ少年」と書きましたが、ソフィー様より「降板時で12才の少年に『いたいけ』は不適切」とのご指摘を頂きましたので訂正します。


■『名犬ラッシー』オリジナル・オープニング 1957年■



■名犬ラッシーのパロディCM GE版 笑えます♪ 年代不明■



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