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使い捨てライター [雑貨]

 最近、何かと物議を醸している使い捨てライター。喫煙がさほど問題にされていなかった昭和には、どこの家庭にもゴロゴロと転がっていた代物だった。
 ぼんくらオヤジの父親はパイプ党だったので、火がバーナーのように噴出するパイプ専用の使い捨てライターを銀座の菊水で買って使っていた。蚊取り線香に火を点けたりゴミを燃やしたりと喫煙とは無関係に役立ったし、買うまでもなく商店やら会社やらが販促品でバラ撒いていたので、家のどこかしらには100円ライターがあったのだ。
クリケット.jpg 世界初の使い捨てライターについては、1965年(1965)にスウェーデン・マッチ社が発売した『ラウンド・スティック』をお初とする説と、昭和36年(1961)に発売されたジレット社の『クリケット』のほうが先だとする説があるんだけど、残念ならが現時点ではよく分からない。後にクリケットの販売権がスウェーデン・マッチ社に移ったこともあって余計に話がややこしくなっちゃってるし^^;
 よく分からないのは国産品も同じで、ライターについての情報を提供するネット情報のほとんどに「昭和38年(1963)に国産初の使い捨てライターが登場」したことになってるんだけど、それが「発売された」というだけで、代理販売だったのか製造販売だったのかが分からない。「作られた」と明記している資料がひとつだけあったけど、これも何というライターが誰によって製造されたのかがひとつとして書かれてないんだ。
 ハッキリしてるのは国産の100円ライターで、かつて高級ライターで名を馳せたクラウンガスライター社が昭和45年(1970)に発売した『マチュラー』がお初だ。
チルチルミチル.jpg ただ100円ライターを世に知らしめることになったのは昭和50年(1975)に東海精器(現東海)が発売した『チルチルミチル』だろう。オイルショック後のインフレで物価が高騰するご時世にあって、
「ささやかでも安値で幸せを運んでくれるものになってほしい」
 という願いを込めてこんなネーミングにしたんだそうだ。デフレの現在とは対照的なお話だねぇ^^; 東海は『チャッカマン』の製造販売でも有名なので知ってる人がいるかもね。一時期の経営不振で商標権が移ったようで、チルチルミチルの販売元は現在、東京パイプ株式会社になってるよ。
 最盛期には月産1800万個を記録を記録したチルチルミチルだけど、喫煙人口が激減した現在、往時の面影はない。東海なんかは先のチャッカマンやガスボンベ等々に活路を見出そうとしているけど、今後の舵取りが難しい業界だよね。


■東海精器「チルチルミチル」のCM 1976年■

http://www.youtube.com/watch?v=GTVCQP11pGc



■ジレット「クリケット」のCM 1975年■

http://www.youtube.com/watch?v=46a9FR_v84I&feature=related


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シームレスカーラー [雑貨]

カーラー1.jpg 母のドレッサーによく転がっていた筒状のなんか(笑)。プラスチックで網目の芯を柔らかいピンク色のスポンジが覆った不思議な代物だった。てっきり新手のオモチャかとも思い、丁寧にスポンジの皮膜と芯を分けて置いといたら、後でこってりと叱られた。
「これは遊ぶもんじゃないんだからいじっちゃダメよ」
「じゃあ何に使うのさぁ?」
「これを寝る前に髪の毛に巻いておくとね、次の朝には頭がカッコよくなるのよ。あなた、いつも見てるでしょ?」
 あー、そーいや真夜中に目が覚めて寝ぼけマナコで母のもとに行くと、眉毛のないスッピンの顔な上に、頭にチクワみたいなものをいっぱいくっつけて、しかもその上に虫取り網を被ってて怖かったな。ん、待てよ?
 弾かれたように路地に飛び出すと、夕日を浴びて眩しそうに手をかざしながら井戸端会議をしてる近所のオバチャンたちの頭にも、結構な確率でこのピンクのチクワが巻き付けられていた。そーじゃん、大人の女の人はみんなこんなふうにするんだ!
ヘアネット.jpg 家に戻って、したり顔で妹に、
「R絵も大きくなったら頭にチクワを巻くんだぞ」
 と言ったら爆笑されちゃった。妹はショゲ返った兄に、チクワが『ヘアカーラー』で、虫取り網が『ヘアネット』であることを懇切丁寧に教えてくれた。挙げ句の果てに兄貴の頭にカーラーを巻いて「実演」までしてくれたもんだから、それを母に見つかったぼんくら少年は再度、叱られるハメに^^; その時の姿がよほど滑稽だったらしくて、今でも思い出しちゃ笑われるんだな。…忘れてくれぇ!
 当時はマジックカーラーみたいな便利なものは無かったから、ほとんどの女性は『シームレスカーラー』を髪に巻き、アメリカンピンで留めていた。大阪のラッキー止製作所(現ラッキートレンディ)が昭和25年(1950)に発売して以来、シームレスカーラーは60年目の今年もヘアカーラーの定番商品として健在だよ。
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ココナッツサブレ [食]

ココナッツサブレ.jpg 昭和40年(1965)に大阪に本社を置くシスコ(現日清シスコ)から発売された『ココナッツサブレ』。実にシンプルなサブレなんだけど、サクサクした食感とココナッツの香りがクセになる。飽きない味の典型だね。
 ぼんくら家でもココナッツサブレは大人気で、3時のおやつにはよく紅茶やミルクと一緒にココナッツサブレが出てきた。50才になった今でも、ココナッツサブレを食べると妹や弟とのお三時の光景が鮮やかに甦ってくる。無言でポリポリとサブレをかじってると、誰かがクスクスと笑い出してみんなに伝染するんだよね。時には母まで(笑)。娯楽らしい娯楽があったわけでもないのに、笑うネタには困らない時代だった。
 ココナッツサブレは、発売後45年を経た今でも国産品ではココナッツを最も多く含んでいるお菓子だ。ついでに砂糖分や油脂分もふんだんに含んでいるので、ぼんくらオヤジのようなメタ坊は食べ過ぎに要注意。美味しいからつい手が出ちゃうけど、5枚食べると143kcalだからね。10枚で軽くマックのチーズバーガーを1個食べたのと同じぐらいになっちゃうよ^^;
 もう体型や健康なんてどーでもいいと開き直ってるんなら、サブレにマシュマロを載せて約1分オーブンで焼き、その上にもう1枚サブレを載せてサンドして食べてごらん。そんなんじゃ物足りないっていうんなら、インスタントコーヒーをホイップクリームに混ぜてサブレに塗り、10層ほどに重ねて一晩寝かせるとミルフィーユ風サブレができるよ。こんなレシピがたくさんあるのもココナッツサブレの特徴だ。
 平成21年(2009)の出荷数は2600万袋。1袋に25枚入っているから、年間6億5000万枚が国内外で消費された計算になる。今年に入ってからも、日産200万枚のペースで昭和の味ココナツサブレは生産されているよ。
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丸山型電気コタツ [テクノロジー]

電気コタツ第1号1.jpg ぼんくら少年は地域の問題児になるほどやんちゃで活発な子どもだったけど、小学生の頃は体がヤワというか風邪を引きやすいうえに、入院が必要なぐらいこじらせちゃうこともあった。親がこれに心を痛めたのは言うまでもないことで、冬場ともなれば布団に必ず電気コタツをセットしてくれた。
 ぼんくら少年の足を温めてくれていたのは、とても不思議なコタツだった。イングリッシュ・ブレッドのような愛嬌のある形。木製で、足で触ると少しザラザラするんだ。そのくせ電源が入っていなくても温かみを感じる肌触りだった。
 コタツが温まってくると、布団の中はほんの少し焦げ臭くなるんだけど、これは発熱部に付着したホコリが焦げたんだろうね。当たり前だけど、これで布団に火が点いたり、足を火傷したなんてことは一度もなかった。時折、サーモスッタット(温度を一定に保つ装置)の放つカッチンという音がしたけど、ホンワカした暖かさを布団の中の小さな世界にもたらしてくれる電気コタツは、冬の冷たく暗い部屋にひとりぼっちでいる心細さを忘れさせてくれるトモダチだった。
 松下電器が昭和4年(1929)に発売した通称『丸山型電気コタツ』。昭和40年代まで製造が続けられ、三洋電機なども類似品を売っていたから、馴染みのある人も多いんじゃないかな。
 松下幸之助の右腕として知られるエンジニアの雄、中尾哲二郎が生みの親だ。熱源に炭団(豆炭)を使ったコタツが大部分を占めていた当時は、冬ともなれば必ず一酸化炭素中毒による死亡事故や火災事故が報じられていたんだけど、中尾は電気コタツこそがこの問題の解決肢になるんじゃないかと注目したんだ。昭和2年(1927)のことだ。当時も電気コタツはあったんだけど、温度管理の技術が未熟で過熱が原因の火災事故を起こしやすく、とてもじゃないけど安全な暖房器具とはいえなかった。
電気コタツ第1号2.jpg そこで中尾は温度制御の決め手となるサーモスッタットの研究に没頭し、2年をかけて"渦巻き型バイメタルによる即断式サーモスタット"という新型サーモスタットの開発に成功したんだ。これは電流がすぐに切れるように、サーモスタットのスイッチ部にバネの働きをする渦巻き状のバイメタル(熱膨張率の違う2枚の金属板を貼り合わせたもの)を使用したもので、その後の電気暖房器具やアイロンなどの安全性を飛躍的に向上させることになった。昭和31年(1956)、中尾はこの発明で紫綬褒章を受けているよ。
 それから丸山型というのは、丸山さんがデザインしたって意味じゃなくて、その形状のことだからね。コタツが布団に引っかからないように、滑りをよくするために考えられたデザインなんだ。たしかにこれだと問題は解決するんだけど、木材をこんなふうに大量に加工する技術が当時はなくって、中尾は再び頭を抱えることになる。電気工学のプロだけど木工職人じゃないからね。
電気コタツ第1号3.jpg 寝ても覚めてもこの解決法を考えていた中尾はある日、ビア樽に目を留める。
「あれが出来ているんだから出来ないはずはない」
 試行錯誤の末に開発した専用機で荒削りをし、当時としては革新的な機械だったベルトサンダーで一気に仕上げるという工程を開発することで、ついに太平洋戦争をまたいで国民に愛用されることになる電気コタツが誕生したんだ。
 パナソニックでは、今でも渦巻き型サーモスタットを「元祖ブラックボックス技術」、丸山型デザインを「元祖ユニバーサルデザイン」として商品開発の手本としているそうだよ。



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蚊遣りブタ [雑貨]

蚊遣りブタ1.jpg ぼんくらオヤジの住む名古屋は、街のど真ん中ですら緑のあるところなら蚊の餌食になることがあるぐらい蚊が多い。
 活動を始める時期も早めで、昨日の昼休みに近所の公園で読書をしていたら早速、蚊に咬まれちゃった^^; ちょっと早過ぎるかなと思いながら、その足で薬局に寄って蚊取り線香を買ってきたよ。
 ぼんくらオヤジには悪いくせがあってね、こういうものを買うと無意味に開封して使いたくなっちゃうんだよね。煙の匂いも嗅いでみたくなったし。そこで押し入れから蚊遣りブタを引っぱり出して、蚊取り線香に火をつけた。蚊遣りブタの口から蒼白く立ち上る煙と香り。部屋を吹き渡る爽やかな風。ぼんくら家だけに一足早く夏が来たって感じだった。まだ窓の外に雪を見ている人は呆れちゃうだろうね(笑)。
 ところでこの蚊遣りブタ、昭和のレトログッズを挙げてもらうと必ずといっていいほど名前が出るんだな。ネットで昭和の情報を取り上げている有名なサイトでも、蚊遣りブタはほぼ昭和のものと認定されている。たとえば大空ポケット文庫の「まだある」シリーズによると、蚊遣りブタは1950年代の半ばに登場したことになっているんだよね。
 ところがギッチョン(古っ!)、いくら調べても1950年代説のウラ取りができない。そこでゼロから調べ直してみることにした。
蚊遣りブタ2.jpg まず蚊遣りブタなんだから、蚊取り線香の歴史を調べればいいじゃないの。蚊取り線香は、除虫菊を乾燥させて作った粕粉に粘性の強いタブ粉(タブノキの枝葉を乾かした粉)やデンプンを混ぜたものが主成分なんだけど、この除虫菊はなんと明治18年(1885)にアメリカから輸入されるまで日本には存在しない植物だったんだ。しかも明治21年(1888)に発売された蚊取り線香第1号は粉末で、現在の渦巻き型のものは明治28年にようやく登場した。じゃあ蚊遣りブタが登場したのは少なくともそれ以降ってことになるんだろうか。
 ところがギッチョンチョン、なんと江戸時代の宿場町だった内藤新宿(現新宿区内藤町)の武家屋敷跡から蚊遣りブタが出土していたんだよね。画像が無くて残念なんだけど、現在のものよりも口の部分がすぼまっていて、まるで徳利を寝かしたような形らしい。ブタというよかイノシシっぽい感じといったほうがいいかも。もうひとつの特徴は大きいってこと。長さが35センチ、直系が23センチもあるんだ。
 でも待ってくださいな。蚊取り線香よりも蚊遣りブタの先ってどーゆーことよ? 実は蚊取り線香が登場するまで、日本人は杉の葉やおが屑なんかをいぶして蚊を寄せつけないようにしていたんだよね。蚊遣りブタが大きかった理由はこれだったんだ。「蚊取り」じゃなくて「蚊遣り」が正しいワケだね♪
蚊遣りブタ3.jpg なんでブタかってことも、あくまで説ではあるけど、こうした蚊遣りの方法が火事に結び付きやすいことと関係があったらしい。ていうのはね、イノシシは火伏せの神様でブタは水神の使いって民間信仰があったからなんだ。
 他にも常滑、今戸、四日市などがオラが発祥の地と名乗りを上げている蚊遣りブタ。こんなルーツに思いを馳せると、今年の夏にご対面する蚊遣りブタの表情が少しは味わい深くなるかもね。




■蚊取りネコ? こりゃ蚊遣りじゃないやね^^;■

http://www.youtube.com/watch?v=uVrLULS2EN8



■iPhoneアプリ「蚊取りPod」 これじゃ人も逃げてくわいっ!■

http://www.youtube.com/watch?v=FC1dUbeWTn4


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コンコルド [テクノロジー]

コンコルド1.jpg 昭和47年(1972)年は、札幌オリンピックが開催され、浅間山荘事件や千日デパート火災が発生し、川端康成がガス自殺を遂げ、当時通産相だった田中角栄が列島改造論をぶち上げた年だった。テレビのスイッチを点ければトワ・エ・モアが「虹と雪のバラード」を、山本リンダが「どうにもとまらない」を、ガロが「学生街の喫茶店」を、あがた森魚が「赤色エレジー」を、森昌子を「せんせい」を歌っていた。学校の休み時間には、昨晩観た「太陽にほえろ!」や 「ムーミン」「科学忍者隊ガッチャマン」が話題にる、そんな年でもあった。
 大阪万博やアポロ計画の余韻が残っていたのか、科学の約束する明るい未来を妄想していた中1のぼんくら少年にとっては、同年の6月12日に羽田に飛来したコンコルドの記憶が胸に焼き付くことになったんだけどね。
コンコルド3.jpg コンコルドは、フランスとイギリスという犬猿の仲の国が共同開発した超音速旅客機(SST)だ。初飛行は昭和44年(1969)で、1万6000~1万8000メートルという通常の旅客機の倍の高高度をマッハ2.0で飛ぶという、現在の感覚からしても夢のような旅客機だった。
 日本に就航すればアメリカもヨーロッパも、理屈の上では日帰りという信じられないことが可能になるわけで、これは海外旅行さえままならなかった当時の少年少女にとっては、月に行くよりも現実的で夢のような話だった。
 でも現実は違った。SSTが超音速航行で発生させる衝撃波がもたらす地上への悪影響や、高高度を飛ぶ際にオゾン層に与える影響が早い時期から問題となって、乗り入れを予定していたニューヨークでは市民の激しい抗議運動が起きた。
コンコルド2.jpg 経済的な問題もあった。SSTは一度に80~100名ほどの乗客をさばくことしかできない上に燃費もベラボーに悪く、よほどの金持ちでもなければ利用できないような高コスト体質から終ぞ脱却することができなかったんだ。機内はかつてのYS-11型機並みに狭く、居住性もいいとはいえなかったしね。
 皮肉なとことに、こうした問題をクリアできずに早々とSST事業から撤退したアメリカが、旅客用のSSTと平行して貨物機として開発していた機体を旅客機に転用したことで、SSTはとどめを刺されることになる。ボーイング747、つまりジャンボジェット機はこうして誕生したのだった。
 その後、世はグローバル化にシフトして人々が国境を越えて行き来するようになり、ジャンボジェット機のような大型旅客機は時代の要請に応えるように次々に開発と製造が行われていったけど、SSTはコンコルド以降、後続機が開発されることはなかった。
 コンコルドは原型機4機も含めて計20機が製造され、パリ・ロンドン-ニューヨーク・ワシントン間、パリ-ダカール-リオデジャネイロなどを定期運行路線として細々と運行を続けていたんだけど、平成12年(2000)7月25日に発生した墜落事故の影響と、翌年のアメリカ同時多発テロによる運行会社(エールフランスとBA)の収益悪化の余波を受け、平成15年(2003)11月26日のヒースロー着陸をもって全機が運行を終了してしまった。
 平日だったので残念ながら直接、会うことはできなかったコンコルド。ニュースは釘づけになって観てたけどね(笑)。大人になる頃にはこれに乗って世界中に行けるのかな、と思うと本当にワクワクしたなぁ。タマゴ飛行機以外は手をつけたことのないぼんくら少年が丹精込めて作った唯一のプラモデルもコンコルドだった(まだ実家にありますぜ♪)。それだけ思い入れのある飛行機だけに、不遇な生涯を思うと今でも悲しくなるんだ。
コンコルド4.jpg 平成12年(2000)の事故の映像は、事故機が離陸する直前に整備不良のコンチネンタル航空機が落としたパーツが原因だったことや、搭乗者109名と地上にいた4名の尊い人命が奪われてしまったことを思うと本当にやりきれなくなっちゃう。犠牲者と悲運のコンコルドに心から哀悼の意を表したい。



■コンコルドの離着陸とコックピットの映像 2003年■

http://www.youtube.com/watch?v=_5xZSCGlDW4



■コンコルドの機内です。いやぁ、狭いですねぇ!■

http://www.youtube.com/watch?v=ArENfr9aOvU&feature=related



■2000年7月25日の墜落事故の様子です。シャルル・ド・ゴール空港にて■

http://www.youtube.com/watch?v=Qid2s89OfZU&NR=1


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ノストラダムスの大予言(BlogPet)

ぼんくらオヤジの「ノストラダムスの大予言」のまねしてかいてみるね

変な環境汚染の人類滅亡を滅ぼすことに著した核兵器や環境汚染の日本人のベストセラー第1冊できない。

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

ノストラダムスの大予言 [本]

ノストラダムスの大予言1.jpg 変なことを唐突に聞くけど、予言って信じる? 最近じゃジュセリーノやジョゼフ・マクモニーグルなんかが有名だけど、昭和の少年マンガ誌の巻頭カラーページをよく飾ったのは、アトランティス文明の存在を予言したエドガー・ケイシーと、16世紀フランスの大予言者ノストラダムスの2人だったよね。
 とくにノストラダムスの予言は社会現象と言っていいようなブームを巻き起こした。火付け役となったのは、反ユダヤ主義者で終末論者でもあった作家の五島勉が書き下ろした『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)で、昭和48年(1973)の年末に発刊されて3ヶ月も経たないうちに100万部を売り上げちゃうという大ブームを巻き起こした。
ノストラダムス2.jpg 医者にして占星術師だったノストラダムスが1555年に著した『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の詩を生涯を交えて紹介しながら、五島独自の解釈を加えるという体裁だったけど、読んだ人は覚えてるかな。当たったとされる詩と史実を組み合わせて紹介しながら、当時の人々にとっての不安の的だった核兵器や環境汚染の問題を織り交ぜて、最終的には1999年の人類滅亡へと話を収斂させていく。カンタンにいってそんな本だった。
 昭和49年(1974)のノンフィクション部門ベストセラー第1位、総合部門でも五木寛之の『かもめのジョナサン』に次ぐ第2位となるほどのベストセラーになったんだけど、実はこの本、ノンフィクションとはおよそほど遠い内容だった。
 先ずもって五島には原資料を精査するための中世フランス語やラテン語の知識が無かったようで、彼が執筆するに当たって使用したのは邦訳乃至は英訳文献だったと思われるんだ。
五島勉.jpg まさかと思うかもしれないけど、五島はノストラダムスの本のタイトルからして誤訳しちゃってるしね。たとえば、本来なら「百詩篇」「百詩篇集」とでも訳さなければならない予言集の通称"Les Centuries"を五島は「諸世紀」としちゃってるんだけど、これは昭和36年(1961)に平田寛が"century"と勘違いして訳出した「諸世紀」を孫引したとしか言いようがない。後に五島は、
「そんなことは知っていたけど、世界がいつまでも続くようにという願いを込めて『諸世紀』という題名を“自分で”付けた」
 という反論をしてるんだけど、いかにも苦し紛れだよね(笑)。
 他にも、挙げると本が1冊できちゃうんじゃないかと思うぐらいにツッコミどころが満載で、次々に史実にはない人物や資料が登場してくるんだけど、これがなんでノンフィクション部門にノミネートされたのかねぇ^^; 小説として発表すればよかったのに。
 それでも本はガンガン売れるわ、マスコミは五島の著書に沿った内容の特番を組んで放送するわで、五島御謹製の誤ったノストラダムス像はその後の日本人の脳裏に刻み込まれちゃった観がある。
ノストラダムス1.jpg これだけならまだ笑って済ませる余地があるんだけど、後続のシリーズに至っては、中国人民解放軍がヨーロッパ侵略を行うことになるとか、ユダヤ人が世界を滅ぼすことになるとか、欧米文明が諸悪の根源であるとかいった極端な方向に走っていく。世論がそんな方向に付いていくはずもないんだけど、人類滅亡を何者か(彼の表現で言えば「別のもの」)が救うという思想は、ガンダムならまだしも、明らかに後のオウムを始めとするカルト教団に影響を与えていて看過できない。
 五島の荒唐無稽な「予言」と終末思想。なんでそんなバカバカしいものに大衆が迎合したのかと笑う平成人よ、それほどまでに核戦争や世界的な環境汚染の恐怖と現実に昭和の人々は曝されていたんだよ。



■ジューダス・プリースト「ノストラダムス」 2008年■

http://www.youtube.com/watch?v=n19nUjLDg9I&feature=related



■ヒストリー・チャンネル「ノストラダムス2012」より(英語)■

http://www.youtube.com/watch?v=p5cI7qUBo4s&feature=related
※続きはYouTubeでご覧になれます。



■TF1のミステリー番組「ノストラダムス」(フランス語)■

http://www.youtube.com/watch?v=Llny0WaOHeI
※続きはYouTubeでご覧になれます。


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まんが日本昔ばなし [漫画・アニメ]

日本昔ばなし1.jpg 昭和50年(1975)からNET系列で放送が始まった『まんが日本昔ばなし』。ぼんくらオヤジは同年の3月までの第1期は高校受験の真っ只中でまったく観れなかったんだけど、翌昭和51年(1976)からTBS系列で始まった第2期は弟と、なんと父が夢中になってしまったので、引き摺られるように高校生のぼんくらも付き合って観るようになっちゃった。
 このアニメ、森進一との「おふくろさん」騒動で平成の若者も顔を覚えた川内康範が監修し、彼の娘さんで童話作家の川内彩友美が企画を行うという親子の連係プレーで制作が進められたんだ。
市原悦子.jpg 日本各地の民話をベースに構成された昔ばなしは、語り部によって伝えられてきた民話の味わいを損なわないように、市原悦子と常田富士男がたった2人で何役もの声とナレーションをこなすという独自のスタイルで語られた。
 絵のほうも、シンプルに見えたかもしれないけど凝っていたんだよ。ベテランのアニメーターやイラストレーターを多数起用し、彼らの描いた1枚1枚のセル画をフィルムに落とし込むというアニメの王道を行く手法が使われたんだ。
常田富士男.jpg 音楽を担当したのは北原じゅん。民謡からロック、クラシックに至るまでの多彩な音楽を巧みに用いて市原と常田の語りに華を添える重要な役割を果たしたんだけど、なんと北原も川内の甥っ子さんなんだよね。
 万事において手を抜かず良質であることを心がけた『まんが日本昔ばなし』は、お茶の間の最高視聴率33.6パーセント(東京)という高い支持を受けて1970~80年代のTBSを支える看板番組になった。90年代に入って競合番組に視聴率を奪われ、平成6年(1994)3月に全国ネット枠の放送終了に追い込まれた後も視聴者からのリクエストは後を絶たず、ローカル枠での再放送は日本のどこかで途切れることなく行われる状態だった。
 公共広告機構(現ACジャパン)が昭和57年(1982)に流した「もったいないお化け」や「ツンツン娘」などのキャンペーンに採用されたように、妙なお仕着せではない形で大切なことを子どもたちに伝える役割を果たしてくれた希有なアニメだったともいえるね。
日本昔ばなし2.jpg 番組の息の根を止めた競合番組が『たけし・逸見の平成教育委員会』や『美少女戦士セーラームーン』だったことや、平成17年(2005)から復活したゴールデン枠が『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』や『クイズ!ヘキサゴンII』に食われて1年の短命で終わってしまったことを思うと、この数十年の間に、お茶の間でどういう変化があったのかが分かるような気がして薄ら寒い思いがするのはぼんくらオヤジだけだろうか。



■「まんが日本昔ばなし」オープニング■

http://www.youtube.com/watch?v=Rd_m9kxNC_A



■「まんが日本昔ばなし」 - 夜中のおとむらい■

http://www.youtube.com/watch?v=WgTqcUltRuI



■「まんが日本昔ばなし」エンディング■

http://www.youtube.com/watch?v=whQPj0jz6Oo&feature=related


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家庭盤 [遊び]

家庭盤.jpg ゲームの記事をアップすると、決まってコメント欄に登場する思い出のゲームがある。ダイヤモンドゲーム、コピットゲーム、ルードゲームなどのボードゲームだ。
 実はこの3ゲーム、昭和の子どもたちにとってはセットで思い出せる理由があるんだよね。『家庭盤』という名称は知ってるかな。いくつかのボードゲームやカードゲーム、時にはチェッカーやオセロ、ルーレットまでを同梱したゲームセットのことだ。
 ハナヤマやエポック社、任天堂などから家庭盤の名で発売され、ゲームの種類も数も様々で「これが基本セット」っていうのはないんだけど、先のダイヤモンド、コピット(コビト)、ルードの3種は、たいがいの家庭盤に組み込まれていたんだ。覚えてる人が多いのは、たぶんそのせいだと思うよ♪
 家庭盤のお初については、昭和の生き字引として知られている日曜研究家の串間努さんがハナヤマの前社長小林邦巖さんにインタビューした際に、はなやまゲーム研究所(現ハナヤマ)が昭和14年(1939)に家庭盤を発売したって旨の発言を引き出してるんだ。エポック社は戦後にできた会社だし、任天堂は明治の創業だけど、戦前に作っていたゲームといったら花札とトランプぐらいだったから、家庭盤が日本で発売されたのは太平洋戦争直前の昭和14年(1939)だったとみてよさそうだ。
 小林さんによると、家庭盤という名称はファミリー・ゲームの訳語として生まれたらしい。あくまで推定だけど。初回盤に採用されたのはダイヤモンド、コピット、ルード、それに『名探偵』というハナヤマのオリジナル・ゲームの4種類だったとのこと。内容からしても、戦後の家庭盤の原型になってるよね。
 ハナヤマの家庭盤が売れた最盛期は昭和30年代で、その後は次々に登場した派手なゲーム群に埋もれて存在感を失っていっちゃった。
 先述の串間さんは、
「団塊の世代以降、少子化が加速してゲームのメンツが足らなくなったのも家庭盤が衰退した理由のひとつ」
 という指摘をしてるよ。なるほど、たしかにぼんくら少年が遊ぶ時には友だちの家に集まってメンツを揃えてから遊んだことのほうが、家族と遊ぶよりもはるかに多かった。妹は年子だったからゲームの相手になったけど、弟は7才も離れてたからね。家族でやる時は、年の半分は家にいない父がいる時で、しかも誕生日や年末年始の晩ぐらいだったかな。
家庭盤2.jpg 今もゲーム・メーカー各社から細々と売られている家庭盤だけど、平成に入ってからは特に複数の人間で遊ぶゲームは売れなくなっているということで、いつ販売が打ち切られても不思議じゃない現状のようだ。片付けなかったりコマを無くして叱られたり、ルールをめぐって友だちとケンカになったり、思い出は尽きないゲームだもん。生き残っていって欲しいね。
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