チョロQ [遊び]
3~4センチ程度の大きさで、初期型はプルバック式のゼンマイばねが駆動力だった。オモチャといってバカにしちゃいけないよ。当時の最先端素材だったエンジニアリング・プラスチックを歯車や軸受けなどに採用し、摩耗が少なく軽量の動力部を実現したおかげで、あの驚異的なダッシュ力を発揮することができたんだ。
車体の後部に10円玉を差し込めばウイリー走行も可能だったよね。これをやり過ぎてシャーシを傷めちゃった人もいるんじゃないかな。小さくて寸詰まりの可愛らしい外観からは想像も出来ないような過激な走りが男の子の心を捉えたんだろう。チョロQは発売後一年で1000万個を売り上げる大ヒット商品になった。
車体はそれぞれのパーツがネジ1本で分解できるようになっていたので、外観をカスタマイズしたり、エンジンをチューンアップすることがカンタンにできた。弟は手先が器用だったので、パーツの内側を削って軽くしたり、独自のカラーリングを施してオリジナルパーツを作って楽しんでいたよ。友達同士でパーツの交換をするのも流行っていたようで、弟の部屋にはよく友達が入り浸っていたっけ。兄貴の下宿で空いた部屋は、棚という棚にずらりとチョロQが並べられ、たまに泊まるとガレージで寝泊まりしているようで落ち着かなかったし(笑)。
チョロQはその後も28年間にわたって子どもたちに愛され続けたんだけど、平成21年(2009)にスタンダードチョロQは生産を終了した。現在では、従来のゼンマイ仕様以外にリモコン操作のできる電動モデルがラインナップされた『チョロQハイブリッド!』がチョロQの歴史を引き継いでいる。
■チョロQハイグレードのCM 1987年■
http://www.youtube.com/watch?v=uEx-IAh8dQE
■チョロQ大行進! いろんなチョロQがありますねぇ^^■
http://www.youtube.com/watch?v=SW4V_EnMrls
■新世代チョロQハイブリッド! むぅ、面白いかも♪■
http://www.youtube.com/watch?v=tETSEkftTBY
ウォークマンが出た! [テクノロジー]
ぼんくらオヤジは、もっぱらバイトのお金を旅行の資金にしていたので物品の購入に充てることはあんまりなかったんだけど、ひとつだけ鮮明に覚えてるのは、昭和56年(1981)の春休みにソニーの『ウォークマン』を買ったことだ。
当時のウォークマンだから当然カセットで、オプションのバッテリーパックも単一アルカリ電池を2本ブチ込むというヘビーなものだったけど、これと併用すると60時間は音楽が楽しめるというスグレモノでもあった。ぼんくらの買ったものは写真のWM-2型で、通算で250万台を出荷するという大ヒットを記録した。
昭和54年(1979)7月に初代ウォークマンが発売されてから、ぼんくらはこれが欲しくて堪らなかったんだよね。だって、場所と時を選ばずに好きな音楽が聴ける携帯型のステレオ・プレイヤーなんて、レコードとバカでかいラジカセしかなかった時代には夢のようなアイテムだったんだもん。人並みに音楽好きだったぼんくらは、たちまちにしてウォークマンの虜になり、アルバイトで稼いだ生活費を切り詰めて購入資金を貯め始め、半年後に遂に念願のウォークマンを手に入れたのだった。
通信社のメッセンジャーボーイのバイトをしていて、時給も当時としては破格の800円近くは貰っていたし、どうにもならなければ電車で30分の実家に転がり込めばいい身だったので実入りはそんなに悪くなかったんだけど、それでもオプションも併せれば4万円にもなるわけで、やっぱりカンタンに手の届く代物じゃなかった。
しかもお金が貯まり、嬉々として買いに行ったら現物がないので予約してくれとのこと。足を棒にして都内のソニーショップを点々としてみたけど結果は同じで、泣く泣く幼馴染みの家で経営していたソニーショップで予約。手もとに届くまでは1ヶ月近くも待たされちゃった。
だから物を受け取った時の感動といったらなかったね! 下宿に戻る時間ももどかしかったので歩いて数分の自宅に小走りで向かい、家族が見守る中で箱を開けた。コンパクトなボディとその軽さに、操作ボタンのデザインの斬新さに、ダイダイ色のヘッドフォンに、オプションの電池ボックスに、いちいち家族全員が、
「おお~っ」
震える手で単三電池を2本、本体に装填し、家に転がっていた適当なカセットテープをセットしてヘッドフォンをかけ、再生ボタンを押す。
「おおお~っ」
こんなコンパクト・プレイヤーのどこからこんなに豊かで臨場感のある音が出てくるのかと再び感動。とはいっても、周りの家族にはシャリシャリとしたおとしか聞こえていないので、ぽかんと口を開けてこちらを観ているだけ。間の抜けた光景だったろうね(笑)
「聴いてみれっ、みれっ!」
感動のあまり何語だか分からない言葉でヘッドフォンを回すと、音を聴いた家族がいちいち、
「おおお~っ」
老若男女に関わらず感動するだけの技術を持っていたんだ。時代もここまで来たのか、みたいな。
そんなこんなで1ヶ月ほど経ったある日、再び実家を訪ねたぼんくらは、ひっくり返るほど仰天してしまった。居間のソファで父が見馴れたオレンジ色のヘッドフォンをしてイビキをかいていたのだ。もちろんその先にあったのは…。
■ヒューバート・カーの "Angel 07" バージョン 1985年■
http://www.youtube.com/watch?v=x1sZxdcPDSQ
■初代チョロ松バージョン 瞑想する姿が印象的でしたね♪ 1987年■
http://www.youtube.com/watch?v=IKzNIP1x1R4
■初代チョロ松バージョンのパロディ by 志村けん 年代不明■
http://www.youtube.com/watch?v=ODJeNKxJgR8
マルシンハンバーグ [食]
昭和37年(1962)にマルシンフーズが発売したマルシンハンバーグは、現在でこそ鶏・豚・牛肉の合い挽きを使用しているものの、発売当初は高価な牛肉が使えずに鯨・豚・マグロと玉ねぎ、パン粉、脱脂大豆や小麦を加工した植物性タンパクを練り合わせてラードでコーティングしたものだった。
ハンバーグの発売に先立つ2年前の昭和35年(1960)に設立されたマルシンフーズはマグロの切り身やイカのもろみ漬け、煮こごりなんかの水産加工品を扱う会社としてスタートしたんだけど、創業者の有川有一さんは目の付け所が違う経営者だった。食の欧米化が進んでいた家庭の食卓に注目し、
「ハンバーグを家庭でカンタンに作れるようになったら、きっと売れる」
と確信する。
とはいえ、いくら美味しくても高ければ庶民の口には入らない。そこで水産加工業者ならではの智恵が鯨・豚・マグロの合い挽きというアイデアを生み出したんだね。これで原料コストはクリアだ。
次は、どう鮮度を保つかだ。なんといっても1960年代は電気冷蔵庫がやっと普及し始めた頃で、あくまで常温保存が前提。当時の流通事情を考えると、せめて10度以下の温度で2週間は鮮度を保つ必要があった。
もうひとつのハードルは、どうすればカンタンに調理できるかだ。手間がかかっちゃ主婦からそっぽを向かれちゃうもんね。
この鮮度と調理の手間を一挙に解決したのが「油脂コーティング」だ。熱処理して殺菌したハンバーグ全体にラードを塗れば外気と遮断されて鮮度は保たれるし、フライパンに油を引かずに済む。
こうしたアイデアの集積は1個14円という驚異的な低価格となって実を結ぶ。コロッケが10円、牛乳が14円、コーヒーが60円の時代のことだ。
高度経済成長期の消費者心理を見事に捉えたマルシンハンバーグは売り上げを急速に伸ばし、昭和45年(1970)のオートメーション工場の建設を機に生産拠点を全国8ヶ所に増やした結果、昭和50年(1975)から昭和52年(1977)にかけては日産100万食を生産する絶頂期を迎えたのだった。
時代の波に乗って寵児にのし上がったマルシンハンバーグは、1980年前後を境に、再び時代の要請によって、今度はトップの座を滑り落ちていく。チルド食品が発達、普及して本格的なハンバーグがカンタンに食べられるようになった結果、庶民の味方はチープなニセ物というレッテルを貼られることになってしまったのだ。
「マールシン、マールシン、ハンバーグ♪」
大阪万博以降に少年少女だった昭和生まれなら間違いなく知っているCM。『ハクション大魔王』『タイムボカン』シリーズなどアニメ番組のスポンサーになり、子どもたちの心をがっちりと捉えるストーリー生のあるCMを流していたよね。これも平成2年(1990)に中断せざるを得ないぐらいマルシンハンバーグの売れ行きは悪化し、平成12年に底を打つまで冬の時代が続く。
それが平成17年(2005)になって、15年ぶりにテレビからお馴染みのCMソングが流れるようになった。日本経済が冬の時代を迎え、懐事情の厳しくなった庶民が、再びマルシンハンバーグに注目するようになったのだ。具材を鶏・豚・牛肉の合い挽きに変更して食品添加物を控えるなどの品質向上を行って値段を据え置く企業努力も功を奏した。
高度経済成長期を支えたマルシンハンバーグは、今度は経済の氷河期にある日本の庶民の味方になろうとしている。
■マルシンハンバーグCM 転校生男の子編 1980年代■
http://www.youtube.com/watch?v=skYv0HxO9Kk
■マルシンハンバーグCM 転校生女の子編 1980年代■
http://www.youtube.com/watch?v=umNdg6Yfq5o
紅茶キノコ [社会現象]
近所の食料品店で安い食料を物色していたぼんくらは思わず奇声を発してしまった。"KOMBUCHA"というラベルの貼られたペットボトルがあったのだ。色は薄い茶色で説明を読もうとしたんだけどロシア語でちっとも分からない。店のオヤジさんに訊くと、
「まあ、サワードリンクの一種だな。美味しいから飲んでみな。健康にもいいそうだから、お前さんみたいな顔色の悪い貧乏学生にはちょうどいいだろ」
なんぞと余計なことを言う。初めはこれは日本の飲み物で海草を乾燥させて粉にしたお茶だと知ったかぶるつもりだったのが、すっかりその気も失せて、語気に押されるように買ってしまった。
帰宅してパンとチーズにリンゴというささやかな夕食を摂り、神妙な面持ちで"KOMBUCHA"の栓を開けた。一瞬、ブラックチョコともトリュフともとれるような独特な香りが漂う。むー、これは昆布茶の匂いとは似ても似つかないぞ^^; 恐る恐る口を付けると、昆布茶じゃなかったけど覚えのある味が口いっぱいに広がった。どういえばいいのかな、酸味の強いレモンティーに年代物の紹興酒をちょっと混ぜたような味で、オマケに微炭酸ときたもんだ。決して嫌いな味ではなかったんだけど、これが何故ゆえ昆布茶なのだろうという疑問と、何故この味を知ってるんだろうという思いがグルグル頭を駆け巡って落ち着かなかったのなんの。
翌日、大学の図書館で調べてみると、
「Чайный гриб(チャイヌイ・グリプ)。モンゴルで生まれた発酵飲料で主にシベリアで飲まれていたが、やがてヨーロッパでも薬用飲料として飲まれるようになった。乳酸菌や消化酵素、タンパク質分解酵素などを豊富に含み、免疫機能を高めることで知られている。20世紀初頭に日本の昆布茶と混同された結果、欧米では"KOMBUCHA"と呼ばれるようになった」
とエンサイクロペディアには解説が出ていて、ビンに貯蔵された自家製の"KOMBUCHA"の写真が載っていた。ビンには布と思しき通気性のあるフタがしてあって、中に茶色い液体が入っている。その液体には大きなキノコのカサのようなものが浮いている…。ん? これって実家にあったような…。思い出したぞ、一時期、母が作っていた『紅茶キノコ』じゃん!
1970年代の半ばに、健康ブームの先駆け的存在として大流行した紅茶キノコ。ハタから見れば腐っているようにしか見えない得体の知れない飲み物。口にすれば想像通りの酸っぱい風味。これを体にいいからと無理矢理飲まされた人もいるんじゃないだろうか。
昭和49年(1974)に出版された中満須磨子著『紅茶キノコ健康法(地産出版刊)』が火付け役となったブームだったけど、出版後半年余りで紅茶キノコの愛飲家は300万人に膨れあがったと推定されている。
連日のようにマスコミが特集を組み、芸能人や各界の著名人が効能を謳う発言を繰り返したってこともあるんだろうけど、「右向け右」の体質が色濃かった昭和の日本人体質を思い出すねぇ^^; ぼんくらの母も例外に洩れず、砂糖を入れた紅茶に菌体を入れ、ガーゼでフタをしてせっせと紅茶キノコを作っていた。ぼんくらも弟妹もビンの中で徐々に乳白色の金の塊が成長していく様を眺めて面白がっていたんだけど、あんまり頻繁にビンを引っぱり出すものだから、
「キノコは明るいところが嫌いなのよ。だからあんまり出しちゃダメ」
と母に注意されて、直ぐに食器棚の下に戻さなきゃならなかった。母は「キノコ」と呼んでいたけど、これは酢酸菌の作るぶよぶよしたセルロース(繊維素)で、酢酸菌と酵母菌の集合住宅みたいなものだった。
好きとはお世辞にも言えない風味だったけど、母が皆の健康を気遣って作ってくれたものだからという思いで、みんな健気に文句も言わずに飲んでたな、父も含めてね(笑)。
その紅茶キノコが突然、テーブルから消えた。昭和50年の秋だったと思う。なんでも作る時に雑菌も繁殖してしまうために却って身体に害をなす場合があるという指摘が朝日新聞に掲載され、その上、厚生省の「効果の実体は明確ではない」という肯定も否定もしないという国会答弁が失望感を煽ってブームが終わっちゃったらしい。熱しやすく冷めやすいとは、良くも言ったもんだね!
何だか悪者扱いされて忘れられちゃった紅茶キノコだけど、培養液の雑菌汚染については、現在では酸性化のためにほとんどの有害細菌は死滅し、繁殖が抑えられる結果、よほど不潔にしていない限りは大丈夫とのこと。なんだ、お酢と一緒じゃん! 生きた栄養素による一定の効能も期待できそうなんだけど、繁殖する酵母菌によって産生する成分が違ってしまうので、「紅茶キノコにはこれこれの成分があってこんな効能があります」と言い切れない厄介な側面もあるようだ。
例えばナタデココ。あれってフィリピン産の紅茶キノコを熱処理したものなんだよ。火を通しちゃってるから薬効は望めないんだけど、おシャレなお店で頂いていたナタデココが、実は昭和の流しの下で繁殖していたブヨブヨの菌の塊だったなんて笑えるよね♪
カネヨクレンザー赤函 [雑貨]
母に頼まれて妹とおつかいに行くと、時折、買い物リストに『カネヨン』という項目があったんだけど、母のいうカネヨンとはこの赤箱のことだった。ホントは液体クレンザーのほうがカネヨンだったんだけどね。律儀な妹は、
「これだと思うから買ったけど、これはカネヨンじゃないわよ」
と買い物をする度に母に噛みつき、母は、
「あら、そうだったわねぇ。でもこれでいいのよ♪」
と反省するでもなく平然と受け取り、その後の買い物リストには相変わらず『カネヨン』の文字が躍るのだった。
カネヨクレンザーが鈴木山陽堂(現カネヨ石鹸)から発売されたのは昭和8年(1933)のことだ。
クレンザーという名前を日本人が知ったのはアメリカ製品が輸入された大正時代のことなんだけど、それ以前から日本では鍋や釜を洗うのに『磨き砂』と呼ばれる砂や火山灰を原料とする粉をタワシやヘチマに付けて使っていたんだ。日本人って凄いね! ただこの磨き砂だと、たしかにキレイにはなるんだけど、所詮は砂なので傷も付いちゃう。
カネヨの創業者、鈴木治作さんは伝統的な磨き砂とアメリカ製クレンザーに注目し、山形県産の微細粒子、白土(火山灰の一種)を研磨成分としてこれに洗剤を加えて、国産クレンザーを作りだしたのだ。
商品の開発は順調だったクレンザーも、市場に受け入れられるまでの道のりは厳しかった。製品の斬新さに加えて発売当初は375グラム入りの角函で10銭と、結構なお値段だったこともあって全く売れず、連日問屋を駆けずり回っても相手にしてもらえない日々が続く。
そんなある日、鈴木治作さんは実にどん臭い手に打って出る。リヤカーにカネヨクレンザーを積み込んで問屋を訪問し、勝手に運び込んじゃうのだ。そしてリヤカーは問屋からチョッと離れた場所に隠して置いて商談を始める。話がまとまればそれで良し。まとまらなければ、
「相済みませんがリヤカーが先に帰っちゃいました。商品を持ち帰れないので、取りに戻るまで置かしてください」
と頼んで帰り、そのままにしておく。やがてしびれを切らした問屋が連絡してくると当日は取りに行かず、翌日に出向いて商談を再開する。このしぶとさにはたいていの問屋が根負けして、商品は徐々に市場に流れるようになっていったのだった。「ものを売ってなんぼ」という商いの基本を地でいくエピソードだよね。なんかスマートになっちゃった現代のセールマンに見習ってもらいたい姿のような気もするな。
カネヨクレンザーの全盛期は戦後に到来する。戦後に食の欧米化が家庭でも進み、油汚れをさっぱりと落とす洗剤としてカネヨクレンザーがひとり勝ちする時期が10年ほど続いたのだ。台所用洗剤がクレンザーだけなんて、今流に考えたら、
「クレンザーなんかで何でもかんでも洗ったら食器が駄目になっちゃうじゃん!」
ってことになるんだけど、台所用の合成洗剤が登場するのは1950年代の半ばだ。クレンザーの他には磨き粉や米の研ぎ汁しかなかった時代を想像すればやむを得ないことだったのだ。
大手の洗剤メーカーがクレンザーの生産を始め、合成洗剤の普及が進むにつれてカネヨクレンザーのシェアは徐々に落ちていったけど、根強い支持が絶えることはなく、遂に今年で喜寿を迎える。成分の大半が自然のもので河川を汚さず、パッケージもリサイクル可能な紙。費用対効果も抜群のカネヨクレンザーは、エコに目覚めた消費者から再び注目されている誇るべき昭和の遺産なのだ。
シーチキン [食]
はごろもフーズが昭和33年(1958)に発売を開始したマグロやカツオの油漬け缶『シーチキン』も、日本じゃツナフレークと呼ぶよりも通じるんじゃないだろうか。名前の由来は読んで字の如しで、味が鶏肉のササミに似ていることからその名が付いたそうだ。
シーチキンに先立つツナ缶の歴史はさらに古く、研究自体は日露戦争の頃から各地の水産試験場で行われていたんだけど、商品化に成功したのは昭和4年(1929)のことだ。静岡の水産試験場が開発に成功し「富士丸ブランド」のラベルを貼ってアメリカに試験的に輸出したところ、これが大当たり。気をよくして民間業者に声をかけたところ、現在のSSK清水食品株式会社が真っ先に手を挙げ、生産を開始。翌昭和5年(1930)には9800ケースをアメリカに輸出して成功を収めた。そしてさらに翌年の昭和6年に2番手で手を挙げたのがはごろもフーズの前身である後藤缶詰で、同社は戦後、消費の伸びを見越して供給先を国内に切り替え、現在の地位を築いたのだった。
ところでシーチキンと一言でいうけど、形状や調理法によって様々な種類があるって知ってた?
例えば形状だけど、3種類あるんだよ。
先ず、ほぐさずにまんまの形で缶詰にしたブロックタイプ(ソリッドタイプ)というのがあって、これは料理に応じてどんなふうにも使えるものだ。『シーチキンファンシー』はこのタイプだよ。
次がチャンクタイプといって、身を大きめにほぐしたもので、カレーやシチュー、オムレツなど、形の分かるほうが美味しそうだし、食感もそれなりに感じられたほうがいい料理に向いている。チャンクタイプのものは『シーチキンL』のみが販売されている。
最も一般的なのはフレークタイプで、これは思いっきり細かくほぐしてあるよね。ご存知の通りで、フレークはサンドイッチや手巻き寿司、おにぎりなどに非常に便利な食材だ。『シーチキンフレーク』や『シーチキンLフレーク』『シーチキンマイルド』がこのタイプになる。
調理法でみると4種類に分けられるよ。
最もフツーの油漬けだけど、油は綿実油か大豆油に野菜エキスを合わせたものを使っていて、『シーチキンファンシー』と『シーチキンフレーク』は綿実油、『シーチキンL』と『シーチキンLフレーク』は大豆油を使っている。ただし『シーチキンマイルド』に限っては大豆油のものとキャノーラ油のものがあるからね。キャノーラ油を使用している缶には大きく表示がしてあるから分かると思うよ。
油漬けではなく油と野菜エキスを味付け成分とした水煮のシーチキンもあって、これはフレークにそれぞれコーンや大豆、ポテト、ダブルビーンズ、チーズなどを加えて調理した変わり種になっている。『シーチキン・プラス』というシリーズがそうだ。
水煮はさらに、油を使わずマグロ節とマグロエキス(あるいはカツオ節とカツオエキス)に国産塩を加えて仕上げた『素材そのまま』シリーズと、味付けは一切行わずに天然水だけで煮た『食塩・オイル無添加シーチキン純』がある。
あ、それから『シーチキンマイルド』はマグロじゃなく、カツオ・フレークだよ。ちなみに使用されるマグロは世間を賑わせているクロマグロじゃなく、ビンナガマグロとキハダマグロだから安心してね。回転寿司からマグロが消えても、シーチキンは生き残るはず(笑)?
■名前の由来をCMにしています。古そうなんですが年代不明です^^;■
http://www.youtube.com/watch?v=x9beJd4uOS0
■スターウォーズもどきバージョン(笑) 1978年■
http://www.youtube.com/watch?v=2Q02weIJD3I
■十朱幸代夏休みバージョン 懐かしいですねぇ! 1988年■
http://www.youtube.com/watch?v=2L8pTu_FZdg
あなたの知らない世界 [テレビ]
ところで、夏休みとか旗日でないと観れなかったのがお昼のワイドショーだったよね。教育をしっかりしている家庭だと見せてもらえなかったもしれないな。不倫だ、芸能スキャンダルだと、子どもに触れてもらいたくないネタのオンパレードだもん(笑)。
ぼんくら一家は教育上の配慮とは無関係にご飯時にテレビを点ける習慣がそもそもなかったので、フツーならお昼のワイドショーなんかとは無縁だったんだけど、昭和48年(1973)の夏休みから毎年、お盆のシーズンの水曜日に限ってテレビの音が聞こえるようになった。
何でかというと、日テレの『お昼のワイドショー』でやっていた『あなたの知らない世界』というコーナーに家族全員がかじりついていたためで、この時だけはお昼ご飯の時間が11時半になった^^;。
視聴者から寄せられた恐怖心霊体験をドラマと取材で再現し、それを霊能者や放送作家の新倉イワオさんが検証するというこの手の企画の元祖といっていいコーナーで、昭和54年(1979)からは毎週木曜日のレギュラーコーナーとなり、昭和62年(1987)に『午後は○○おもいッきりテレビ』になった後も平成6年(1997)まで続いた。
内容は時代劇か吉本新喜劇並みにパターンが一緒で、多くは日本人の死生観を色濃くした輪廻転生や因果応報を土台にしている。先ず、何らかの霊現象が発生して障りがあったという再現ドラマがあり、スタジオで新倉さんが解説をする。場合によっては現場に霊能者が出向いて「霊視」を行い、起きたとされる霊現象から過去の因縁を特定してみせて除霊を行う。たわいもないといえばそこまでなんだけど、時に放り込まれる心霊写真とセットだったりするとなかなかに怖かった。
小学生になったばかりの弟は、兄貴の背中にしがみついて肩越しに覗き込み、しかも時折、耳元で絶叫するので暑苦しいやらうるさいやら^^;
普段は怖いものなしの妹も、この時ばかりは母の腕にしがみついて画面を食い入るように睨みつけていた。母は文字通り帝釈天で産湯を使ったクチなので、こういう因縁話はあっさり信じちゃうんだよね。母親の発散する恐怖心はたちまち子どもたちにも伝染し、かくしてお茶の間は阿鼻叫喚の世界と化すのだった(笑)。じゃあ父はどうしていたかというと、そういう家族をパイプの煙越しに観てニヤニヤしていたよ。あんなものはインチキだ、とも言わなければ肯定もしなかった。ただ一度、
「未知のものに畏怖の念を覚えるから恐怖心が生まれ、好奇心が恐怖心に勝って人は前進してきたんだ。恐怖心無きは高慢の証。好奇心無きは理性の敗北。ほっほっほっ♪」
と言ったことがあった。そのせいかどうかはともかく、たしかに我が家には超常現象や心霊写真、UMA(未確認動物)やUFO、オーパーツ等々、兄弟でかき集めたジャンク本が山のようにあって、母が「邪魔だ」とブーブー文句を言っていた。父は暇つぶしによく読んでたけど(笑)。
ところで番組の中核だった新倉イワオさんだけど、85才になった現在もお元気で、相変わらず心霊カウンセリングや講演などで各地を回っておられるそうな。
お仕事柄なんだろうか、よくニセの死亡説が流れているようで、ぼんくらも去年、2チャンネルで彼が亡くなったという話を読んで信じちゃったことがある。彼の訃報については今後も要注意だよ(笑)。
■「お昼のワイドショー界」時代 1986年?■
http://www.youtube.com/watch?v=GL3xoSFFeSg
■「午後は○○おもいッきりテレビ」時代 1988年?■
http://www.youtube.com/watch?v=YJYDoksqluo
■「46年目の精霊流し!」エピソード2の1 年代不明■
http://www.youtube.com/watch?v=fiieZUIc3RU
■「46年目の精霊流し!」エピソード2の2 年代不明■
http://www.youtube.com/watch?v=UeoxlANVfkg
イシイのミートボール [食]
鶏肉と玉ねぎをパン粉でつないだミートボールに甘いタレを絡めた家庭的な味と、食材に一切の添加物を使用していない質の高さが、食と健康に目を向け始めていた70年代の消費者の心をガッチリと捉え、発売早々に大ヒット商品となった。
お弁当の食材というピンポイントの販売戦略も的を射たものだった。食べ盛りのお子さんを抱えるお母さんや弁当男子の面々は特に痛切に感じていると思うけど、弁当のおかずに肉類は欠かせない。でも焼いたり炒めたりという手間は、後片付けも含めてタダでさえ忙しい朝には結構な負担だ。石井食品はミートボールに先立つ4年前の昭和45年(1970)に業界初の調理済みハンバーグ『チキンハンバーグ』を発売していて、袋ごと温めればおかずになる食材についてのノウハウは既に得ていたから、この辺に目をつけさえすれば後の話は早かったんだ。大切なヒントは身近にあるんだってことだね。
石井食品という会社は、インターネットが一般には身近ではなかった平成13年(2001)に自社製品の原材料やアレルゲンなどの情報を消費者が調べられる情報開示サービス「OPEN ISHII」を開始したり、平成18年(2006)にはハンバーグやミートボールをリニューアルして卵や乳製品を使用しない製品に切り替えるなど、時代の要請に敏感に対応してきた優良企業だ。
平成20年(2008)からは工場見学も出来るようになったよ。千葉県八千代市の八千代工場と京都府船井郡丹波町の関西工場、佐賀県唐津市の九州工場の近所に住んでる人はお子さんやお孫さんと一緒に遊びに行くと面白いかも♪
※工場見学の詳細はこちらへ飛んで確認してね!
■イシイのおべんとくんミートボールCM 1985年■
http://www.youtube.com/watch?v=C4w5d_qznO0
タバコライオン [雑貨]
成分は研磨剤に重質炭酸カルシウムを用い、発泡剤には陰イオン性界面活性剤の代表格として知られるラウリル硫酸ナトリウムが使用されている。他には薬用成分として皮膚用クリームなんかに用いられるポリエチレングリコールや香料が配合されているぐらいで、特に他の歯磨き粉と成分的には違いがないような気がするんだけど、はて?
ライオンでは「歯のヤニをとり歯をキレイにする」と謳っているから、やっぱり特徴があるんだろうな。そういや、プラモ・マニアの友人がこの歯磨き粉を塗料に混ぜるとツヤ消し効果があるとか言ってたような気がするんだけど、知ってる人はいる?
大人になって気がついたのは、フツーのチューブ歯磨きとは違ってあまり泡立たないことだ。だから(なのかは分からないけど)なかなか減らない。ぼんくらオヤジの使い方だと優に半年は持っちゃう。
これは想像なんだけど、泡立たないのは研磨剤成分の重質炭酸カルシウムを多く含んでいるからなのかもね。プラーク(歯垢)なんかはブラッシングだけでも8割がたは落ちてくれるんだけど、飲料に含まれる色素やタバコのヤニは研磨剤がないと落ちないから。
「そんなに研磨剤が入っていたら歯がダメになっちゃうじゃん!」
と思う人がいるかもしれないけど、炭酸カルシウムは歯より柔らかいので、歯の表面のエナメル質を致命的に傷めるこことはないんだって。
そーゆー「常識のウソ」を見抜いてか、愛煙家の強い支持を得てかはともかく、今年で48年目を迎える現在もタバコライオンは健在だ。製造は台湾の獅王工業股份有限公司で行ってるけどね。
うまい棒と弟のお話 [食]
7つ歳の離れた弟は、兄貴が心配になるぐらいおっとりした心優しい少年で、駄菓子屋に行くと、自分の小遣いで必ず家族分のお菓子を買ってきてくれるような子だった。
彼が小5の時だったんだけど、母に、
「最近、Y樹(弟)がね、ちょっと変なのよ。お小遣いを渡しても次の日には全部使っちゃってるみたいなの。本人には聞いたんだけど、全然答えてくれないのよ。心配だから、様子を見てやってくれない?」
と頼まれたことがある。あんな気立ての子だから、悪い友達に巻き上げられてるんじゃないだろうか? でも家では普段と変わらず楽しげにしているし。
ある真夏の昼下がりのこと、新宿をぶらついていたぼんくらオヤジは愕然とした。地下道で弟がホームレスのおじさんと親しげに言葉を交わしている姿を目撃したのだ。気が付かれないようにそっと様子を見ていたら、弟は何人もの浮浪者に声をかけてはデイパックから何かを取り出して手渡ししている。
「Y樹」
異様な光景に我慢ができなくなって声をかけたら、弟は身を固くしてうつむいてしまった。何をしていたのかを尋ねても答えようとしない。デイパックに何が入っているのかを問いただしても答えない。力尽くでパックを取り上げて中を覗き込むと、クシャクシャのハンカチやロザリオと一緒に『うまい棒』が5、6個、無造作に放り込まれていた。弟が何をしていたのかを諒解した途端、涙が込み上げてきちゃった。照れ隠しで弟の頭を力一杯抱きしめて振り回しながら、
「バカだなぁ、お前は!」
って言うのが精一杯だった。本当は跪いて十字を切りたいぐらいだったけど。その代わりに明大前に連れ帰り、駅前のパーラーでフルーツパフェをご馳走したよ♪
後で両親に話したところによると、弟は遡ること半年ほど前に天に召された飼い猫の死にどうしてか責任を感じて、その“償い”をしていた由。身近に起きた初めての死に余程のショックを受けたんだろうね。父に諄諄と諭されて安心したのか、その後そういうことはしなくなったんだけど、新宿の暗い地下道を行き来していた弟は、間違いなく「天使」だった。
弟の配っていた『うまい棒』は、株式会社やおきんが昭和54年(1979)に発売した棒状のスナック菓子だ。お菓子の長さは原材料費の価格変動で変わるものの、値段は1本10円のまま、現在も健在だ。パッケージに描かれているキャラはドラえもんじゃないよ。昭和53年(1978)9月13日生まれで乙女座のA型、遠い宇宙のどっかからやってきた異星人で、趣味はコスプレ(笑)。名前は特に決まってないけど、巷では「うまえもん」「ドヤエモン」「うまいBOY」などと呼ばれている。味の種類は現時点で、とんかつソースやサラミ味など15種類。出たての頃は明治のアイス『うまか棒』と名前が酷似していることからいろいろと揶揄もされたけど、30年以上が経った今でも子どもたちに愛され続けている。
■フォーレ「ラシーヌの雅歌」 弟よ、小さい頃からよく聴いていたね。付け足しになっちゃって悪いけど、記事に事後承諾を与えてくれた御礼に捧げます■
http://www.youtube.com/watch?v=tzhBr1T-LHc