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サクラ印の給食用ハチミツ [食]

ハチミツ2.jpg 今日も引き続きゴタゴタが続いてるので小ネタ中の小ネタ。
 マーガリンやジャム、ミルメーク、ミルクの三角パック等々、いろんな給食アイテムが出る中で見過ごしてきたものがひとつある。チューブ入りのハチミツだ。
 15グラム入りの半透明のチューブで、てっぺんの丸く柔らかい突起を噛み取って押すと、琥珀色のハチミツが溢れ出てくる。
 パンに塗って食べる子が多かったけど、ぼんくら少年は三角パックの上部をカッターで切り取って穴を開け、そこからハチミツを注入し、ストローでかき回して甘いミルクを作るのが大好きだった。ねえ、どんなふうにして食べてた?
 この給食用ハチミツ・チューブは、大半が『サクラ印ハチミツ』で知られる(株)加藤美蜂園本舗から供給されている。
ハチミツ3.gif 神奈川県横須賀市に本社を置く加藤美蜂園本舗は昭和22年(1947)の創業。養蜂業というと何となく自然を相手にした野良仕事みたいに思う人がいるかもしれないけど、実体はとんでもなくダイナミックな仕事だ。加藤美蜂園本舗も、昭和38年(1963)には急激な需要の伸びに国産ハチミツの供給が追いつかないと判断すると、いち早くハチミツの輸入自由化を国に働きかけ、同年にはニュージーランドからの輸入に成功するなど、的確でスピーディな判断と対応には大商社に引けを取らないビジネスセンスを持っていたんだ。
 現在、加藤美蜂園本舗は中国、アルゼンチン、カナダ、アメリカ、ソ連などなど世界各国から輸入を行う一方で、養蜂やハチミツ・プラントの指導などで新たな産地を開拓したり、年間契約による需給関係を業界の礎とする努力を行うなどして、ハチミツの供給と価格の安定化に大きく貢献している。
ハチミツ1.jpg 横浜に住んでる人は、金沢区福浦にサクラ印ハチミツの名をデカデカと冠した工場があるのを見たことがあるかもしれないね。そこはサクラ印ハチミツの横浜工場で、世界に先駆けて国際品質保証規格(ISO9001)の認証を得た超優良にして日本最大のハチミツ工場だよ。もちろんハチミツ・チューブもここで作ってるのさっ♪



■サクラ印ハチミツのCM  岩下志麻がお母さん役(怖っ) 年代不明■

http://www.youtube.com/watch?v=9g2PGELhVT8


 
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断言しなかった(BlogPet)

きのうぼんくら雪之丞が、断言しなかった?

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

日本初のテレビCM [テレビ]

精工舎CM.jpg ゴメンね、今日はトラブルが発生したので本当の小ネタで許してね。
 国内のテレビCMのお初は、昭和28年(1953)8月28日の午後7時から日本テレビで流された精工舎(現・セイコーホールディングス株式会社)の時報だ。本当は午前11時20分から日本初の民放局として日本テレビが本放送を開始したのに続いて、
「精工舎の時計が正午をお知らせします」
 という正午の時報として流すはずだったんだけど、スタッフがセッティングを間違い、フィルムを裏返しに入れちゃってNG。そこで仕切り直しをしたのが午後7時だったんだよね。なんとものんびりしたお話だけど、このCMこそが、以降に連なる恐ろしい数のCMの源だと思うと、やっぱり感慨深いものがあるよね♪



■日本初のテレビCM「精工舎の時報」 1953年■

http://www.youtube.com/watch?v=XGfnEkP6wk8


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さようなら、白熱電球 [テクノロジー]

電球1.jpg 東芝が今年、平成22年をもって電球の生産を終了する。
 国産初の白熱電球の生産を東芝が開始したのは明治23年(1890)。イギリス人のスワンが発明したのが明治11年(1878)、それを追うようにエジソンが翌明治12年(1879)にエジソンベースと呼ばれるネジ式口金の実用的な電球の生産を始めて10年後の快挙だった。
 日本で電灯が点ったお初は明治11年(1878)3月25日、東京虎ノ門工部大学校(現東大工学部)で開催された電信中央局の開業祝賀晩餐会の席上だったんだよ。日本のエジソンと呼ばれる藤岡市助や電気工学のパイオニアだった中野初子(「はつね」と読む。男性です^^;)らがフランス製のアーク等を点灯させて列席した人々を驚かせたんだ。
 もっとも、それから明治20年(1887)にインフラとしての東京電燈(現東京電力)が設立されるまでには10年近くを要したし、当初の電球はアメリカ製やドイツ製の高価なものしかなかったわけで、とても一般家庭に普及するような代物じゃなかった。
電球2.jpg それだけに当時の日本にとって電球の国内生産は国家的な悲願だったわけで、現実に先の藤岡市助は、明治17年(1884)のフィラデルフィア万国電気博覧会に国の特使として派遣されてエジソンに面会し、電球を含む電化製品の国産化の指導を受けているんだよ。帰国して5年後の明治22年(1889)、藤岡は電球の国内生産に向けての研究を始めるんだけど、ガラス管球をどうすれば作れるのか、できた管球内部を真空にするにはどうすればいいのか、フィラメントはどんな材料で作ればいいのか等々、すべてが手探りの開発だった。それでも藤岡は矢継ぎ早に解決策を見出し、翌明治23年(1890)4月には東芝の母体のひとつとなる「白熱舎」を東京の京橋槍屋町に設立し、同年に竹フィラメントの炭素電球12個の製造に成功したんだ。
 以降、生産の拡大と共に電球の単価は大幅に下がり、やがて一般家庭にも普及して、日本の近代化は大きく前進することになる。新美南吉の『おぢいさんのランプ』はこの頃を話題にした物語だね。昭和17年(1942)に「50年ぐらい前の話」となってるから1890年代の後半には、灯油ランプが電球に取って代わっていったことが分かる。
電球3.jpg 白熱電球は、もちろん昭和史を語る上で欠かすことのできないアイテムでもある。戦時中、夜間の空襲時に真っ先に庶民が手を伸ばしたのは電球の根元にあるスイッチだったし、戦後の焼け野原やバラックで、そして闇市を明るく照らしたのも裸電球だった。蛍光灯に変わるまでは、夕暮れ後の帰り道や一家団らんの居間を暖かい光で照らしてくれたのも電球だった。
 じきに姿を消すことになる白熱電球だけど、あの優しい光は過去を照らす照明として、ボクら昭和生まれの心に生き続けることだろう。



■東芝「電球への思い」 白熱電球生産終了のお知らせです■

http://www.youtube.com/watch?v=USTEcoQKmdQ



■ナショナル電球のCM 1970年■

電球
アップロード者 mrhayata. - ライフ&スタイルの動画をもっとご覧ください。


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チーかま [食]

チーかま.jpg 学校給食で味を覚えた『チーかま』。スティック状のかまぼこに散らばって埋もれる黄色いチーズ片が懐かしい。かじってみると、普通のかまぼこの味に混じって甘味の強いチーズの風味がトロッとした食感を伴って口いっぱいに広がる。ぼんくら少年は、これをコッペパンに挟んで食べるのが大好きだった。
 チーかまが発売されたのは昭和45年(1970)。『ホモソーセージ』で有名な丸善が生みの親だ。チーズを仕込んだソーセージがドイツにあることに開発研究を担当していた村上清さん(現取締役生産本部長)が注目したことから開発が始まった。村上さんは、
「ソーセージじゃなく、日本の伝統食であるかまぼことチーズを組み合わせて新しい味を作ることはできないだろうか」
 と考え、様々な試行錯誤を重ねながらも昭和43年(1968)、『おらが幸』という商品名でデビューさせることに成功した。
 おらが幸は、魚肉とチーズという良質のタンパク源が一度に得られる食品だったので、丸善は学校給食の現場に精力的な売り込みを開始。現場では、
「チーズ嫌いの子どもたちが喜んで食べる」
 と評判も上々で、翌年の昭和44年(1969)には全国の給食現場に次々に導入されていく。
 こうして自信を深めた丸善は、おらが幸を『チーかま』と改名し、一般市場に投入することになる。給食、おやつ、酒のつまみにと、今や日本人の食生活に深く根を下ろしているチーかまは、こうして誕生したのだった。
 ぼんくらオヤジには、開封用の赤いビニールテープが途中で切れちゃったり、端の金属環を歯で噛み千切ろうとすると何ともイヤな味がしたりと、口に入るまでが厄介な食品だったけどね(笑)。
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ダンボール遊び [遊び]

 ぼんくら少年は、ちょっとした車庫があったのにクルマがないという珍しい家に住んでいた。そもそも中古住宅を購入した時、父はこの車庫がステキな図書室に見え、母はクルマを購入する絶好の口実に思えていたので、入居早々にして権力の空白地帯になってしまい、結果的に、ぼんくら兄弟の絶好の遊び場になったのだった。
ダンボール遊び1.jpg いろんな遊びをしたけど、いちばん面白かったのはダンボールハウスだった。なにせ8畳以上はゆうにあるスペースがガラ空きだったのだから、思いっきり遊ぶことができた。商店街に行ってはダンボール箱をもらってきて車庫に運び込み、カッターでドアや窓を作る。そして手を切らないように開口部をガムテープで縁取りし、色を塗ったり絵を描いたり、折り紙や包装紙でデコレーションが終われば完成だ。ダンボールの調達と建築はぼんくら少年が、装飾関連は妹が担当して、その頃幼かった弟はもっぱら見物したりゴミを片付けたりと自然に分業体制ができあがっていたので、ケンカすることもなく実に愉快な時間を過ごすことができたよ。
ダンボール遊び2.jpg 何度かチャレンジして2階建ては無理と諦めたけど、部屋をいくつも継ぎ足していくうちに、ピーク時には、なんと車庫の3分の2を占める巨大ハウスに成長していた。それぞれの部屋はもちろん、両親の部屋まで作ったので、母は時折、ハウスに「泊まり」にきて本を読んでくれた。傑作だったのが聖堂と告解室(いわゆる懺悔の部屋)まで作ったことで、遊びに来た大柄なイタリア人の神父さんが汗だくでハウスに潜り込み、うつぶせのまま聖堂を祝福してくれたこともあった(笑)。
 もっともこのダンボールハウスには、後に弟が持ち込んだローソクの火でぼや騒ぎを起こして撤去されるという悲しい結末が待っていたんだけどね。母から聞いたんだけど、撤去にいちばんガックリときたのは父だったそうな。ぼんくら少年も妹も、学校に行っている間に、父がよくダンボールハウスに潜り込んで、弟と昼寝をしていたのを知らなかったのだ。
ダンボール遊び3.jpg ダンボール遊びでもう一つ忘れられないのは、空き地の土盛りでしたソリ遊びだ。当時の世田谷界隈には、空き地と土管という正にドラえもんとのび太の世界が点在していた。空き地には、よく宅地造成用の土砂が仮置きしてあって、こうした小山は絶好の遊び場になった。これにトンネルを掘って生き埋めになっちゃうなんて痛ましい事故が度々あったから、覚えてる人もいるんじゃないかな。幸か不幸かぼんくら少年たちはそういう遊びは思い付かずに、ダンボールのソリに夢中になった。斜面の角度にもよるんだけど土だからそんなに危ないスピードは出なかったので、スケボーみたいに立ったまま滑ったり、一枚のダンボールに何人も乗って滑り降りたりと、まあ飽きもせずにキャーキャー騒いで遊んでいた。服やズボンが無茶苦茶に汚れるので、母にはこっぴどく叱られたけどね^^;
 19世紀にイギリスでシルクハットの吸汗用に作られ、レンゴーの創業者である井上貞治郎によって明治42年(1909)に国内生産が始まったダンボールだけど、子どもたちのこんなダンボール遊びをみて井上さんだったらどう思ったろうな。なんの根拠もないけど、目を輝かせて喜んだような気がするな♪



■斜面とダンボールならこれでしょう!■

http://www.youtube.com/watch?v=r6CZqbJMVOQ



■雪ソリもできましたね♪■

http://www.youtube.com/watch?v=sZ465649Fqc



■ダンボール・ハウス ヒト編■

http://www.youtube.com/watch?v=uiy5ffV0DqU



■ダンボール・ハウス ネコ編■

http://www.youtube.com/watch?v=ornEyFbMtX8


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フリスビー (フライングディスク) [その他]

ウォルター・モリソン.jpg 今月の9日、フリスビーの生みの親として知られていたウォルター・モリソンさんが90才で亡くなった。
 フリスビー(Frisbee)というのはワーム・オー社の商標で、一般名はフライングディスク。
 1940年代の後半にイエール大学の学生がフリスビー(Frisbie)・パイ・カンパニーのパイ皿を投げて遊んだのが起源とする説が方々で採用されている。日本語Wikiも然り。ワーム・オー社が綴りを一字変えて商標登録したのは、どう考えてもフリスビー・パイを念頭に置いての措置だし、第一、そこまでして「フリスビー」という名が欲しかったのは、この説が正しかったという証左であるような気もする。
フリスビー1.jpg 解せないのは、一般にフリスビーの発明者とされているモリソンさん自身がまったく違う主張をしていることだ。彼が言うには、昭和12年(1937)に、後に奥さんとなるルーさんと海辺で遊んでいた時に、ポップコーン缶のフタを投げると、一定の方向に安定して飛んで行くことに気付いたんだそうな。ただこのフタは強度が乏しく、遊んでいるとすぐに変形して飛ばなくなっちゃう。そこで思い付いたのが金属製のケーキの型で、これは強度も飛行の安定度も抜群だった。
 当時、建築物の検査官をしていたモリソンさんはルーさんと一緒にケーキの型を改良した遊具を商品化して "Flyin' Cake Pans" という名前で売り出したんだ。サイド・ビジネスだったし、その後の第二次大戦にモリソンさんが出征することになったりで、結局 "Flyin' Cake Pans" が日の目をみることはなかった。
 終戦後の昭和21年(1946)、モリソンさんは世界初のフライングディスクと公式に認められている "Whirlo-Way" のデザインを描き、これが昭和23年(1948)に "The Flyin-Saucer" という初のプラスチック製フライングディスクとして発売された。モリソンさんがフライングディスクの発明者とされるのはこのためだ。
フリスビー2.jpg モリソンさんとルーさんは更に改良を重ね、昭和30年(1955)には "Pluto Platter" と呼ばれるフライングディスクをデザインする。これが後に様々なベンダーによって現在まで供給されているフライングディスクの原型になったんだよ。昭和32年(1957)に2人は "Pluto Platter" の販売権をワーム・オー社に譲渡し、ワーム・オー社は昭和33年(1958)に「フリスビー」と改名して大々的に販売を開始。現在に至るまでに世界で売れたフリスビーは2億枚を越え、単なる流行ではないスポーツとしての地位を確立したのだった。
 フリスビーが日本に上陸したのは1960年代の末だったんだけど、この時はまったくブームにならなかった。業を煮やした輸入業者は、昭和50年(1975)に名古屋の広告代理店「新東通信」の谷喜久朗(現会長)さんに広告を依頼。谷さんは「フリスビー全国キャンペーン」なるものを開始する。
フリスビー4.jpg 谷さんの手法はユニークだった。昼休みになると社員を引き連れて栄の公園に出向き、フリスビーを投げ合って遊んだんだよね。口コミなんて概念もなかった頃の戦略なんだからスゴいや! もちろん遊ぶ時のファッションを考案して売り込んだり、「およげ!たいやきくん」で絶好調だった子門真人さんに『ガッツフリスビー』という曲を歌ってもらったりとPR活動にも力を入れたよ。
フリスビー5.jpg 直接的な火付け役になったのはNET(現テレ朝)で放送されていた『せんだみつおのジョイジョイスタジオ』に設けた『ガッツフリスビー』という10分枠のコーナーだった。視聴者参加型のコンペをやったり、当の谷さんが「フリスビー評論家」なる怪しげなスタイルで登場して遊び方や上達のコツを伝授した結果、フリスビーは瞬く間に知名度を上げ、社会現象と言えるまでになったのだった。
 その後、盛衰を繰り返しながらも、フリスビーは国内でも150万人もの愛好者を擁する立派なスポーツに成長した。なんと150を越える学校の授業にも採用されてるんだよ。あ、人だけじゃなく愛好犬もいるんだよね。その話はいずれまた^^;



■スポーツとしてのフリスビーです。結構、激しいなぁ!■

http://www.youtube.com/watch?v=8dqrMxsDCfQ



■ワンちゃんのフリスビー 技も見事だけどホントに楽しそうで感動♪■

http://www.youtube.com/watch?v=JnsOORuRB-M



■フリスビーのパフォーマンス 人も犬に負けてませんねぇ^^■

http://www.youtube.com/watch?v=dYVxGABODEE


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木琴、ハーモニカ、そしてリコーダー [音楽]

 小学生の時に学校の音楽の時間に使った楽器たち。中でもハーモニカやリコーダー、木琴のように買ってもらった自前の楽器は思い出深いよね。ハーモニカも木琴も半音のでないシンプルなモノだったけど、自分専用の楽器というのが何とも嬉しくて、こればっかりは弟妹にせがまれても触らせなかった。
木琴.jpg 黒い木琴には、それぞれ音階が金色の五線譜と音名で表示されていたから、これで音階を覚えた人もいるんじゃない? 卓上タイプだったから音はそれなりのものだったし、付属のマレット(ばち)以外のもので叩いたりして表面はボコボコになり、高学年になって授業にも使われなくなると、遂には押し入れに放り込まれたまま見向きもされなくなっちゃう運命だった。孫のために母が引っぱり出してきて、自分の子どもたちが楽しそうに叩いた時は、ミョーに感動しちゃったけどね。
ハーモニカ.jpg ハーモニカは木琴よりも授業で使われてたし、お手軽に持ち運べたので、結構、稼働率も高かったように思うんだけど、どうだった? 演奏も比較的カンタンにマスターできたしね。やがて中学生になると上下2列の半音が出せるタイプをつかうようになっちゃって、それまでのハーモニカはお役御免に。これまた押し入れの段ボール箱に放り込まれる運命にあった。タマに思い出して吹いてみると、何ともいえない金臭さが口に広がって不快だったけど、それなりに懐かしい思いがしたよ。表面もベコベコで錆も出ちゃってたから処分されちゃったんだろうね。年末年始に戻った時に押し入れを漁ってみたんだけど見つからなかった。そんなに親しんだ覚えもないのに、空色のハードケースと一緒にはっきりと覚えているから不思議だ。
リコーダー.jpg リコーダーは中学・高校と同じものを使ってた。いちばん活躍した楽器だったと思うな。もっともぼんくら少年の通ってたのは中高一貫の私立校で、授業以外にもリコーダーの演奏が盛んな学校だったからかもしれないけど。誰でも吹けるシンプルな曲からプロ級の腕がないと様にならない難解なものまであるという、奥の深い割りにはお手軽な楽器だし。そういや中高合同のサークルがあってね、ぼんくら少年も6年間、参加してたんだよ♪ サークルではアルト・リコーダーの担当だったから小学校のものは使えなかったけど、母が作ってくれたパッチワークの袋に入れて、アルトと一緒に持ち歩いていた。傷だらけになっちゃたけど、今でも高価なメックのルネッサンス管なんかと一緒に後生大事に保管してる(笑)。
 ところで、今どきの小学生が木琴もハーモニカも持ってないのは知ってた? 卓上式の木琴は何となく分かるような気もするけど、ハーモニカですら、ほとんどの小学校の授業から姿を消しちゃってるんだよ。代わりに使ってるのが『鍵盤ハーモニカ』。ヤマハで言う『ピアニカ』だよね。リコーダーは相変わらず健在だけど、ハーモニカはマニュアル車の運転同様、今となっては特殊技能となりつつあるんだよ。思い出して子どもたちの前で演奏してみない? ミョーに尊敬されるかも^^;。



■今どきの音楽の授業 ずいぶん自由なムードになりましたね♪■

http://www.youtube.com/watch?v=4a1J65UIKSA



■子どもたちがリコーダーや踊りでフォルクローレを楽しんでいます♪■

http://www.youtube.com/watch?v=Ha0incEJvz8



■リコーダー五重奏団『VUENV』の演奏 とにかく美しいです!■

http://www.youtube.com/watch?v=3PH3aNalhoA


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宗助のポンポン船 [遊び]

ポンポン船3.jpg 先だって金曜ロードショーで放送された『崖の上のポニョ』は最高視聴率29.8パーセントを叩き出したんだってね! ぼんくらオヤジも家族と観てたんだけど、映画よりも宗助の『ポンポン船』に釘付けになっちゃった(笑)。
 しょうのう船は知っていてもポンポン船では遊んだことがないので、個人的なエピソードは何にもないんだけど、構造の面白さと可愛らしさは喩えようもないものがあるので取り上げることにしたよ♪ 
「なんで動くんだろう?」
 素朴にそう思った人も多かったろうね。
ポンポン船2.jpg

 ポンポン船の仕組みは感動するほどシンプルだ。ブリキの缶カラから2本のパイプが平行して突き出ているものを想像して欲しい。これがエンジンだ。船を水に浮かべると、船尾から突き出たパイプから缶カラに水が流入してくる。この状態で缶の部分(ボイラー)をローソクの炎で熱すると、やがて蒸気が発生して缶の中の圧力が高まり、ある時点で一気にパイプから圧力を解放する。その時に内部に残っていた水が押し出されて推進力になるってわけだ。こうして内部が空っぽになると、今度は圧力が下がるのでパイプから再び水が吸い込まれる。これの繰り返しで船は走り続けることになるってわけ。
ポンポン船1.jpg この原理を基に作られたのが焼玉エンジン(グローエンジン)で、単純な構造から製造コストも安くメンテもカンタンだったことから、戦前の日本では、主に漁港や河川でホントに人を乗せて走っていた。これが焼玉船で、その作動音からポンポン船という愛称で親しまれていたんだよ。
 効率が悪く馬力もスピードも出なかったので戦後は廃れちゃったけど、その記憶はブリキのオモチャとなって残り、そしてこの度は宮崎駿監督の魔法でスクリーンに甦ったんだよね。それにしても『ポンポン船』、なんて可愛らしい名前なんだろう!



■オモチャのポンポン船 音は意外に本格的なんですねぇ^^■



■ホンモノのポンポン船(焼玉船)の音です! 1973年頃■



■「崖の上のポニョ」英語版の予告編 YouTubeで観てね♪■
http://www.youtube.com/watch?v=Lfjww2cA2FE


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ロウ石(BlogPet)

ぼんくらオヤジの「ロウ石」のまねしてかいてみるね

石が主産地な20世紀少年の置物から、釘やコンクリートにしてるよ。
尋常小学校のは耐火煉瓦や記号を書き込むためになって細かいサンドペーパーをしていたの美術教室でアスファルトの道や広島県備前市の三石やコンクリートにも石があった葉石でアスファルトの置物から、これでのあるんだけど、ケイ酸塩鉱物が主産地なんだね♪
あれっていったって、縁の世代は覚えてるか?
子どもたちは彫刻だ!!
石で、普通はこれでたんだね!!
けんけんや石蹴りに鉛筆代わりに削れちゃうでしょ♪
ちょっと透けた石が含まれた鉱石のあるんだよね!!
けんけんやコンクリートに無造作に使わせないアイテムだった鉱石の勝光山が含まれてくれる地域の義務教育をし。
もっとも石が駄菓子屋のカルチャーセンターやグラスファイバーの黎明期になるんだね。

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

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