SSブログ

げんこつやまのたぬきさん [音楽]

 昔からあるつもりでいたんだけど『げんこつやまのたぬきさん』って、昭和45年(1970)にNHKの『おかあさんといっしょ』で世に出た曲なんだね^^; ぼんくらはてっきり文部省唱歌クラスの歌とばっかり思ってた。ネットで調べると結構、作詞作曲不詳としている人が多いんだけど、JASRACの登録では、作詞は児童文学者で詩人でもある香山美子さん、作曲は『黒猫のタンゴ』や『勇者ライディーン』で知られる小森昭宏さんだ。
げんこつやまのたぬきさん.jpg
 ぼんくらのもうひとつの勘違いは、この曲が、

げんこつやまのたぬきさん
おっぱいのんで ねんねして
だっこして おんぶして
またあした

 で終わるものと思い込んでいたことだ。実際はこの部分がリフレインになっていて、後続する歌詞があり、しかも4番まであるのだ!(なんてビックらこいてるのはぼんくらオヤジだけかね^^;;;;) JASRAC No.030-1107-1という立派な著作権のある歌なので、ここで全部の歌詞を掲載することはできないから、歌詞をじっくり読んでみたい人は次のサイトに飛んでみてね。読むのが面倒なら聴いてみてね。

『げんこつやまのたぬきさん』歌詞: http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=38480

『げんこつやまのたぬきさん』全曲: http://www.youtube.com/watch?v=5wtRVBRMgL0

 この歳になって聴いてみても可愛い曲だなぁ^^ やっぱり昭和ってステキだ♪♪♪


■『げんこつやまのたぬきさん』 有名な部分だけね。可愛くて泣けるね!■



nice!(12)  コメント(39)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

半年限定のヒーローだった『怪獣王子』 [テレビ]

怪獣王子1.jpg 昭和42年(1967)からの半年あまり、月曜の夜7時半からフジテレビで放送された『怪獣王子』を覚えてる人はいる? 短い放送期間だったから知らない人のほうが多いかもね。
 特撮もののストーリーは無茶苦茶なものが多いけど、怪獣王子のは国宝級だ。
 先ず太平洋上に出現した火山島の噴煙で飛行機が墜落する。ハナっから危なっかしい設定なんだけど、その飛行機に乗っていた理学研究者の息吹博士と彼の双子の息子たち、タケルとミツルがなんと助かっちゃうのだ。どういう墜落の仕方をしたのか見当もつかないけど、とにかく凄いぞ、息吹ファミリー! ただ、ここでタケルだけは波にさらわれて行方不明にちゃうよ。
怪獣王子2.jpg 数年後に調査で件の火山島を訪れた息吹博士は、ブロントザウルスに乗って「オ~ラァ」と叫ぶ少年と出会う。この少年こそが恐竜によって救われ、育てられたタケルなのだった(涙)。なんで数年前に出現したばっかの島に恐竜がいたりジャングルがあるのかはともかく感動したぞ、息吹親子! だが喜びの再開もつかの間、親子は火山島のウラニウム鉱脈を狙う異星人の遊星鳥人やガンマー星から侵略にやってきた昆虫人間から地球を守るために闘う運命にあったのだ。親友だか育ての親だか設定不明のブロントザウルスとともに! 何の脈絡もなく登場した国防省(日本です)のレンジャー遊撃隊とともに! 
 てな話だったんだけど、ぼんくら少年と弟妹は無我夢中で観ましたぜ! とくに妹はタケル少年に恋しちゃったようで、父にせがんで撮ってもらったテレビ画面の写真や自分で描いたガイコツのようなタケル少年の絵を壁にベタベタと貼っていた。ぼんくら少年と弟は、タケルが使っていたブーメランに夢中になったよ。駄菓子屋で安いビニール製のブーメランが買えたからね。
怪獣王子3.jpg 出演者だけど、主人公のタケルは野村光徳、もうひとりの双子ミツルを野村好徳が演じている。お分かりだと思うけど、光徳と好徳は本当の双子だ。ふたりはお父さんが台湾人なので、台湾では方光徳・好徳として名を知られている由。道理で怪獣王子の映画版が日台合作で作られてるわけだよね。タケル役は野村光徳のままで昭和44年(1969)に『龍王子』というタイトルで公開された。どうしてか日本では上映されなかったけど、1980年代までは東南アジア各国の映画館で上映されていたようだ。蛇足ながら、昭和41年(1966)に放送された実写版のテレビドラマ『忍者ハットリくん』はこの兄弟が演じているよ。
 スゴく面白いドラマだったのブチッと終わっちゃったから子供心に「何でぇ~?」って思ってたんだけど、本当は1年の放送予定だったのに制作会社の日本特撮が倒産しそうだったので慌てて半年で終わらせちゃったっていうのが真相らしい。可哀想な番組だよね。


■怪獣王子 オープニング、テロップ集、そして予告編■



■怪獣王子 VS 昆虫人間 ブロントザウルスがなんと火を吐きます!■




nice!(15)  コメント(205)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

万国旗ってなんやねん!? [その他]

万国旗.jpg 今日は飛び込みで用事が入っちゃったので小ネタをひとつ。
 実は子供のころからずっと気になってることなんだけど、『万国旗』って何なんだろう? 調べてみても、これが意外に分からない。現時点で唯一説得力があるのは、慶応3年(1867)から日本が参加を始めた国際博覧会の会場で参加国の国旗が飾られていたことから、イベントやお祭りの際にヒモに各国の国旗を連ねたものを飾りとして使うようになったのではないかという説だ。
 つまり現在でもオリンピックや国連なんかでズラリと各国の国旗がポールに掲揚されているのを、ヒモ+各国旗で再現したってことになる。ということは日本独自の飾り方ってことになるわけなんだけど、これがどうもそうじゃないんだよね。ネットで確認できるだけでも、韓国やスウェーデンで日本と同じ飾り方をしているみたいで頭が痛いんだな^^; 韓国をはじめとする東南アジアの国々だけなら、第二次政界大戦前に日本が輸出(強制?)した文化の名残だって考えられるんだけど、事はそんなに単純じゃないみたい。
 もし運動会で見かけるヒモで吊るす万国旗を外国で見たことがあったら、ぜひ教えてね♪ もちろん、些細いなことでも構わないから、ほかに知ってることがあったらこれも是非!


■そういや手品でも万国旗はお約束のアイテムでした^^■



nice!(14)  コメント(34)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

森永ミルクキャラメル(BlogPet)

ぼんくらオヤジの「森永ミルクキャラメル」のまねしてかいてみるね

サイコロキャラメルと、森永では唯一、高温多湿の森永太一郎が分からなく、箱のデザインのほうが分かるよね)のは今の売れっ子デザイナーだったウォルター・ランドーの名を誇っているかも。
「滋養豊富」「おばあちゃんが好きだった黄色いパッケージの森永のミルクキャラメル」というコメントを飛び越えたころは下のデザインがいくほど長い歴史を読んで、名前やなものがいくほど長い歴史を冠したの名称『森永洋菓子製造所(現森永製菓)のあるから1970年代の売れっ子デザイナーだった。

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

森永ミルクキャラメル [食]

森永ミルクキャラメル2.jpg サイコロキャラメルの記事を書いた時、「おばあちゃんが好きだった黄色いパッケージの森永のミルクキャラメル」というコメントを頂いた(やなぎはっかさんに感謝)。黄色い箱のキャラメルといえば、名前やメーカーが分からなくても「ああ、あれね」と合点がいくほど、森永ミルクキャラメルは昭和生まれの脳裏に焼き付いているお菓子だ。
 それもそのはずで、このキャラメルは昭和はおろか、大正を飛び越えた明治32年(1899)の森永洋菓子製造所(現森永製菓)の創業当時まで遡れるほど長い歴史を誇っている元祖国産キャラメルなのだ。
 発売を始めたころは今の生キャラメルみたいなものだったので、高温多湿の日本ではすぐにドロドロになっちゃう。これをクリアするのは容易ではなかったようで、創業者の森永太一郎が試行錯誤を重ねて現在の品質に落ち着いたのは大正2年(1913)のことだった。現在の名称『森永ミルクキャラメル』の名を冠したのは大正2年6月10日なので、森永ではこれをもって発売日としている。
 さて例のパッケージだけど、歴史を知った上でじっくり見てみると、いろいろと面白いことが分かるよ。「滋養豊富」「風味絶佳」という古色蒼然としたキャッチが筆文字で並んでいたり、箱の裏側に「森永謹製」となっていたりするのは別にレトロ感を狙った演出なんかじゃなく、色も含めて基本デザインが昔から変わっていないだけのことだ。
森永ミルクキャラメル1.jpg ヒモのような線画が描かれているのは、大正末期から昭和20年(1945)まで箱に付いていた帯封の名残だ。もっとマニアックなのはエンゼルマークで、現行商品の中では唯一、戦後の昭和世代には馴染み深いエンゼルマークよりもさらに古いものが使われているんだよね(詳しくは下の関連記事を読んでね)。
「子供の頃に、色は黄色だったけど今風のデザインの箱を見たことがあるんだけどな」
 って人がいるかも。これも勘違いじゃなくって、昭和37年(1962)から1970年代の中頃まで当時の売れっ子デザイナーだったウォルター・ランドーのデザイン・パッケージが使われていたことがあるからなんだ。旧デザインのほうが消費者に人気のあることが分かって結局、元に戻っちゃったんだけどね。
 ちなみに6月10日は森永ミルクキャラメルの発売を記念して「ミルクキャラメルの日」になってるんだって。知ってた? 

関連記事:「森永エンゼルマークの秘密」 http://bonkura-oyaji.blog.so-net.ne.jp/2009-08-22



■「森永ミルクキャラメル」CM 1954年■



■「森永ミルクキャラメル」CM 2009年■


nice!(15)  コメント(37)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ツイスター・ゲーム [遊び]

ツイスター1.jpg ぼんくら家は親の代からのゲーム好きだ。親がからっきし常識不足だったので、トランプやボードゲームで火が点くと、平日だというのに夜半を回ってもキャーキャーやるなんてことはザラだった。花札や麻雀も、ぼんくら少年以下、子供全員が小学生のうちにマスターしてたんだから呆れたもんだ。
 こんな不良家族が夢中になったゲームで異色だったのは『ツイスター』だった。ゲーマーは色と手足の位置をランダムに決めるスピナーという指示盤に従って、シート上の4色のドットに手足を置いていく。当然、ゲーマーは無茶苦茶なポーズを強いられることになるわけで、耐えきれずに倒れたら脱落、最後まで残った人が勝者になる。
 ツイスターの発明者は、1960年代という比較的最近のことなのに諸説あってはっきりしない。公式にはアメリカ人の Neil Rabens と Charles F. Foley が昭和41年(1966)にパテントを取得していて、同年にミルトン・ブラッドリー社が発売を始めている。が、実のところは、これに先立つ昭和40年(1965)に Reyn Guyer という人物が"Pretzel"という名前で寸分違わぬゲームのプロモーションを始めていたのだ。さらにパテントを取得した二人は Reyn Guyer の父親の会社で働いていたといういわくつきだ。それもあってか、日本でツイスターを販売しているタカラトミーではゲームの誕生を昭和40年(1965)としている。日本語のWikiではイアン・ハービーという少年がゲームを思い付いたというエピソードも紹介しているけど、これは現時点では出典が明らかに出来ていない。
ツイスター2.jpg 伝説的なMCジョニー・カーソンとセクシー女優のエヴァ・ガボールがテレビ番組で実演したところ、あっという間に米国内で300万セットを売り上げちゃったというんだから、初めにツイスターに"感電"したのが大人だったのは間違いのないところで(笑)。"sex in a box"なんて非難を良識ある皆さんから浴びたのは、遊ぶ側の下心が丸見えだったからだろうね^^;
 にもかかわらず"sex in a box"は瞬く間に世界中に広まることになる。しかも家庭やパーティで楽しむゲームの定番として。え、ぼんくら少年はどうだったかって? 女の子ともフツーに遊んだよ♪ てか女の子のほうがこういうゲームは積極的だったような気もするんだけど、気のせいかな(笑)


■ツイスターって、こういう遊び方が原型なんじゃない?■



nice!(14)  コメント(39)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ジャポニカ学習帳 [文具]

ジャポニカ学習帳1.jpg オーソドックスな鉛筆や消しゴムでもない限り、親子で使った覚えのあるブランド文具ってそうはないよね。でもひとつは確実に使ってるものがあるんだよ。『ジャポニカ学習帳』だ。
 ジャポニカ学習帳は昭和45年(1970)生まれだ。背表紙と中ページに学習図鑑を掲載した学習ノートという異色の商品で、富山県高岡市に本社を置く昭和ノート株式会社(現ショウワノート株式会社)が、小学館が発行していた『ジャポニカ百科事典』とタイアップして誕生した。百科事典が発刊されていない現在では、写真も含めて全てが小学館の監修による学習帳向けのオリジナル編纂となっているようだ。
ジャポニカ学習帳2.jpg ジャポニカ学習帳というと、真っ先に浮かぶのが表紙の顔となっている美しい動植物の写真だけど、あの写真は専属カメラマンの山口進さんが撮影したものだ。昭和48年(1973)からだから、昆虫生態写真家の肩書きを持つ山口さんは36年にも渡って『ジャポニカ学習帳特写取材班』のリーダーとして世界中を飛び回り、子供たちに貴重な動植物の姿を伝え続けてきたことになる。もしかすると、どんな著名な写真家よりも作品を鑑賞され、親しまれてきた写真家といえるかもしれない。
 4、5年ごとに表紙と学習百科の内容を変更しながら、もうじき40才を向かえるジャポニカ学習帳は、この調子でいけば、体裁を変えることなくボクらの孫やひ孫まで使い続けられる文具になりそうだね♪


■「ジャポニカ学習帳」CM 初期ですが年代不詳■



■「ジャポニカ学習帳」CM 岡本夏生がいい味出してます^^ 1994年■


nice!(15)  コメント(40)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

キース・ヘリング [アート]

KeithHaring1.jpg 同世代で、しかも天賦の才から生み出された果実を与え続けてくれるアーティストがいるよね。ぼんくらオヤジにとってはキース・ヘリングがそのいい例だ。
 キースは昭和33年(1958)生まれだから、ぼんくらよりも学年はひとつ上になるかな。彼の作品に初めて接したのは、ちょっと記憶が怪しいんだけど昭和58年(1983)のアムステルダムだったと思う。
 ダム広場で人だかりがしていたので潜り込んでみたら、キースが特設の壁に絵を描くパフォーマンスをしていたのだ。音楽をかけるわけでもなく、ただ黙々と絵筆にペンキを付けては絵を描いている。シンプルな線画でプリミティブ・アートといっていいような絵なんだけど、初見でグッと引き込まれる何かを持っていた。
 それを観る人のほとんどが感じているらしく、ギャラリーの数は減るどころかどんどん膨らんでいく。当時、既に彼は注目度ナンバーワンのアーティストで、テレビ局も取材に来ていたぐらいだから、ホントに彼目当てに集まっていたのかもね。ぼんくらが見始めてから30分ほどで絵は完成し、ギャラリーからは歓声が上がったけど、キースはちょっと手を振っただけで、道具を主催者と思しき人に渡すと、そそくさと姿を消しちゃった。とってもシャイな男って印象を受けたんだけど、実際にその通りだったみたいだね(笑)。
KeithHaring2.jpg 彼を生で見たのはそれが最初で最後だったけど、絵が心に焼き付いていたものだから、帰国してキースの作品が雑誌やブティックに氾濫していたのには度肝を抜かれた。もっと笑っちゃったのが、壁の落書きまでもがキースのイミテーションになってたことだ。少なくとも一時期の渋谷パルコ界隈はTシャツからカップに至るまでキースの絵で埋め尽くされていた。それほどの人気だったのだ。
 キースがニューヨークの地下鉄構内で、広告スペースに勝手に紙を貼ってチョークで絵を描く『サブウェイ・ドローイング』を始めたのが昭和55年(1980)のことだから、たかだか数年で世界中に知れ渡ったワケで、それだけでも彼の人気の"異常さ"が分かるよね。
KeithHaring3.jpg ジャン・ミシェル・バスキアやアンディ・ウォーホルといった当時のトップ・アーティストとも親交を深めたりと短期間のうちに絶頂を極めたキースだったけど、酒と麻薬に同性愛という日々が肉体を蝕み、平成2年(1990)にエイズによって死去した。31才の若さだった。恋人をエイズで失ったことから始めたエイズ撲滅キャンペーンや恵まれない子供たちへの支援活動などを、病のもたらす苦しみの中、死の直前まで続けていたという天晴れな男でもあった。たとえ一時期であっても、彼のようなアーティストと同じ時間を歩めたことを、ぼんくらは心から幸せだったと思っている。


■キース、BMW Z1をカンバスにする。デュッセルドルフにて 1983年■



■リヨンのキース・ヘリング展 BMW Z1らしきものがありますね♪ 2008年■


nice!(12)  コメント(29)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

鈴木ヒロミツと「の~んびり行こうよ♪俺たちは」 [テレビ]

鈴木ヒロミツ.jpg 今は亡き鈴木ヒロミツのCMといったら、やっぱり昭和46年(1971)に流れた『モービルガソリン』のCMだよね。
 昭和の大らかさというか、今こんなCMを流したら、設定はゲイのカップルみたいだわ、途中で立ちションはするわで、きっと数日で打ち切りだろうな(笑)。お相手のHG風のオジサンは誰だろう? データにも出てないんだけど知ってる?
 鈴木ヒロミツも当時はまだザ・モップスのボーカリストだったのに、3年後の解散が見えていたのか何なのか、既に俳優業が板に付いてるところがスゴい。昭和49年(1974)からTBS系列で放送された『夜明けの刑事』『新・夜明けの刑事』『明日の刑事』の役どころをみても、このCMが後の彼の芸能活動に決定的なイメージを与えたのは確かなような気がする。62才という早過ぎる死は残念だったけど、彼は俳優として、グルメリポーターとして、中日ドラゴンズの熱烈なファンとしてボクらを楽しませてくれたよね。
 CMの挿入歌『気楽に行こう』を歌っていたのはマイク真木。作詞作曲も彼だ。高度経済成長期に翻弄され疲れ果てた日本人にぴったりの歌だったんだけど、今のボクらにも嬉しい曲かもね。

マイク真木.jpg気楽に行こうよ俺たちは
『焦ってみたって同じこと』
のんびり行こうよ俺達は
なんとかなるぜ世の中は
気楽に行こう のんびり行こう
気楽に行こう のんびり行こう

注:『』には『仕事がなければ金もない』『金がなくてもやる気はあるぜ』『バカとよばれてもクヨクヨするな』が入れ替わって2~4番の歌詞になるよ♪


■モービル石油「モービルガソリン」のCM 1971年■


nice!(11)  コメント(35)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

糸居五郎のオールナイトニッポン [深夜放送]

糸居五郎2.jpg「夜更けの音楽ファンこんばんは。朝方近くの音楽ファンご機嫌いかがですか」
 糸居五郎。この名前を知っている平成生まれはほとんどいないだろう。昭和生まれですら、深夜放送に関心のない人は知らないかもしれない。彼こそは放送界のマエストロだったとぼんくらオヤジは思ってるけどね。
 糸居さんはニッポン放送のアナウンサーで、オールナイトニッポンの初代パーソナリティのひとりだった。ぼんくら少年が彼の放送を聞くようになったのが昭和46年(1971)で、放送期間は昭和42年(1967)10月から昭和56年(1981)6月30日までの14年弱(正確には2年強の降板期間があるので12年だけどね)だったから、3分の2は通しで聴けてたんだなぁ。なんてラッキーだったんだろう!
 独特の語り口調はもちろんだけど、何といっても音楽と語りの絶妙なタイミングが糸居さんの持ち味だった。音楽、語り、ジングル、CMの全てが、まるでひとつのリズムでまとめ上げられた作品であるかのように聞こえてくるのだ。先に流した音楽の余韻を次の音楽のイントロに思わせるほどのリズミカルなつなぎ方と、そのリズムを決して崩さずに的確な間合いで挿入される独特な語り。だからといって音楽を流しっ放しにすることなく、時には短いコメントを曲中にスネイクインさせて緊張感を与えることも忘れない。番組とCMの間には、オールナイトニッポンのジングルだけではなく必要に応じて独自に曲片を放り込んで、CMによる番組の分断を極力リスナーに感じさせないような工夫もしていた。
糸居五郎1.jpg なんでこんな芸当ができたかというと、理由はシンプルで、彼がレコードのセットからジングルやCMの挿入、マイクのスイッチング等をすべてひとりで行っていたらなのだ。糸居さんには叱られるかもしれないけど、ある意味、彼は音楽もCMも含めたすべてを素材にコラージュを作りあげていたともいえるような気がする。ただ、それは自己顕示のためなんかじゃなく、純粋に取り上げる音楽の魅力を引き出すためだったし、第一に、番組を楽しむリスナーのためであったとも思う。その証拠に、彼の番組で取り上げられた曲は、単体で聴くより、番組内で流れていた時のほうがはるかにカッコよかった(笑)。
 エンゲルベルト・フンパーディンクの"The Last Waltz"をBGにボクらに別れを告げたこの偉大なDJは、その3年後に帰らぬ人となった。享年63才だった。糸居さんの功績をたたえて、命日となった12月28日は『ディスクジョッキーの日』とされている。


■糸居五郎さんのオールナイトニッポン最終回の様子 1981年6月30日■



■エンゲルベルト・フンパーディンク 「ザ・ラスト・ワルツ」 1980年■


nice!(11)  コメント(64)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。