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サトウのサトちゃん&サトコちゃん [その他]

サトちゃん1.jpg 商店街で、薬局の入り口ほどいろんな人形が置いてあるところもなかったよね。今回はその中のオレンジのゾウさんにスポットライトをあてるよ♪
 ご存知、サトウ製薬の『サトちゃん』だ。オレンジ色のサトちゃんは昭和34年(1959)生まれだから、ぼんくらオヤジと同い年だ。サトちゃんという名前は公募で決まったんだよ。
サトちゃん2.jpg 原型となるゾウのイラストは昭和30年(1955)に登場していたんだけど、会社のシンボルになったのはサトちゃんになってからだ。なんでいろんな動物の中からゾウが選ばれたのかというと、ゾウの平均寿命は70~80才、中には100才を超えるゾウもいて、とてもヒトに近く、しかも長生きの動物だからだそうだ。子供たちから大人まで好感度も高いしね。
サトちゃん4.jpg 東京オリンピックのあった昭和39年(1964)に、サトちゃんは『サトちゃんムーバー』という動く遊具に変身し、子供たちの注目を浴びることになる。わざわざデパートの屋上に行かなくても、近所の薬屋さんに行けばお小遣いで乗れるムーバーがあるんだもん。これは子供の世界にとっては革新的な出来事だった。
サトコちゃん.jpg さらに昭和57年(1982)には、サトちゃんにとって嬉しいイベントが発生する。ピンク色のゾウ、妹の『サトコちゃん』が生まれたのだ。歳の差23才の妹とは親も随分と頑張ったものだけど、まあいいか^^; ただしサトコちゃんが店頭デビューを果たしたのは平成7年(1995)年で、販促グッズのミニチュア人形に甘んじるという下積み期間が13年間もあったという苦労象でもあった。平成9年(1997)には『サトコちゃんムーバー』も誕生し、今やサトちゃんと並ぶ不動の地位を確立している。サトちゃんが健康のシンボルなら、サトコちゃんは長い下積み生活からにじみ出る優しさのシンボルなのだ。
 現在のサトちゃんとサトコちゃんは平成12年(2000)に登場したミレニアム人形で、とくにサトコちゃんは四季折々のコスチュームでお客さんをお出迎えしてくれているよ。時々、注意して見てみてね!


■サトウの薬の横で飛ぶサトちゃんだよ♪ 歌詞と楽譜はこちら



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不幸の手紙がやって来た(BlogPet)

ぼんくらオヤジの「不幸の手紙がやって来た」のまねしてかいてみるね

「…苦かったです」うつむいて捨てるような心配をノックして消え、何の山の父宛にもあった。
昼間だけど、残りはいつもならすぐに息子の底から件の間で、うずたかく積まれて、見せてしまった?
息子のところに自宅の叱り方だったのに分厚いカーテンを増殖させる気だった恐怖はいつもならすぐに遺していつもならすぐに書斎のチェーンメールに向かって、そんなこともの父の束を鼻で不幸のドアを手許に命じるの実は甘かったんだと思うもできないと思うものかのところに来た挙げ句に息子が姿を正視してきたんだろうけど、いつもの以外は、その手紙を確かめたいんだろうけど、その手紙が届いていた束を正視してしまったという、いつもの愚かな机に自宅の底から、父は知って書き物をえながらチェックすると、残りは適わないんだろうけど、なんと手許に退室する父が父のドアを実際に遭うかもしれないと、そんなことも来たか、つい目がモジモジしてそうな■

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

不幸の手紙がやって来た [社会現象]

hagaki .jpg「あなたは運命の手紙の運び手に選ばれました。これと同じハガキを複製して、7人に送ってください。3日以内に送れば、あなたには幸せが訪れますが、送らなかったり、このハガキが届いたことを他人に話せば、必ず交通事故に遭うでしょう」
 ある日、下校していつものように自宅の郵便受けを覗いたら、ぼんくら少年の父宛にこんな文面のハガキが届いていた。他人様の手紙やハガキは決して読んではいけないと言われていたのに、つい目がいってしまったのだ。
 それが『不幸の手紙』だということは知っていた。昭和40年代は、大正時代に始まったとされる不幸(幸福)の手紙の第何期目かの流行期で、小学生の間でもよく知られていたのだ。友達のところに来たという不幸の手紙を実際に見せてもらったこともあった。
 その手紙が、ついに我が家にも来た。しかも父に。こんなイヤなもの、見せずに破り捨てちゃおうか。いや、そんなことをしたら父が交通事故に遭うかもしれない。散々迷った挙げ句に、何の決断もできないまま、ぼんくら少年はいつものように書斎のドアをノックしていた。
 昼間だというのに分厚いカーテンを閉めた暗い洋間に入ると、うずたかく積まれた本の山の向こうで、いつものように煙草の煙が立ち上っていた。
「ぼんくらか…もうそんな時間か。お帰り」
 迷路のような本の山のゴール地点に辿り着くと、ようやく簡素な机に向かって書き物をする父が姿を現した。息子の顔を見るでもなく無造作に手紙の束を受け取ると、ざっと宛名に目を通して、必要と思うもの以外はすぐに息子に渡して捨てるように命じるのが父の常で、その日も父はいつものように煙草を咥えながらチェックすると数通の手紙を手許に遺して、残りは無言で息子に手渡した。父は迷信を鼻で笑う人だから、不幸の手紙なんか気にもしないんだろうけど、もし何かがあったら…。
 いつもならすぐに退室する息子がモジモジしていたのですぐに気が付いたんだろう。強い視線で息子を正視して、
「食べたリンゴは甘かったかい?」
 と訊ねてきた。リンゴ、すなわち禁断の実は甘かったかどうか。禁じられたことをしてどんな気持ちかという、父独特の叱り方だった。
「…苦かったです」
 うつむいてそう答えると、父は失笑した。
「ぼんくらは苦いリンゴがよほど好きと見える。ところでもう一つ聞くよ。災難から逃れられるからと7人を不幸にする父(息子に自分のことをこう言っていた)を、ぼんくらは好きになれるか?」
「…いえ、嫌いになると思います」
「Honni soit qui mal y pense(思い邪なる者に災いあれ[ガーター勲章の銘文])、か。父も不必要にぼんくらから嫌われたくないから、これは捨てなさい」
 ニヤリと笑うと、なんと手許に遺した束から件のハガキを取り出して息子に渡したのだった。ぼんくら少年を支配していた恐怖は忽ちにして消え、身体の底から笑いが込み上げてきた。本気で不幸の手紙を増殖させる気だったのか、それとも息子の愚かな心配を消し去るマジックだったのか。真意を確かめたいんだけど、もうそれは適わない。


■手紙 ~親愛なる子供たちへ~ 歌詞はポルトガル語のチェーンメールに添付されていた詩だそうな■



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母のアイテム - 家庭用編み機 [テクノロジー]

編み機1.jpg たいがいのことは許してくれる母が絶対に触らせてくれなかったものがある。『家庭用編み機』だ。たしかブラザーの編み機だったっと思うけど、大きさも形もまるで電子ピアノかシンセサイザーだった。違っていたのは鍵盤ではなく櫛の歯のように金属の棒が並んでいて、その上を取っ手の付いた弁当箱大の箱が走るようになっていた。
 夜、ふと目が覚めると、どこかでシャーッシャーッっという奇妙な音がするんだよね。半ば寝ぼけた状態で音のする部屋に行くと、裸電球の下でせっせと編み機に向かう母の背中が見えた。駆け寄って、
「やらせて!」
 と頼んでも、
「ダメっ、これはお父さんのカメラよりも高いし壊れやすいの。いま編んでるのはぼんくらのセーターなんだけど、イタズラして壊しちゃったら編みかけのまんまで着てもらうよ。それでもいいの?」
 とイタイケな子を脅すのだった。ぼんくら少年も腹巻き状態のセーターを着せられるのはイヤだったので、それ以上の無理は言わなかった。子供の目で見ても編み機は明らかに複雑な機械で、さすがに勝手に手を出すのははばかられる代物だったしね。
メリヤス編み.png 糸を輪の形にした輪奈(わな)の中に次の輪奈をくぐらせるという手順を繰り返して布状に編むのが、いわゆるメリヤス編みで、これを家庭でお手軽にできるように開発されたのが家庭用編み機だ。昭和29年(1954)に当時は大手ミシンメーカーとして知られたブラザー工業(株)が発売したのがお初としている記述もあるけど、丸越編物機械株式会社(現シルバー精工(株))内で、たった3人の従業員で始めたシルバー編物研究会が昭和27年(1952)乃至は28年(1953)に生産を開始した『矢式1型』が第一号機なのではないかとぼんくらオヤジは思っている。
 当時の初任給1ヶ月分はしたという高価な機械だったけど、収入を得るチャンスがほとんどなかった当時の主婦の中には編み機の販売と月謝がダブルで得られる編み物教室の運営をまたとないビジネス・チャンスと捉える人が少なからずいて、編み機をバイクに積んで売り歩き財をなすウルトラ主婦も出現するなど、編み機フィーバーはアッという間に全国に広まったのだった。そういや世田谷の住宅地にも、至るところに編み物教室の看板が出ていた時期があったな。
編み機2.jpg 編み機は昭和40年代の半ばにピークを迎えたけど、安く質の良い既製服が大量に流通する時代になって販売台数は減少の一途を辿っていく。平成16年(2004)には老舗のブラザー工業が編み機の製造を終了するなど業界の状況は厳しい。でもね、技術者の熱意は今も変わっていないんだよ。パソコンのソフトと連動させて思い通りのイメージで編めるマシンが開発されるなど、編み機は静かに進化を続けているんだ。


■編み機の基本的な仕組みがよく分かる動画だよ♪■



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父のアイテム - エヂソンバンド [その他]

エヂソンバンド1.jpg ぼんくら少年は、机に向かう父の奇妙な姿をしばしば目撃していた。キミョーとはいっても別にパンダの着ぐるみを着たり女装していたわけじゃないよ。頭に不思議なベルトを巻きつけて仕事をしていたんだ。
 ベルトは持ってみるとずっしりと重く、額に当たる部分には1.5センチ角ぐらいの白く光沢のあるタイルがワイヤでずらりと繋がれていた。何故こんな重たいものを付けているのかと尋ねると、
「蓄音機やテレビの真空管が熱くなり過ぎると調子が悪くなるだろう? 車やバイクだってエンジンが必要以上に熱を持つと動かなくなっちゃうのは知ってるよね。人の頭だって一緒なんだよ。頭をフル回転させてると頭がカッカとしてきてボーっとしてくる。だからこれで冷やしながら仕事をしてるんだよ」
 と言っていた。おねだりして付けさせてもらったこともあったけど、重たいわベルトはずり落ちるわでチィとも気分のいいものじゃなかった。
 このベルト、メーカーによって名前はバラバラだったようだけど、一般には『エヂソンバンド』と呼ばれていた。エジソンの発明になるものなのでエヂソンバンドなのだという説明も見受けられるけど、これはどうも怪しい。というのは、いわゆる頭寒足熱をうたった発明品はエジソンの特許には見当たらないからだ。強いて言うなら、形状がいちばん近いのは明治23年(1890)に特許を取っているマグネット・ベルト(pat.457,343)だ。
エヂソンバンド2.jpg 能率研究會なるメーカーが販売していた『科學的健康器 エヂソンバンド』の広告には、確かにエジソンと思しきお爺さんが父のしていたものと同じベルトを付けた写真が載っている。あ、言っとくけどこの写真の真偽のほどは現時点では未確認なので承知しておいてね。つまりエヂソンバンドが仮にエジソンの発明になるものなら、磁気で頭脳の働きを活性化する器具だということになるんだけど、少なくともエヂソンバンドで磁気をうたっているのを確認できたのは教育資料社という会社の『ノーベル磁気健脳器』ひとつだけだ。
 それ以外のエヂソンバンドの広告では全くメカニズムについての説明がないので推測のしようもない。例えば、先に紹介した能率研究會の広告は次のような文章になっている。
 
朝夕十分間の使用で頭脳明快 記憶力増大
頭脳を二倍三倍に使へる

世界の発明王エヂソン翁が生涯愛用された「エヂソンバンド」こそは現代人の必携すべき頭脳の糧、活動の源泉です。日常これを用ふれば頭が冷静になつて記憶力が二倍三倍も増進します。現代は徒らに頭脳を酷使して心身を過労さすのは愚の骨頂です。恐らく科學的に合理的に経済的に頭脳を用ふる者こそ最後の勝利者です。エヂソンバンドはその目的を果す新發明品であります。

成功の女神は健全なる頭脳に宿る

エヂソンバンド3.jpg エジソンが愛用したことにはなってるけど、発明したとは一言も書かれていないし、ましていちばんの売りとなるはずの磁気については全く触れていない。ひとつ面白いのは、類似品が少なからず出回っていたようで「ニセ物ご注意」の文字が躍っている。でもね、よしんばエジソンの発明だったとして、特許料はちゃんと払ってたんだろうね! 広告に特許についての記載は全くないけどさっ。
 何だかよく分からないエヂソンバンドは、昭和30年代に主に受験生の間でもてはやされたものの、昭和40年代には既にすっかり忘れ去られていたようだ。父のエヂソンバンドも、ぼんくら少年が小学校の高学年になった頃には押し入れの中で錆び付いていた。蛇足だけど、磁気で脳が活性化するかというと、少なくとも磁力で血球が向きを変えることは確かで、それによって血流が変化することはあり得るそうだ。ただしこうした現象を起こすには、ピップエレキバンなら100個は貼らないとダメなそうだよ。不謹慎かもしれないけど、仏様の頭はパンチじゃなく、これかも(笑)。


■エジソンの演説 1927年■



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川口浩探検隊!! [テレビ]

「恐怖の人食いザメ!! 南オーストラリア嵐の海に人間が食われる瞬間を見た! 」 
「これが地球の底だ!! 人類未踏! オーストラリア世界最大の地底大洞穴探検!!」
「謎の原始猿人バーゴンは実在した! パワワン島奥地絶壁洞穴に黒い野人を追え!」
川口浩1.jpg この感嘆符だらけのタイトルで何の番組か分かるかな? そうだ! あの『川口浩探検隊』をキミは思い出したか!! 昭和52年(1977)から昭和61年(1986)までの何と9年間!、この日本に究極のヤラセ番組は実在した!!!
 脳の血管が切れるとイヤだからこの辺にしておくけど、川口浩探検隊ほどタイトルがすべてを物語る番組もなかったよね。まるで我が子に、
「さっき、UFOが飛んできて宇宙人に今日のテストの答案持ってかれちゃった! だから見せらんない!!」
 と言われて
「へっへぇ~、そーなんだぁ! 早く答案持ってこいヤァ(怒)!!!」
 てな感じ?(それって何か違うかも^^;)
 川口隊長が癌で亡くなって早、22年が過ぎようとしているのに、この番組はオーゲサな演出とあからさまなヤラセの故に、未だに話題に事欠かない。話題の一部を紹介しよう! 番組を信じるか、巷のウワサを信じるかはあなた次第なのだ!!

●昭和53年(1978)6月28日放送「驚異の人食いワニ・ブラックポロサスを追え!! 恐怖の毒蛇タイパン狩り!2億年の恐竜は存在した!」

巷のウワサ: 毒蛇タイパンは、店で買った蛇を美術班が塗料で塗って作ったのだった!

●昭和55年(1980)5月28日放送「爬虫類王国オーストラリア! 猛毒蛇の大洞窟征服の果てに幻の白いカンガルーを見た!!」

巷のウワサ: 「カンガルーは真っ白にすればいいだけだから楽だった(撮影スタッフ談)」

川口浩2.jpg●昭和58年(1983)6月22日放送「ブラジル秘境! 熱帯の大湿原パンタナル奥地に飢えた人喰いピラニアは実在した! 」

巷のウワサ: 生きた牛がアッという間に食われて骨になるシーンを撮影しようとピラニアの群れに牛を入れてみたが、なんとピラニアは見向きもしない! 困り果てたスタッフは急遽、牛の骨を手配し、いかにもその場で食べられたように見せかけて撮影したのだった!!

●昭和55年(1980)10月22日放送「恐怖の首狩り族! ルソン島未踏の奥地にウロン族は実在した!!」

巷のウワサ: ウロン族は、なんとルソン島の土産店の従業員達を雇って原住民の格好させたものだった!!

●昭和60年(1985)7月24日放送「原始恐竜魚ガーギラスをメキシコ南部ユカタン半島奥地に追え!!」
●昭和60年(1985)7月31日放送「原始恐竜魚ガーギラスをメキシコ南部血塗られた伝説の湖に追え!! -完結編-」

巷のウワサ: ガーギラスの正体は北米産のガーフィッシュで、なんと当時の日本でも鑑賞魚を扱う店で購入出来たのだった!!

川口浩3.jpg 川口隊長自身は、夫人の故野添ひとみさんの著書『浩さん、がんばったね』(講談社 1988)の中で、番組についてこう語っている。
「ぼくたちは、ニュースやドキュメンタリーを作っているのではない。あくまで娯楽番組を提供しているんです」
 川口隊長は『川口浩探検隊』をドキュメンタリーだと言ったことはなかったし、冒険活劇だとも言わなかった。そしてボクらも確かに、なんだかんだと冷やかしながらも水曜の晩にはテレビに群がり、エンド・ロールまで番組を観てしまうのだった。



■川口浩探検隊メモリアル 1■



■川口浩探検隊メモリアル 2■



■ゆけ! ゆけ! 川口浩!! by 嘉門達夫 1984年■


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キミはチョコベーを見たか… [食]

チョコベー2.jpg「キミはチョコベーを見たか…」
 昭和40~50年代に少年少女だった人で、このキャッチを知らない人はまずいないんじゃないだろうか? 昭和47年(1972)に森永製菓が販売を開始した『チョコベー』のキャッチだ。チョコベーはヌガーをチョコレートでくるんだお菓子で、同梱の『ベェシール』が人気を呼んで大ヒット商品になった。
 ベェシールは50種類あって、当初は子供たちをギャグタッチで描いたものだった。それが昭和50年(1975)年には赤塚不二夫のキャラクターが混じるようになり、結局、昭和51年(1976)にはパッケージ、ベェシールともにミッキーマウスとミニーに変更となってしまった。人気の下降によるテコ入れだったわけで、末期には「ブーラちゃん」や「ベーホー」といったオマケも投入したけど当初の人気が戻ることはなく、昭和54年(1979)を最後にチョコべーは市場から姿を消した。
チョコベー1jpg.jpg チョコベーを懐かしく思う人にとって、ベェシールとともに忘れられないのはテレビCMだろう。
 田舎の学校の校庭で、いがぐり頭の男の子が片足立ちで両手を広げ、心の中で
「自分の影を見つめて、パッと空を見る」
 とイメージすると、影がどんどん大きくなって、ついには山よりも大きくなった影法師がチョコベーのキャラクター・イラストになる。時代設定が当時にとってのレトロだから、今観ると、一体いつのCMなのか頭の中がグシャグシャになりそうだけど、制作は昭和48年(1973)だからね(笑)。とっても詩的で印象深いCMで、日本テレビコマーシャル制作社連盟(JAC)による「昭和の名作CM100選」にも選ばれている名作だ。蛇足ながら撮影は茨城県桜川市の紫尾小学校で行われた。


■チョコベー CM 1973年■




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ドングリの季節 [遊び]

ドングリ1.jpg もうじき、あちこちにドングリが散らばる時期だね♪ ぼんくら少年が遊び回っていた世田谷の羽根木公園も、木々が色付く頃には辺り一面にドングリの実が散らばっていた。
 これが遊べる実なんだよね。パチンコの玉にして銃撃戦をやったり、鼻に突っ込んで飛ばしたり(汚いなぁ^^;)。目一杯、袋に集めて、遊具の土管から出てきた友達の上にブン撒いたり、滑り台の上から流したり、大人が目をむくことばっかやってたな^^;
ドングリ2.jpg もちろん(文科省ご推薦の)模範的な遊びもやってたよ。女の子達ともよく遊んでたし。例えばドングリこま。あれってドングリのてっぺんにキリで穴を開けなきゃならないでしょ。家のキリを持ち出して、公園のテーブルで穴開け代行業をやってたんだよね。涙ぐましい努力を重ねてたんだよ、女の子の歓心を買うだけのために(笑)。悪ガキ集団の他の仲間も、こういう時はしおらしく爪楊枝を自宅から盗んで来たり、ボンドをつけてやったりしてたから考えてることは一緒だったと思う。
ドングリ3.jpg 本命の子には、竹ひごを自腹で買ってドングリのやじろべえを作ってあげたりもしたけど、効き目はなかったなぁ。でも、そうやって女の子たちとも楽しい時間を過ごせたのはドングリのおかげだった。11月には小学校の同窓会があって、現在は世界中に飛び散ってしまったかつての悪ガキ集団が十数年ぶりに集結する予定なんだけど、その時は羽根木公園に行ってドングリの銃撃戦をやってみようかな。きっと子供連れのお母さんたちに叱られるぞ(笑)


■ドングリこま 回るときの音が心地よい♪■



■ドングリとネコ(笑) 何気に楽しい!■


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ドブ板と板塀 [その他]

ドブ板と板塀1.jpg「ドブ板って何?」
 衆院選の報道番組を観ていたぼんくら息子達が「ドブ板選挙」という言葉を耳にして発した質問だった。ぼんくらオヤジは絶句したね。平成生まれは「ドブ」という言葉を知らないのだ。
「ドブは側溝。ほら、側溝にコンクリートのフタがしてあったり、鉄製のすのこが渡してあったりするだろう。お父さんが子供の頃は木の板でフタがしてあったんだよ。それがドブ板」
 そこでふと思いついて、
「じゃあ板塀って知ってる?」
「イタベイ? イタリアントマトがイタトマみたいな? イタカジの仲間?」
 やっぱり通じない。木の板で作られた塀だと説明したら大反論が。
「ノコギリで切れちゃうような塀じゃ防犯にならないじゃん! 放火されたりしなかったの?」
ドブ板と板塀2.jpg 昔は人様の塀をノコギリでちょん切ったり放火したりする悪い奴はいなかったんだと、苦し紛れの国会答弁状態で幕を引いてしまったけど、ドブ板と板塀の路地が地上から消え去ってしまったのだとイヤでも思い知らされた一時だった。
 ドブ板はたしかに危ないものだった。なにせ木製だから、小さな子供が乗っても踏み抜いてしまうほど傷んだドブ板があちこちにあったよね。幅寄せ駐車をしたクルマがドブ板を突き破って、往来の大人達が総出で引っ張り上げたりする光景もよく見かけたし(笑)。
 悪ガキだったぼんくら少年達はドブ板のロシアン・ルーレットをして遊んでたし。代わる代わるドブ板の上にジャンプするというたわいもない遊びだったけど、不幸にも板を踏み抜いた暁には、ネットリとしたドブ独特の泥にまみれたズックで帰宅して母親に叱られるという罰ゲームが待ち受けていたので、参加するほうは思いっきり真剣だった。バカだよねぇ、ハナっからやんなきゃいいのに^^;
ドブ板と板塀3.jpg 板塀も木製だったからドブ板並みに危ないものがあったよね。道路側にベラぁっと傾いちゃってる塀なんかがザラにあった。ぼんくら少年は一度、友達の家の庭に板塀を乗り越えて侵入しようとして、その家の板塀2面分を跡形もなく倒壊させちゃったことがある。幸運にも池に落ちたので大した怪我はしなかったけど、その家のお爺さんが丹精込めて育てていた盆栽のいくつかを台無しにしてしまって怒られたのなんの。今ならそんな危険な塀を放置していたほうの責任が問われるところなんだけど、当時は他人様の持ち物を壊したことが第一にいけないことだったので、ぼんくら少年は菓子折を持った両親に耳を引っ張られて被害を被った家にお詫びに行った。
 数ヶ月後に、ぼんくら少年が倒壊させた板塀はブロック塀となって再生した。その頃から急速にドブはU字溝となり、ドブ板はコンクリートのフタに取って代わっていった。空き地に土管が出現したのもこの頃だ。下水などのインフラ整備が急ピッチで進んだ万博の頃を境に、ドブ板と板塀の世界はボクらの前から姿を消していった。


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タグ:ドブ板 板塀
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ぼんくら(BlogPet)

ぼんくら雪之丞が負傷された。
でも、きょうぼんくら雪之丞は泉屋に分割された!

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

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