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B級玩具傑作選 - 銀玉鉄砲 [遊び]

銀玉鉄砲1.jpg 誰だって、ひとつやふたつは人に話せそうにないようなエピソードが少年期にはあるんじゃない?
 ぼんくらオヤジにもあります。ここだけの話だけどね、銀玉鉄砲の弾をね、鼻に突っ込んで取れなくなっちゃったんだよね(^^;;; 近所のお医者さんに連れて行かれたんだけど全然ダメ。お医者さんがメーカーに問い合わせたら、
「放っておけば、そのうち溶けて出てくると思います」
 という返事。様子をみましょうということで一晩おいたら、鼻の奥から半分溶けた銀玉が口の中に出てきた。一件落着の後で、ぼんくら少年がみっちり叱られたのは言うまでもなく。 出てきた時は、
「よかったよかった」
 って、みんな笑ってたのになぁ(T=T)。
銀玉鉄砲2jpg.jpg 日本初の銀玉鉄砲が生まれたのは昭和34年。ぼんくらオヤジと同い年だ。鉄砲の値段が50円で、銀玉が一箱5円だったというから、結構、贅沢なオモチャだった。一発撃つ事にお尻から突き出たレバーを引かなきゃいけなかったんだけど、外見は恐ろしく精巧に出来ていて、今だったら問題になっていたかもしれない。玉は珪藻土を丸めたものにアルミ粉を塗ったもので(道理で溶けたわけだ)、グリップの下部にあるフタを開けて装填した。
銀玉鉄砲3.jpg 昭和40年代になると、発射部が進化して連射が出来るようになったんだけど、やっぱり本物っぽい外見や質感が問題視されるようになって、みかけは逆にチャチになっていく。もっとも、サイレンサーやマガジンを着脱するものも登場して、これを持ってる友達は羨望の的だった。でも、サイレンサーをつけると、出来の悪い鉄砲は射出時にサイレンサーの内部にぶつかって先からポロって落ちてくるものもあって、あれは情けなかった(笑)。マガジンを装填したって、機関銃みたいに連射できるわけじゃなかったし。
 学校の平和教育とは裏腹に、学校の裏山は銀玉の飛び交う戦場だったのだ。


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タグ:銀玉鉄砲
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給食用先割れスプーンの奥深い歴史 [食]

spork1.jpg 給食の時間に使っていて、いま現在、家庭で滅多に使わない食器といえば『先割れスプーン』じゃないだろうか。スプーンの先端がMかWの形状に割れているところからこの名前がついているんだけど、先がこうなっていることで「すくって食べる」というスプーン本来の機能に「突き刺して食べる」役割が加わってますます便利というのが売りだった。現実に学校給食の場ではこれが評価されて、1950年代には給食を実施する全国の小中学校で使用されることになり、今に至っているというわけだ。
spork2.jpg 先割れスプーンの起源は古く、ヨーロッパの中世にまで遡る。もっともトンデもなく使いづらい代物だったようで普及するには至らず、現在のデザインになって量産される19世紀後半までは、存在すら知らない人が大半だったようだ。資料によっては起源の記述にバラツキがみられるけど、これは大量生産を始めたのがイギリスで、特許申請がアメリカで行われたことによっている。
spork3.jpg 面白いのは、プラスチックの先割れスプーンが1970年代の初めにケンタッキー・フライドチキンによって導入されていることだ。コールスローが食べやすいという点を評価されたっていうんだけど、これは確かに先割れスプーンの特徴をよく表しているエピソードだといえるだろう
 ボクらの慣れ親しんだ先割れスプーンは、子供たちが箸を上手く使えなくなった一因として悪役視され、現在では学校から姿を消しつつあるとのこと。最近の研究では、この因果関係は否定されているようだけど、一度定まった流れは止めようもなく。独特の形状故にスープなどの汁物は食べ辛く、お皿に顔を近づけて食べる「犬食い」を誘発させるとの批判もあって、復権はいよいよ難しくなっているようだ。
 こうして給食の世界では悲しい思いをしている先割れスプーンだが、実は日本で、しかもぼんくらオヤジの住む名古屋発で再ブレークしつつあるのだ。
spork4.jpg 火付け役は、名古屋に本社を置くファーストフードチェーンの『スガキヤ』だ。スガキヤでラーメンを注文すると、スープスプーンの先端にニュッとフォークの歯が突き出た『ラーメンフォーク』がついてくるんだけど、これが海外でどえりゃー人気なんだわ! 割り箸がなくてもラーメンが食べられる環境に配慮した食器というコンセプトもウケて、たとえばニューヨーク近代美術館のミュージアムショップ「MoMA Design Store」なんかでは大人気の定番商品になっているのだ。形や活躍の場をビミョーに変えながらも、ボクらの思い出は現在も生き続けている。


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ケンとメリーのスカイライン [テレビ]

スカイラインC110型.jpg 日本のCM史に間違いなく名を残したと言っていいCMが『ケンとメリーのスカイライン』だ。日産自動車と合併する以前の富士精密工業(後のプリンス自動車)が1957年に生産を開始して以来、1972年に登場する第四世代のC110型に投入されたCMが『ケンとメリー』バージョンだった。
 先代のC10型、いわゆる『ハコスカ』が『愛のスカイライン』というイメージ・キャンペーンを張っていたのを継承する形で誕生したCMで、クルマといえば男の甲斐性みたいな古くさいイメージを払拭して、「クルマは彼と彼女のもの」っていう新たなコンセプトを、車体の形状を一新したスカイラインに被せたわけだ。恋人同士のさりげない日常が主体で、それに花を添えるようにスカイラインが登場するという、イメージCMのパシリだったと言える。ホントはハコスカ時代にも似たようなCMがあったんだけど、時期尚早だったのか何なのか、こちらは噂にもならなかった。不思議だよね。
ケンとメリー2.gif ケンとメリーのCMは大評判となり、放送された5年を通じて、なんと16ものバージョンが制作された。恋人を演じたのは諸説入り乱れているようだけど、どうやら初代が陣内ジミーとダイアン・クレイ、そして(陣内ジミーが亡くなったため[?])2代目が前田俊彦とテリー・ミラーということらしい。ケンについてはマイケル富岡説と蟇目良説もあったんだけど、マイケル富岡は『ジャパン』で、蟇目良は『ハコスカ』だから、たぶんこれで正解だと思う。二人の様子がとっても自然で感情移入がし易かったせいか、はたまたキャスティングの変更に妄想を膨らませたせいかはともかく、ぼんくらの小学校では、
「あの二人はホントの恋人同士で、実は心中していた」
 なんてウワサがまことしやかに囁かれていた(笑)。これを聞いて泣き出す女の子もいたんだから、それだけ人気があったってことなんだなぁ。相合い傘を流行らせたのも、このCMだったし。
 CMの大ブレークでC110型は『ケンメリ』と呼ばれ(『ヨンメリ』は4ドアセダン)、パトカーとしての採用が決まったり、スカイライン初の輸出車となるなど、押しも押されぬ名車の地位を確立し、77年に第五世代『ジャパン』の登場をもって、その役目を終えた。スカイライン自体はその後も進化を遂げながら現在に至っているけど、CMが注目を浴びたのは『ケンメリ』までだった。
ケンとメリー1.gif あれから30年以上が経つ。でも、BUZZのメロディをBGに愛を育むケンとメリーを見ていると、ぼんくらオヤジは少年時代を鮮やかに思い出す。スカイラインの生き字引だった友達のこと。黒板に相合い傘を書いて廊下に立たされたこと。お茶の間に流れる恋人の姿にバツの悪そうな顔をしていた父の姿。憧れのケンメリを買って得意気に洗車していた近所のお兄ちゃん。今でもケンとメリーは、忘れていた引き出しをいくつも引っぱり出してくれるのだ。





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不思議に流行った『紙せっけん』 [雑貨]

紙石けん1.jpg ロケットペンシルのように「なんであんなに夢中になったんだろう?」ってものは、ほじくり返せばいくらでも出てくるよね(笑)。たとえば『紙せっけん』。
 当時の紙石けんは、透明の固形石けんを薄く削いで作った原始的なもので、ちょっと力を入れただけでバラバラに砕けてしまう代物だった。いろんな色があって、香りもいろいろだったと思うんだけど、それがメーカーによる違いだったのか、同じメーカーが複数の香りのものを生産していたのかまでは思い出せないなぁ。覚えてる人は教えてね。今嗅いだら相当にチープな匂いなんだろうけど、女の子の中には石けんとして使わずに、ランドセルにしのばせたり、ノートや教科書に挟んで香りを楽しむ子も結構、いたよね。
紙石けん2.jpg 種類がいろいろだったからなんだろうな、女の子同士では、よく交換してたよね。女子と石けんの交換ができる男子は、女子に人気がある子として一目置かれてたし(笑)。苦労して手に入れたレアな紙石けんを献上して、相手の気を引こうと涙ぐましい努力をする子もいたし。もちろん手も洗ったんだけど、男女入り乱れて紙石けんを集めているうちに、石けん本来の目的とはまったく違う用途に使われるようになっていったのが『紙せっけん』ブームの面白いところだった。
 台紙に24枚の紙石けんがついて30円。まあ、お小遣いで手の届くギリギリのところだったかな。ブーム自体は香りのついた消しゴムなんかも登場していつの間にか終わっていたんだけど、紙石けんはその後も駄菓子屋や雑貨店の定番商品として生き延び、現在もカンタンに手に入れることができる。ブームも度々発生しているようで、現在中3のぼんくら娘が小学生4年生の頃に紙石けんを集めていて驚いたことがある。
紙石けん3.jpg 最近では、ウイルス対策用の携帯石けんとしても評価が高まっているというから、もっとビックリしてしまう。仕様も従来のものから、特殊加工を施した絹の繊維を混ぜて本当の紙のように折り曲げられるものまで多様化している。ボクらの流行らせた「遊び」は、ひょっとするとパンデミックから世界を救うことになるかもしれないのだ。


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『キャプテン・スカーレット』を覚えてる? [テレビ]

キャプテン・スカーレット.jpg 一世を風靡したイギリスの人形劇『サンダーバード』と、実写版サンダーバードに近い構成の『謎の円盤UFO』の間に『キャプテン・スカーレット』という人形劇があったのを覚えてる人、いる?
 パッと見には『サンダーバード』そっくりなんだけど、パネルを操作する手なんかに実写が盛り込まれていて、ホントに人形と実写の中間だったことがよく分かる。
 あまり知られてないことなんだけど『サンダーバード』はアメリカでは全然ウケず、失地回復にの制作チームが満を持して送り込んだのが『キャプテン・スカーレット』だった。でも、肩に力が入り過ぎたというべきか、内容が恐ろしくややこしくて、アメリカはおろか前作が爆発的にヒットした日本でもまったく人気が出ず、キャラクター製品のライセンスを取得していた模型メーカーのイマイと玩具メーカーのバンダイが経営危機に陥るというオマケまでついてしまう。結局、イマイは倒産しちゃったけどね。
 台詞に連動して目や唇を動かす『スーパーマリオネーション』という当時としては画期的な技術も、『キャプテン・スカーレット』の失敗に引きずられるように終焉を迎える。日本の放送時期でいえば1966年の『サンダーバード』に始まり『キャプテン・スカーレット』で終わる68年までのたった2年間のことだったけど、スーパーマリオネーションはボクらを心から楽しませてくれた。そして大人になった今でも鮮やかに心に刻み込まれている。


■オープニング日本語版■



■オープニング英語版■



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大量消費時代の申し子 - ロケットペンシル [文具]

ロケットペンシル1.jpg 何であんなものに憧れたんだろう?
 子供の頃にもの凄いオーラを感じていたのに、大人になるとガラクタにしか思えないものはたくさんある。これは当たり前のことだし、大人の価値観でもって子供の世界をとやかく言うのは野暮だ。とはいうものの、やっぱりダメ出しをしていいものがあるんだよなぁ(笑)。
「ありゃないよ」
 って言いきれるもののひとつがロケットペンシルだ。これはプラスチックの台にセットされた芯が鉛筆状の筒にいくつも入っていて、芯先が丸まったら、それを引っぱり出してお尻に突っ込めば新たな芯がにゅっと出てくるというナイフ不要の筆記用具だった。当然、丸まった芯は使い捨てられるわけで、すべてのユニットを使い切ると本体ごとお役御免となる。ぼんくらオヤジの両親は健全にも、
ロケットペンシル2.jpg「こんな無駄の多い製品を使うこと相成らんっ」
 と、にべもなく息子の購入申請を却下したんだけど、息子のむくれたのなんの! だって周りの友達はフツーに使ってたんだもん。それにこういうのを買ってもらえる子たちは、アーム筆入れみたいな「高級品」も必然的に持ってるわけで、もうこうなると二重三重に差をつけられたような屈辱感と悲壮感にさいなまれちゃうんだよなぁ(^^; だから、しつこくも「いずれはオイラも」と入手の機会をうかがってたんだけど、ある日、先生のツルの一声で、このねじくれ曲がったぼんくら少年の心はビンタをくらうことになった。
「鉛筆も削れない不器用な子にならないためにも、学校でロケットペンシルを使うのは止めましょう」
 かくしてぼんくら少年の野望はおろか、少なくともぼんくら少年の世界から、突如としてロケットペンシルは姿を消してしまったのだ。実にあっけない幕切れだった。
 ロケットペンシルの当時の値段は100円。鉛筆だったら1本10円の時代だった。現在の価値に引き直すと400~500円はする使い捨て商品なわけで、やっぱりとんでもない贅沢品だったのだ。それを欲しがった子供たちと買い与えた大人たち。シャープペンシルはまだ普及していなかったし、資源の無駄使いを罪悪視する時代ではなかったことを差っ引いても、現在の環境破壊と温暖化につながる「狂気」をロケットペンシルに覚えるのは大袈裟すぎるだろうか?

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B級玩具傑作選 - スパイ・セット [遊び]

spy1.jpg 水に溶ける謎の紙。書いても字が透明なシークレット・ペン。指紋検出キット。スパイ手帳にスパイ・バッジとIDカード。スパイ変装セット。女の子は見向きもしないけど、男の子にはどうしようもなく魅力的なオモチャの代表格がスパイごっこアイテムだった。ぼんくらオヤジは実のところ忘れてたんだけど、コメントを頂いて「!」と思い出したんだよね(soltyさんに感謝♪)。
 水に溶ける紙は、正式名称もそのものズバリの『水溶紙』。元々、紙は水に濡れると繊維が離れるという性質があるんだけど、この結合の強さを極限まで低く抑えたことで誕生した紙なのだ。
 シークレット・ペンは、現在ではいろいろなタイプが出回っているけど、当時は無色透明のインクで書き込んだものを、後で別の薬液を塗って文字を浮き上がらせるというあぶり出し方式か、さもなければ書いた文字が水で消えるという、いずれも化学反応を利用した原始的なものだった。
 指紋検出キットは、銀粉を使ってホントに指紋が検出でき、しかもシートに転写保存できるという正真正銘の本物が採用されていた。ぼんくらオヤジだけかもしれないけど、これってスパイというよりも警察ごっこで重宝したアイテムだったような気がする。本物には違いなかったけど、家で遊ぶとテキメンに辺りを汚すので、親にはいちばん嫌われたと思う。
 スパイ手帳は、セットに同梱されたアイテムの使い方をイラストで解説したもので、セットによっては手帳に水溶紙やスパイの心得集、モールス信号表、速記文字表なんかが付属していた。表紙のデザインは様々だったけど、ドクロやハーケンクロイツなんてオドロオドロしいものが主流だった。アメリカの警察手帳風のものもあったような気がするけど、記憶が定かじゃないなぁ。
spy2.jpg 個人的にいちばん笑えたのがスパイバッジとIDカードだった。バッジは、たいていはケバケバしい色に塗ってあって、横文字で"SECRET SERVICE"なんて刻印されてるし、IDカードに至っては"SPY LICENSE"なんて文字がデカデカと印刷されていて、広げると「キミを一級スパイと認定する」なんて嬉しくも無意味なお墨付きと、何故か住所氏名欄がご丁寧にも用意されてるんだよね。これじゃ「おいらはスパイです」って宣伝して回ってるようなもんで、どうもね(笑)。子供心にも「こいつぁヘンじゃないっすか!?」って可笑しくて仕方がなかった。
 変装キットに至っては、メガネだの付けマツゲだの付けヒゲだの、ウケ狙いのパーティ・グッズそのものだった(笑笑)。映画『ピンク・パンサー』で、クルーゾー警部がよせばいいのにやる変装と質的には渡り合える代物だったから、ぼんくら少年にとってはいちばん好きなアイテムだったかもしれない。風呂敷や父の背広を持ち出しちゃ「変装」に精を出して、近所の大人を脅かしたり笑わせるのが楽しくて仕方がなかったんだよね。自分が遊ぶのに飽きると、その辺のネコを捕まえてヨレヨレになった付けマツゲを貼ったり。いやぁ~面白かったなぁ!
 よく考えてみれば、スパイ・セットは『冷戦』という時代を色濃く反映した遊びだった。核戦争の危機が絵空事ではなく、果てしなく続くと思えた軍拡競争が各国の相互不信を煽る中で、あたかもそれを現実のものとは認めたくないかのように、大人は『007』に喝采を送り、子供たちは『スパイ・セット』に夢中になった。そしてボクらがスパイ手帳を半ズボンのポケットに突っ込み、BB弾を撃ち合ってるその陰で、北朝鮮による日本人の拉致が始まったのだった。





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空き地に土管はあったのか? [漫画・アニメ]

土管1.jpg ドラえもんに登場する土管のある空き地は本当にあったのか?
 これは、ぼんくらオヤジがずっと疑問に思っていたことだ。少年時代に東北の田舎町と東京を行き来していたぼんくらオヤジは、昭和40年代の大都市と地方の町の両方で遊んでいたんだけど、土管の置いてある空き地の記憶がないんだよね。
 東京に絞って話をするけど、ぼんくらオヤジの縄張りは、南北は井の頭線永福町駅と東松原駅、東西は京王線下高井戸と代田橋駅、大雑把にいえば明大前駅を中心に半径1キロ圏内のエリアに羽根木公園を足したものだった。この辺りは田畑が戦後、急速に宅地になった地域で、昭和40年代には一戸建ての住宅とアパートがぎっしりと建ち並び、甲州街道以外は建築基準法施行以前の4メートルに満たない幅の道や路地が住宅街を網の目のように走っていた。空き地はあったけど、よくこんなところに家や庭があったなぁと思えるほど狭い土地ばかりで、ドラえもんで描かれている土管を2、3本も置けば、遊ぶスペースなんて無くなっちゃったろうな(笑)。もっとも羽根木公園の周辺にはまだ宅地じゃないところもあったけど、そこは空き地じゃなく畑だった。いったい、土管のある空き地は何だったんだろう?
土管2.jpg ひとつだけ思い当たるのは、ドラえもんが登場した昭和40年代は、下水道の整備拡充が急速に進んだ時代だったことだ。汲み取り式のトイレが水洗式に取って代わったのはこの時期だったのだ。だから、資材置き場や工事現場には当たり前のように土管が置かれていたんじゃないだろうか。ただ、ぼんくらオヤジの記憶では、こうした場所で子供が遊ぼうとして侵入すれば、たちまち現場のおじさんたちに追い払われたような気がする。工事現場は言うまでもなく、資材置き場も重量物が不安定に仮置きされていて、上に乗って騒いだり隙間に潜り込んだりするのは、大変危険なことだったのだ。乗っていた土管が転がり出し、下敷きになって男の子が亡くなるという痛ましい事故も現実に発生していた。こういう危険な場所が子供たちを魅了することを藤子・F・不二雄が把握していて、敢えてマンガで再現したのだという説もあるみたいなんだけど、なんか釈然としない。やっぱり藤子・F・不二雄は、空き地の土管で遊ぶ子供たちを日常、目撃していたんだろうか。
 待てよ、そういやぼんくらオヤジも土管で遊んだ記憶があるぞ…。
土管3.jpg でも、これは羽根木公園にあった遊具だなぁ。ほら、コンクリート製の小山で土手っ腹に土管が埋め込まれれるのがあるでしょ。あれなら随分と世話になったよ。中で友達と駄菓子を食べたり、マンガを回し読みしたり、にわか雨の時の避難場所にしたりして。でも、状況設定が違いすぎるよなぁ。
 謎は深まるばかりだけど、新生『ドラえもん』にすら登場するお馴染みの光景を、平成生まれの子供たちはどう受け止めているんだろうか。試しにぼんくら息子たちに聞いてみると、
「え? そー言われりゃ、こんな場所は見たことないけど、全然気にならない。だってあり得るでしょ」
 という答えが返ってきた。知らないのにあり得ると世代を超えた子供たちが思える舞台セットってことなんだろうか。やっぱり藤子・F・不二雄は、とんでもない漫画家だったのだ。


■初代ドラえもん(昭和48年バージョン)■



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危ないバラ線だって気にもしなかった時代 [テクノロジー]

バラ線1.jpg 有刺鉄線、いわゆるバラ線は、ボクらが昭和の光景を思い出すには欠かすことのできない小道具だ。
 中太の鉄線に先の尖った鉄線が一定間隔をおいて巻き付いているという物騒な代物で、私有地や立ち入り禁止区域に人や動物が入ってこないように張り巡らされていた。今こんなものを住宅地で使おうものなら大騒ぎになるだろうな(笑)。
 バラ線の歴史は意外に古く、原型は1865年にフランスで開発されている。現在の形状は1874年にアメリカの発明家ジョセフ・グリッデンによって考案されたものだ。西部開拓史とは切っても切れない関係があって、テキサス州にはバラ線の博物館まであるそうな。バラ線の『バラ』に薔薇を当てる人がママいるけど、これは間違い。バラ線の『バラ』とはイバラのバラを指す。薔薇のトゲを連想しての勘違いだろうから、当たらずとも遠からずなんだけどね。
バラ線2.jpg バラ線の全盛期に少年少女期を過ごした人なら、一度や二度は服やズボンやスカートを引っかけてかぎ裂きを作っちゃったり、腕や足に引っ掻き傷をこさえた覚えがあるだろう。なんでリスクを冒してくぐるのかと聞かれたら、そこにバラ線があるからとしか答えようがないんだけど、当時は子供の世界を邪魔するバラ線がほとほと左様に張り巡らされていたのだ。
 それでもバラ線で失明したとか、命にかかわる大ケガをしたという話はついぞ聞かなかったと思うんだけど、そんな話、聞いたことある? 別にバラ線を奨励するわけじゃないけど(笑)、今って、ちょっとでも危ないってことになると、何でもかんでも子供の周囲から排除しちゃうでしょ。あれって妥当な対処なのかなって疑問に思う時に、いつも思い浮かぶのがバラ線なものだから。





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グループサウンズは消えて今を作った [音楽]

 ぼんくらオヤジが小学3年生の時だったと思う。当時住んでいた東北の田舎町でグループサウンズのコンサートがあった。町の体育館にゴザを敷いただけの会場に、ザ・スパイダース、ザ・ジャガーズ、ザ・テンプターズという当時の人気バンドが来たんだから、これは大事件だった。それでも普通の有料コンサートじゃなく、町の商工会が発行するお買い物クーポン券がチケット代わりだったせいだろうね、集まったのは親からチケットをせびり取ってきた小中学生がほとんどで、まるで学芸会みたいだった(笑)。
GS2.jpg ぼんくら少年は、A面に『いつまでもどこまでも』、B面に『バンバンバン』の入ったドーナツ盤(←な、懐かしい)が宝物だったという大のスパイダース・ファンだったから、当然のように親からチケットを巻きあげてコンサートに行った。「ファンの熱気」とゆーよりもただ単に蒸し暑く、田舎らしい控えめでシャイな「キャー」が散発的に漏れるというウルトラに盛り下がった状態で、いきなりスパイダースが登場。トリを努めるはずのバンドが何で初っぱなに出てきたのかというと、じきに次の会場に移動に移動する必要があるとのこと。実際に数曲歌っただけで、スパイダースはいそいそと会場から姿を消してしまった。子供心に「随分とナメられたもんだ」って思ったなぁ。当時って、地方でしかも田舎となると、今じゃ信じられないぐらい大都市部との量的質的な格差があった。
GS3.jpg「顔は出したんだから、これで勘弁してよね」
 ショー・ビジネスにあるまじき態度が露骨にとれたのも、そんな背景があったからだろう。
「後はボクらが一生懸命やりますから、楽しんでいってくださいね」
 会場の不穏なムードに気付いたジャガーズのメンバー(たぶん故岡本信)が声をかけ、実際にテンプターズと熱演もしてくれたのでコンサートは無事に終了したんだけど、以降、ぼんくら少年がグループサウンズに熱をあげることは二度となかった。
 寺内タケシが生みの親といわれている和製英語『グループサウンズ』は広く受け入れられた音楽用語だけど、その実、音楽性はどうしようもなくバラバラなものだった。火付け役となったジャッキー吉川&ブルーコメッツとザ・スパイダースからして、なんでこれが同じミュージック・シーンなんだろうね。
GS1.jpg 1966年のビートルズ来日以降に次々と誕生したグループサウンズはもっとグシャグシャで、ザ・ワイルドワンズやザ・サベージのようなフォーク・ロック・グループから、ザ・タイガースやザ・テンプターズのようなロックバンドまでをひっくるめてグループサウンズと呼んでいた。早い話が、一般的な歌謡曲とは肌色の違う歌謡バンドの総称だったのだ。
 いい加減さの故かどうかは知らないが、グループサウンズは1970年を境に自然消滅していく。それでもバンド解散後のメンバーから、歌手やミュージシャン、俳優、タレント、作曲家、音楽プロデューサー、芸能事務所経営者としてその後の芸能界を支える人材を輩出したのも事実で、戦後の芸能界を方向付けるムーブメントであったことに違いはないのだ。


■ザ・スパイダース■



■ザ・タイガース(埋め込み不可につき下のリンクから飛んでください)■

http://www.youtube.com/watch?v=PcPUUaasrBo



■ザ・テンプターズ(埋め込み不可につき下のリンクから飛んでください)■

http://www.youtube.com/watch?v=WxRkjttbZMY



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